第1話:「観測者は放課後に唐突な事実を告げる」
四月下旬。
豊科の平野部に位置する豊麦高等学校の旧校舎三階、一番奥にある放送室。
西日が斜めに差し込むその部屋には、いつも古い埃と機材の熱が入り混じったような特有の匂いが漂っていた。
黒いパーティクルボードで仕上げられた壁には、歴代の放送部員が残した落書きや剥がしかけのステッカーがこびりついていて、蛍光灯の片方がわずかに点滅を繰り返している。
窓の外には、遠く夕日に照らされた標高三千メートル級の北アルプスが、絵画のようにくっきりと稜線を浮かび上がらせていた。
「あー、あー。マイクテスト。本日の下校放送まで、残り十五分」
ミキサー卓の前に座り、俺——明智傑は、黒いスポンジの被さったマイクに向かって確認の声を落とした。
レベルメーターの緑色のランプが、俺の声に合わせて小刻みに跳ねる。
ヘッドホンからは、少しだけノイズの混じった自分の声が返ってくる。
異常なし。
今日も機材は正常に稼働している。時計の針は、俺が事前に設定した本日のスケジュールを分単位で正確になぞっていた。
窓の外からは、グラウンドで部活に励む野球部やサッカー部の声が、遠い環境音のように響いてくる。青春の汗、友情、努力、そして勝利。
物語の主人公にでもなったかのようにグラウンドを駆け回る連中の声を、俺は防音性の低い窓ガラス越しに、ひどく冷めた頭で聞いていた。
俺の人生は、年単位の目標と日単位のスケジュールで完璧に設計されている。
放送部を選んだのも、そのためだ。
決められた時間に、決められた原稿を読む。感情もノイズも介在しない、この作業が——俺の「日常の設計」に最も適していた。
劇的な運命も、運命的な出会いも、不確定要素でしかない。
現実の世界において「感情」や「恋」といったノイズは、正しい選択を阻害する無駄なエラーだ。だから俺は、グラウンドで汗を流す「当事者」よりも、この狭くて薄暗い放送室から校内へ音を届ける「裏方」のほうが性に合っていた。
誰かの人生を劇的に彩るつもりはない。
ただ、決められた時間に、決められた原稿を読む。事実だけを、声に乗せて伝える。それが一番、俺の計画を邪魔しない心地よい時間だった。
「……さてと。今日の原稿は、と」
ヘッドホンをずらし、首から下げたままパイプ椅子に深く背中を預ける。
パイプの軋む音が、静かな放送室に響いた。手元のバインダーには、生徒会から回ってきた今日の連絡事項が挟まれている。
落とし物の呼び出しと、下校時刻の徹底。いつも通りの、味気ないテキストだ。
ペンの先でパラグラフをなぞりながら、頭の中で所要時間を計算する。
三十五秒。
完璧だ。
余白のない放送は、余白のない計画と同じく、俺に静かな満足感をもたらす。
『——彼は今、自らが構築した完璧な予定通りに、退屈な原稿を眺めている』
「……ん?」
ふと……。
鼓膜のすぐ裏側——いや、脳のど真ん中に直接触れるような、奇妙な感覚があった。
声だ。
女性の声。
透き通るようにクリアで、言葉の端々まで正確に整いすぎていて、それでいて不気味なほど一切の感情がこもっていない、淡々とした声。
女の声が、俺の頭の中に直接響いている。
それだけははっきりとわかった。
悠でも、準備室の誰かでもない。
男の声帯では絶対に出せない、あの透き通った音質。
「……悠、お前か? 変なイタズラはやめろ。どうやってミキサーに割り込んだ」
俺はバインダーから顔を上げ、部屋の隅にある古いソファを睨みつけた。
そこにいるはずの親友——いつも放送室に入り浸っては漫画を読んでいる、黒田悠の姿を探す。
だが、ソファには誰もいない。
放り出されたままのジャンプが、西日を浴びて虚しく開かれているだけだ。
そういえばあいつは今日、日直だから遅れると言っていた気がする。
じゃあ、今の声はなんだ?
スピーカーからのノイズか? それとも、隣の準備室に誰かいるのか?
『彼は現在、室内に自分以外の人間がいると疑い、周囲を警戒している』
「っ……!」
ビクリと、肩が跳ねた。幻聴じゃない。はっきりと聞こえた。
だが、音の出所がわからない。
右からでも左からでもなく、頭の真ん中から直接鳴り響いているような、絶対的な定位感。それに、なんだこの喋り方は。
「誰だ。どこで見てる。カメラでも仕掛けたのか?」
俺は椅子から立ち上がり、放送室の天井や、機材の裏側に視線を走らせた。
イタズラにしては手が込みすぎている。状況をリアルタイムで実況されているような、この薄気味悪さ。
『周囲の探索行動。しかし、無意味です。室内に物理的な干渉元は存在しません。彼は今、見えない相手に対して軽い焦燥感を抱き始めています』
「……お前、俺の考えてることがわかるのか?」
声が震えた。
冷静なふりをしようとしたが、無理だった。
行動を実況されるだけならまだしも、「焦燥感を抱き始めている」という内面まで正確に言語化されたのだ。
まるで、俺の心の中の台本を、あらかじめ読まれているような。
『肯定します。私は観測と記録を行う存在。あなたの行動、思考、そして未来。それらすべては、すでに記述された事実として私の手元にあります』
「観測と、記録……? 記述された事実だと?」
俺は机に両手をつき、虚空に向かって睨みつけた。
新手の電波系か何かのドッキリか? いや、そもそも声の質が異常だ。息継ぎの音がない。声の揺らぎが一切ない。
肺も、喉も、声帯も——そういったものを一切持たない存在が、音を作り出しているような。まるで、極限まで精度を高めた人工音声のような、完璧な「発声」だった。
——もし、いつかこの声が「息継ぎ」をするようになったとしたら、それはどういう意味を持つのだろう。
そんな馬鹿げた想像が、頭の隅をかすめた。俺はすぐに打ち消した。そんな未来が来るわけがないと、その時は思っていた。
——そして俺は、その「馬鹿げた想像」を打ち消したことを、ずっと後になってから後悔することになる。
『はい。私は、正確な言葉で事実のみを語ります』
「ふざけるな。どこにいる。姿を見せろ」
『姿を見せることは不可能です。私は、実体を持たない概念的な存在——強いて言語化するならば、あなたの物語を語るための「声」そのものですから』
「俺の、物語……?」
馬鹿馬鹿しい。物語だと? すべてを計画で支配してきた俺の日常に、物語なんて不確定要素が入り込む余地はない。
「悪いが、人選ミスだぞ。俺の人生に物語なんて大層なもんはない。毎日同じ時間に放送のスイッチを入れて、原稿を読むだけの、ただのモブだ」
『訂正します』
すかさず、声が割り込んできた。その言葉の響きには、一瞬の隙も、迷いもなかった。
『あなたはモブではありません』
「……それはおかしいだろ。お前の声を聞いた人間が全員、物語の主人公になるのか」
『いいえ。私の声を聞けるのは、あなただけです』
「……なぜ俺だけなんだ」
『それが、あなたの問いに対する唯一の答えです。あなたがモブでない理由は、「選ばれた」からではなく——「その問いを発した」からです』
俺は返す言葉を失った。
窓の外では、グラウンドの声が相変わらず響いている。
だが、さっきまでと同じ声のはずなのに、なぜかひどく遠くに聞こえた。
『あなたが今、この声を認識したという事実。それこそが、物語が開始された明確な観測点です』
「……勝手に決めるな。俺は、巻き込まれる気なんてない」
強がって見せたが、手のひらにはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
『彼の強がりは、現時点での防衛本能によるものです。しかし——』
声は、あくまで淡々と。
けれど、決定的な宣告を下すように、脳裏に響き渡った。
『彼はまだ知りません。この奇妙な声の主に対して、やがて自分が、取り返しのつかないほどの感情を抱くことになる未来を』
「——なっ」
息が詰まる。感情を抱く? 俺が? 最も避けるべき不確定要素である感情を、この顔も知らない声だけの存在に?
「……ふざけんな。誰が、お前なんか」
『繰り返します。これは、すでに記録されている事実です』
そこで、声はふつりと途切れた。あとに残されたのは、遠くから聞こえるグラウンドの喧噪と、アンプの微かなハムノイズだけ。
「……っ」
俺は、無意識のうちに荒くなっていた息を吐き出し、ゆっくりとパイプ椅子にへたり込んだ。時計の針が、下校放送の五分前を指している。日常は、何も変わっていないように見える。だが、確かな異物が、俺の中に根を下ろしてしまった。
——ジリリリリリリリリッ!
唐突に、旧校舎の廊下から無機質な予鈴のベルが鳴り響いた。下校時刻の五分前を知らせる合図だ。
「……っ」
ビクッと肩を震わせた俺は、乱れた呼吸を無理やり腹の底に押し込んだ。
時計を見る。
放送のタイミングだ。頭の中に響いたあの「予言」——『取り返しのつかないほどの感情を抱くことになる』という、ふざけた妄言の余韻がまだ耳の奥にこびりついている。
だが、今はそれどころじゃない。スケジュールをこなさなければ。
俺はミキサー卓のスイッチを弾き、マイクのフェーダーをゆっくりと押し上げた。
カチリ、と小さなノイズが乗り、校内のすべてのスピーカーが起動する気配がする。
「……あー、生徒の皆さんに連絡します。まもなく、本日の最終下校時刻となります」
努めて平坦に。
いつも通りの、無感情な放送部員の声を作る。
手元の原稿に視線を落とし、文字だけを追う。余計なことは考えるな。
さっきのはただの幻聴だ。最近、少し睡眠不足だっただけだ。
「部活動中の生徒は、速やかに片付けを行い、完全下校に協力してください。繰り返します——」
『彼は今、動揺を隠すために日常のルーティンへと逃げ込んでいます』
「——っっ!」
原稿を読む声が、一瞬だけ盛大に裏返った。幻聴じゃない。
マイクを通した自分の声とは完全に別のレイヤーで、あの透き通った、完璧に温度のない女性の声が、脳髄に直接響いたのだ。
『心拍数の上昇を観測。彼は無意識のうちに、声帯の筋肉を硬直させました。放送事故のリスクが三十二パーセント上昇しています』
(黙れ……っ!)
声に出さず、頭の中だけで怒鳴りつける。
だが、声はどこ吹く風で——いや、そもそも感情という概念が存在しないかのように、淡々と事実だけを並べ立てる。
『訂正します。私は事実を述べているだけです。黙るべき合理的理由が存在しません』
「……っ、本日の放送は以上です。戸締まりを忘れずに」
逃げるようにアナウンスを締めくくり、叩きつけるようにマイクのスイッチを切る。プツン、とスピーカーとの接続が切れた瞬間、俺はパイプ椅子から立ち上がり、頭を抱えた。
「なんなんだよ、マジで……」
頭がおかしくなったのか。それとも、何かの電波を受信しているのか。額に滲んだ汗を手の甲で拭ったその時——。
バンッ!!
「わりぃ傑! 日直のゴミ捨てで手間取った!」
乱暴に放送室のドアが開け放たれ、夕暮れの廊下から一人の男子生徒が転がり込んできた。少し長めの茶髪を揺らし、だらしなく着崩したブレザー姿。
親友の黒田悠だ。
あいつは息を切らしながら、いつもの指定席であるボロボロのソファへとダイブした。
「あー、疲れた。担任のヤツ、燃えるゴミとプラゴミの分別にうるさすぎんだよ。俺の貴重な青春の放課後が五分も奪われた。これは訴訟問題だろ」
「……悠」
「ん? どした? なんか顔色悪くねえか、お前」
ソファの上で仰向けになった悠が、首だけをこちらに向けて怪訝そうな顔をする。
普段は適当に見えるくせに、こういう時のこいつの観察力は侮れない。
俺は唾を飲み込み、恐る恐る口を開いた。
「お前……今、何か聞こえなかったか?」
「は? 聞こえたって、何が。お前の放送が最後ちょっと噛みそうになってたのは廊下で聞いてたけど」
「いや、放送じゃなくて。……女の声だ」
「女ぁ?」
悠は軽い印象の瞳にニヤリと下世話な笑みを浮かべ、身を乗り出した。
「なんだよ傑、ついにこのむさ苦しい放送室に隠し球の女子部員でも連れ込んだか? どこだ、機材の裏か?」
「馬鹿言え。誰もいない」
「じゃあなんだよ、幽霊か? 旧校舎の怪談的なヤツ?」
悠がからかうように笑った、その瞬間だった。
『黒田悠。彼の現在の疲労度は、自己申告に対して約三割ほど誇張されています』
「っ……!」
まただ……。
俺の耳の奥で、はっきりと声が響いた。悠の方を見る。
あいつは能天気に鼻をほじりながら、「で、今日は帰りに駅前のコンビニ寄ってく?」などと的外れなことを言っている。聞こえていない。
こんなにはっきりと、クリアな音声で語っているというのに。この声は、完全に『俺にしか聞こえていない』のだ。
『彼は、傑に労ってもらうためのポーズとして疲労をアピールしていますが、実際には放課後の買い食いに対する期待値が勝っています。これは記録された事実です』
——(……お前、悠の考えてることもわかるのか?)
半信半疑のまま、頭の中で問いかける。
『肯定します。私は観測者です。彼の思考プロセスを読み解くことは、難しいことではありません』
「……」
俺は唾を飲み込んだ。悠の「疲れたポーズ」なんて、長年付き合いのある俺ならわかる。だがその「コンビニへの期待」まで——あれは、外から見えるはずのない、あいつの頭の中の話だ。
「……なんでもない。俺の勘違いだ。ほら、帰るぞ。施錠しないと怒られる」
「なんだよ、気持ち悪いな今日の傑。まあいいや、ファミチキ奢れよな」
文句を言いながら立ち上がる悠を急かし、俺は逃げるように放送室の鍵を閉めた。
ガチャリ、という冷たい金属音が、妙に耳に残った。
*********
昇降口を抜け、オレンジ色に染まった通学路を歩く。
四月の夕暮れは、まだ少し風が冷たい。
平坦で坂の少ない豊科の街並みの向こうに、遠くそびえる北アルプスのシルエットが沈みゆく夕日に照らされている。
水路沿いの柳が、風に揺れるたびに細い枝先を引きずるように揺れていた。
隣を歩く悠は、相変わらず昨日の深夜アニメの話や、スマホゲームのガチャの結果についてピーチクパーチクと喋り続けている。
平和だ。平和そのものの、ノイズのないありふれた日常の風景。
放送室を出てからここまでの約十分間、あの「声」は一切聞こえてこなかった。
やっぱり、機材の電磁波か何かが脳に影響を与えていただけかもしれない。そう思えば、少しだけ肩の力が抜けた。
「あ、傑! それに黒田くんも!」
ふと、前方から明るい声が飛んできた。顔を上げると、駅に向かう交差点のところで、一人の女子生徒が手を振っていた。
肩から鎖骨のあたりで揺れるアッシュグレーの髪。
グレー系のチェックのスカートと、少しだけ着崩されたブレザー。
白石真央。
家が近所の幼馴染であり、高校に入ってからもなんだかんだと面倒見の良さを発揮してくる腐れ縁の同級生だ。
「よお白石。お前、今日は部活休みか?」
「うん。バレー部、今日は体育館が使えない日だから外周だけして終わったの。二人はこれから帰り?」
「おう。傑が俺にチキンを奢ってくれるらしいから、コンビニ寄るとこ」
「奢るなんて一言も言ってないだろ」
俺が呆れて突っ込むと、真央は明るい茶系の瞳を人懐っこく細めて「あはは」と屈託なく笑った。夕日に照らされた彼女の笑顔と、少しお節介なくらい距離の近いその空気感は、ひどく「まとも」だった。
地に足が着いていて、確かな体温があって、俺の知っている計画的な「現実」の枠組みの中にすっぽりと収まっている安心感。真央と話していると、さっきまでの放送室での出来事が、本当にただの悪い夢だったように思えてくる。
「傑、なんか疲れてる? 目の下にクマできてるよ」
真央が少しだけ距離を詰め、覗き込むように俺の顔を見た。微かに、柑橘系のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「……別に。ただの寝不足だ。お前は元気そうだな」
「私? 私はいつも元気だよ! あ、そうだ。ねえ傑、今度の日曜日さ——」
真央が、少しだけ上目遣いになって言葉を継ごうとした、まさにその時だった。
『白石真央。彼女は現在、極度の緊張状態にあります』
「——っ」
俺の足が、ピタリと止まった。消えていなかった。
鳴り止んでいなかったのだ。
あの絶対的な、温度のない「観測者」の声が、脳の奥底から再び這い上がってきた。
『彼女の心拍数は、明智傑を視認した三十秒前から平常時の二十パーセント増しで推移しています。発汗量の増加、瞳孔のわずかな拡大。これらはすべて、彼女があなたに対して明確な「好意」を抱いているという、記録された事実です』
「……黙れ」
俺は思わず、声に出して遮ってしまった。
隣で楽しげに笑っていた真央の表情が、スッと固まる。
「え……?」
「あ、傑? お前、急にどうした?」
悠が怪訝そうに俺の顔を覗き込む。しまった、と思ったが遅い。二人の視線が、俺に釘付けになっている。
「……いや、ごめん。なんでもない。ちょっと、頭痛がして」
誤魔化すように額を押さえる。だが、脳内の声は容赦なく、そして平然と宣告を続けた。
『彼女は今、あなたを日曜日の映画に誘おうとしていました。しかし、あなたの拒絶的な態度によって、その行動を一時的にキャンセルしました』
「傑……本当に大丈夫? 無理しないほうがいいよ。日曜日の……ううん、なんでもない。今日は早く帰って休んでね」
「あ、ああ……悪い。そうする」
真央は少しだけ寂しそうに微笑んで、一歩下がった。
背筋が、ゾッとした。当たっている。
この声は、本当に「事実」しか語っていない。他人の隠したい感情も、本来なら知り得るはずのない思考の裏側すらも、まるですべての台本を読み上げているかのように暴き立てる。
『明智傑。あなたは今、この声の正当性を理解し始めました。私が語る言葉には、一切の嘘が存在しないということを』
(……お前は、なんなんだよ)
夕日に染まる交差点。完璧に管理されていたはずの日常のど真ん中で、俺は誰にも聞こえない声に向かって問いかけた。
『私は観測者。あなたの物語を語る、ただの記録です』
声は、透き通るような完璧な発声で、静かに言い放った。
『三秒後。あなたの右を通り過ぎる自転車が、落とし物をします』
「は……?」
『三』
『二』
『一』
カランッ、と。俺たちのすぐ横を通り過ぎていった見知らぬ主婦の乗る自転車のカゴから、何かの拍子でペットボトルがこぼれ落ち、アスファルトを転がった。
「あ、すみません落としましたよ!」
真央が慌てて駆け寄り、それを拾い上げる。
俺は、その光景をただ呆然と見つめていた。偶然じゃない。未来予知だ。あるいは、すでに確定している未来を読み上げただけ。
『おわかりいただけましたか』
脳内で、その声が静かに響く。そこには得意気な響きも、感情的な高揚もない。ただ、そこにある事実を読み上げただけ。
『繰り返します。これは、記録されている事実です。あなたの物語は、すでに始まっているのです』
四月の生ぬるい風が、足元を吹き抜けていく。「大丈夫でしたよ、ありがとう」と主婦に微笑む真央の声が、どこか遠い世界のものに聞こえた。
俺の人生を語る、声。——それが、彼女との、最悪で、最高に厄介な出会いだった。
第1話 了




