運命の悪戯〜深夜二三時の慟哭(どうこく)。「紳士」を自称する僕が、ピンク色の部屋に忘れてきた致命的な代償〜
「もう、彼女(亜耶ちゃん)とは終わりにしよう」
由美によって潔癖なまでに整えられた部屋で、僕はそう決意したはずだった。
けれど、深夜の静寂を切り裂いたのは、呼吸すらままならない彼女の泣き声。
「お願い、今から来て……」
善意という名の免罪符を握りしめ、僕は夜の闇へと駆け出す。
自分がどれほど甘く、そして決定的な過ちを犯そうとしているのかも知らずに。
もう、亜耶ちゃんとこんな風に会うのは終わりにしよう。
一人きりの、妙に綺麗になった部屋で、僕はそう自分に言い聞かせていた。
昨日と今日、僕がしたことは客観的に見れば間違いなく「裏切り」だ。もし誰かに相談されたら、僕は迷わず「一〇〇%黒だ」と断じるだろう。
いつもなら、もっと冷酷なまでに線を引けるはずだった。それなのに、どうして今回はこれほどまでに流されてしまったのか。
枯れていた僕の心が、あの屈託のない笑顔を、もう少しだけ見ていたいと願ってしまったのだろうか。
「……亜耶ちゃんといるの、楽しかったんだ」
消え入りそうな声で独り言を漏らし、僕は逃げるように眠りについた。
由美が整えた「正しい生活」の匂いがする部屋で、僕は無意識に、あのピンク色の部屋の混沌と、甘い香りの残像を求めていたのかもしれない。
――激しい着信音が、意識を深い底から引きずり出した。
枕元で震える携帯を手に取る。画面には「二三:〇〇」という数字と、松坂亜耶の名前。
嫌な予感がして、すぐに応答ボタンをスライドさせた。
「もしもし、こんな時間にどうしたの?」
『……ごめんなさい……ごめんなさい……でも、……さびしくて…………っ、どうしても、……声が……ききたくて……っ』
受話器越しに響くのは、呼吸すらままならない激しい嗚咽だった。
昼間、あんなに無邪気に笑っていた彼女が、なぜこれほどまでになりふり構わず泣いているのか。鈍感な僕には、その本当の理由に思い至る術もなかった。
(……一人でいるのが、そんなに怖いのか?)
知らない土地での一人暮らし、慣れない引越しの夜。とにかく、このまま電話を切って放置することなど、僕の性分が許さなかった。
『……お願い……っ…………いまから、きて……っ。おねがい…………っ』
時計を見る。深夜十一時を過ぎた。今から女の子の部屋に行く。それが何を意味するか、分からないほど子供じゃない。
――けれど。
「……わかった。今から行くから。その代わり、僕はソファーで寝る。いいよね?」
『……はい…………っ、ありがとうございます……』
自分に言い聞かせる。何もしなければ、裏切りじゃない。困っている人を助けるだけだ。
由美によって完璧に掃除された、静まり返った部屋を飛び出し、僕は夜の闇へと駆け出した。
亜耶ちゃんの部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。
ドアが開くと同時に、泣き腫らした顔の彼女が僕の胸に飛び込んできた。
「本当に、来てくれた……」
抱きしめてはいけない。理性が警鐘を鳴らす。けれど、激しく震えるその肩を突き放すこともできなかった。
「大丈夫。家はすぐ近くだから。……寂しい時は、いつでも呼んでいいよ」
もし、僕以外の男を呼んでいたとしたら。彼女が危ない目に遭っていたかもしれない。そう思うと、目を離すのが恐ろしかった。
しばらくして落ち着いた彼女と、ソファーに腰を下ろした。
「私、悪い女の子ですね。優流さんには彼女がいるのに、こんな優しさに付け込むようなことして……」
「気にしなくていい。……でも、なんで一人暮らしなんて始めたの?」
聞けば、同郷の友人とルームシェアをしていたが、その友人が彼氏と同棲するために出ていってしまったのだという。
寂しさは、環境の変化とともに彼女を飲み込んでいた。
「……なんで、そんなに優しいんですか? 誰にでも、そんなに優しいんですか?」
「そんなことはないよ……今日は、僕が行かなきゃ、亜耶ちゃんが大変なことになるかもしれないって思ったから。まあ、夜中に女の子の部屋に来るなんて、彼女がいる身としてはアウトなんだけどさ」
僕は彼女を見つめて、言葉を継いだ。
「それでも、今泣いている亜耶ちゃんを放っておくことはできなかったんだ」
亜耶ちゃんはまた、静かに涙を流した。
泣き止むのを待ってから、僕は釘を刺すように言った。
「約束してほしい。今日みたいなこと、他の男の人にやっちゃ絶対ダメだよ。男はみんな『獣』だと思いなさい」
「じゃあ……優流さんは?」
「僕は紳士だから大丈夫です」
「なにそれっ、自分で言うんですか!」
ようやく、彼女に小さな笑みが戻った。
やがて、僕はソファー、亜耶ちゃんはロフトへと向かう。
「優流さん、ちゃんといますか?」
「ちゃんといるよ」
ロフトから顔を出し、下を覗き込んでくる彼女。薄暗い闇の中、彼女は花が咲いたように嬉しそうに微笑んだ。
来てよかった。心からそう思いながら、僕は重くなるまぶたを閉じた。
意識が遠のく中、何度も上から熱い視線を感じたけれど、それさえも今の僕には心地よかった。
翌朝、僕はアラームで飛び起きた。
「やばい、遅れる!」
アラームの時間をいつもと同じ時間にしていたせいで、自分の部屋に戻る時間を考えれば危うい時間だった。
まだ夢の中にいるような亜耶ちゃんに短く挨拶を済ませ、僕は嵐のように彼女の家を飛び出した。
職場に着いてから気づく。
……携帯がない。
彼女の部屋に忘れてきたのだ。
まあ、どうせあまり使わないし、今日は亜耶ちゃんのバイトの日だから、帰りに寄ればいいか。
別に、見られて困るようなメールなんて一通もない。由美とのやり取りだって、ただの連絡事項だ。
携帯を忘れたことなんて、僕にとっては『傘を忘れた』程度の、取るに足らない不注意に過ぎなかった。
その油断が、彼女に『僕の心の隙間』をまざまざと見せつけてしまう結果になるとは、この時の僕は想像すらしていなかった




