運命の悪戯【亜耶視点】〜私が恋した「理想の王子様」。信号の角で夢は砕け、ピンクの部屋で奇跡の終わりを知る〜
「週7でバイトして、テストはいつも満点。なのに自分は洗い場に回る人」
先輩から聞く優流さんは、あまりに眩しくて、少しだけ危うい。
そんな彼を、下原さんの助けを借りて「引越し」という罠に誘い込んだ。
二日間だけの、嘘みたいな幸福。
けれど、現実は信号待ちの隙間に、最悪の形で転がっていた――
アルバイトなんて、しなくても生活には困らなかった。
けれど、実家からの仕送りに甘えてばかりなのも申し訳ないし、何より、大学以外の外の世界を見てみたかった。
そんな軽い気持ちで始めたコンビニのバイトで、私は一人の人に心を奪われた。
火曜日と金曜日。バイクで颯爽と現れ、いつも芋けんぴばかりを買っていく人。
背が高くて、少し落ち着いた雰囲気の格好いい人。
オーナーが彼を私に紹介してくれた時、彼は「頑張ってね」と優しく笑ってくれた。
「柳さんって、どんな人なんですか?」
気になって彼が話かけていた下原さんに尋ねてみると、彼はもともとここでバイトをしていたという。
「優流は意味がわからないくらい優しくて、仕事に真っ直ぐで、友達想いで。……ま、少し不器用だけどな」
下原さんの言葉をなぞるように、私の中で彼の輪郭は、いつの間にか理想の王子様そのものになっていた。
月曜日、同じシフトに入っている谷口彩乃先輩にも話を聞いた。彼女は調理師学校で、優流さんとクラスメイトだったという。
「柳くんはね、学校じゃ有名人だったんだよ」
先輩が語る優流さんの話は、どれもキラキラしていて、私の知らない世界の物語みたいだった。
「週7でバイトしていたのに、卒業者技術考査だけじゃなく、専門外の『サービス技能士』っていう国家資格まで取っちゃうようなストイックな人でね。しかもテストは基本満点。実習でも、柳くんの班はいつも終わるのが早いの。彼が魔法みたいに的確な段取りを組んじゃうから。……でもね、それって決して自分勝手な押し付けじゃなくて。多少非効率でも、みんなが成長できるようにって組まれた段取りなのよ。自分は洗い物ばっかりしてさ。なのに、技術テストも一番なんだから」
学校に、彼が職場実習で行った高級料亭から電話があり、弟子にしたいと申し出があったらしい。学校の名誉のためにと、希望とは違う高級料亭への就職を引き受けてしまう流されやすさ。なのに、友達のためなら学校で平気でケンカをする、しかもそのケンカは相手の為でもあるような熱いところ。
「それに一途なのも、いいなって思った。……私も、連絡先を聞いたことがあったんだけど、教えてさえくれなかったから」
寂しそうに笑う先輩を見て、確信した。彼女も、きっと優流さんのことが好きだったんだ。
彼女がいる。それは分かっていたけれど、気づけば優流さんが来る火曜日と金曜日が、私の生きがいになっていた。
聞かされる話のすべてが、私の理想の王子様そのものだったから。
「普通に話してみたいな……」
私の独り言を、下原さんは聞き逃さなかった。
「じゃあ、松坂さん、今度引越すって言ってたよね。その引越しを利用しよう。あいつは頼まれたら断れない性分だから。水曜日に設定すれば、休みのはずだし絶対に手伝わせるからさ」
「それに最近のあいつ、少し寂しそうなんだよな……」
下原さんはボソッと付け加えた。その言葉が、私の背中を強く押した。
引越し前夜、下原さんからメールが届く。
『明日、優流のやつ、うまく釣れたぞ。来てしまえばあいつの性格上、必ず最後まで手伝うから。勝ち確だ』
明日、優流さんと話せる。二人きりになれる。
そう思うとワクワクして、私はなかなか寝付けなかった。
引越し初日の夜。私はロフトの布団の中で、今日一日の出来事を反芻していた。
想像していた以上に、優流さんは優しかった。
図々しく手を握ったり、下の名前で呼ばせたり……少し嫌われるかもという覚悟で馴れ馴れしくしたけれど、彼は嫌な顔ひとつせず、それどころか彼女との先約を断ってまで、明日も寂しいという私を優先してくれた。
「下原さんや先輩から聞かされていた『柳優流』という偶像に、今日、私は恋をしたんじゃない。
芋けんぴを差し出した時の照れたような笑い方や、私のわがままに困ったように眉を下げる、その『生身の彼』に、私はどうしようもなく落ちてしまったのだ」
(もしかしたら、私にもチャンスがあるのかもしれない……)
けれど、現実は残酷だった。
翌日、大学の帰り道。信号の角で、私は見てしまった。
――彼が、知らない女性と唇を重ねている光景を。
網膜に焼き付いたその残像が、心臓を直接金槌で殴られたような衝撃となって全身を駆け抜ける。
昨日、私の手を握り、名前を呼んでくれたあの優しい唇が、別の誰かの所有物であることを突きつけられた。
私の「好き」という純粋な祈りは、その瞬間に鋭い破片となって、自分自身の胸をズタズタに切り裂いた。
分かっていたはずなのに。私に入り込める隙なんて、一ミリもなかったんだ。
その後の荷解きは、無理をして明るく振る舞った。けれど、私の心はもう死んでいた。
彼が作ってくれた、黄金色に輝くふわとろのオムライス。
プロの技で仕上げられたそれは、皮肉なほどに美味しくて、喉を通るたびに「これが最後なんだ」という絶望が、涙と一緒に胃の奥へと落ちていった。
彼が帰った後の、静まり返ったピンク色の部屋。
一人になると、さっきのキスの光景が何度もフラッシュバックして、涙が止まらなくなった。
もう、諦めなきゃいけない。
でも、どうしても。
……友達でいいから、また彼の声を聞きたい。
拒絶されるのが怖くて、携帯の画面を見つめたまま立ち尽くす。
気づいた時には、震える指が、勝手に電話をかけていた。
あの引越しの二日間は、私にとって、最初で最後の奇跡だった




