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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─壮絶な人生を描く感動のドラマ—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜測られた指輪のサイズと、拭えない裏切りの味。彼女が掃除した「清潔すぎる部屋」〜

朝、合鍵で入ってきた彼女・由美。

彼女が差し出したのは、僕の好みではない甘いコーヒーだった。

指のサイズを測られる。

僕は昨日出会ったばかりの亜耶ちゃんとの「約束」を捨てられない。

彼女が去った後、僕は亜耶ちゃんの部屋でオムライスを作る。

同じメニュー、違う温度、そして家の前に停まる見覚えのある車。

逃げ込むように入ったピンク色の部屋で、僕は「楽しさ」という名の毒に溺れていく。

「……由美?」

 翌朝、インターホンも鳴らさずに部屋へ入ってきたのは、合鍵を持つ由美だった。


「昨日、引越しの手伝いに行くって言ってたでしょ? 何時からか聞いてなかったし、早めに来れば久しぶりに会えるかなって」

 由美はいつもの穏やかな笑顔で、差し入れの袋を掲げた。「朝ごはん買ってきたんだ。一緒に食べよう?」


 差し出されたコーヒーは、僕の好みとは違う、少し甘すぎるものだった。

「引越しの手伝いは何時からなの?」

「……午後からだよ」

「じゃあ、午前中は一緒にいられるんだね。来てよかったー」


 嬉しそうに微笑む由美に、僕は言葉に詰まる。

「……もし、僕がもういなかったらどうしてたの?」

「その時は、勝手に掃除してたかな。ゆーくん、あんまり掃除しないし。……前にも、ゆーくんがいない間に掃除して、『女の子の髪がある!』って騒いだっけ」


 鮮明に覚えている。バイトが終わった後、由美からの着信履歴が画面を埋め尽くしていたあの日のことを。結局はクラスメイトが無理矢理押しかけて開催した飲み会の残骸だと、空き缶の山が入った袋も見たでしょ?と証明して疑いは晴れたけれど。きっと彼女は「掃除」という名目で、常に僕の部屋の「影」をチェックしている。その事実に、僕は背筋が寒くなるのを覚えた。


 午前中だけならと、僕は彼女の車でショッピングモールへ向かった。

 ジュエリーショップの前で、足が止まる。

「近くで見ますか?」という店員に促され、僕たちは指輪のサイズを測ることになった。

 由美は九号、僕は十三号。

 冷たい金属のゲージが指を通るたび、見えない鎖で繋がれていくような錯覚に陥る。


 かつて僕のプロポーズを拒んだ彼女に僕はもう、もう一度言う勇気はなかった。

 今になって僕の指のサイズを測る彼女の真意が、僕には分からなかった。


 社会人になったばかりの頃、僕は彼女に「結婚しよう」と言ったことがある。けれど、彼女は母のこと、姉のこと、僕がまだ未熟なことを理由に、それを断った。

 なのに、今になって僕の指のサイズを測る彼女の真意が、僕には分からなかった。

 お昼も一緒に食べたいという由美とオムライスを食べ、足早に帰る。

 正午。由美に家の前まで送ってもらった。

「またね」

 彼女はそう言って、僕の唇にキスをした。

 僕も「またね」と手を振り、車を見送る。


 部屋に戻ると、すぐに亜耶ちゃんから電話が入った。

『優流さん、今家に着きました。もうお昼ご飯は食べましたか……?』

 今着いたということは、さっきの由美とのやり取りを見られていないだろうか。なぜか胸がざわついた。

「ごめん、もう食べちゃったんだ」

『そうですか。じゃあ私はコンビニで済ませちゃいますね。……また、後で連絡します』


 三十分後、合流した彼女は、いつもの元気な声で言った。

「優流さんがあそこから出てくるの見ましたよ! 家、あそこのマンションなんですね」

「ついにバレたか」

「ついにって……昨日の今日ですよ! 呆気ないですね」

「あはは、ほんとだね」

 笑う彼女に、僕は毒気を抜かれ「四〇四号室だよ」と、聞かれてもいない部屋番号まで教えてしまった。


 荷解きは一時間ほどで終わった。彼女の部屋は、どこを見てもピンク色で溢れている。

 まさに「女の子の部屋」という空間に、僕はどこかむず痒さを感じていた。


「テーブルが欲しいんです」

 その一言で、ホームセンターへ向かった。選んだのは、やはりピンクの折り畳みテーブル。

「優流さんは調理師なんですよね? 私、優流さんが作ったご飯、食べてみたいです!」

「いいよ。今日時間あるし、作ろうか」


 貴明にも作っているし、これくらいなら友達の範疇だ。そう自分を納得させた。

「やったぁ! じゃあ、優流さんの家でいいですか?」

「……いや、男の部屋に二人きりはまずいんじゃないかな」

 亜耶ちゃんの部屋で二人きりなのも変わらないのに……

 咄嗟に出た拒絶に、亜耶ちゃんは何かを察したように少し暗い表情を浮かべた。

「……彼女さんが来た時、他の人の髪の毛とか落ちてたらまずいですもんね。じゃあ、私の家でいいですか?」


 一旦荷物を置きに戻る帰り道。

 近くの駐車場に、見覚えのある車が停まっているのを見つけた。――由美の車だ。

 心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねた。由美の姿はない。けれど、彼女はどこかで僕を見ているのではないか。

「……どうしたんですか?」

「……なんでもないよ」


 覗き込んでくる亜耶ちゃんの瞳から逃げるように、僕は由美の車を見つめたまま答えた。亜耶ちゃんも、その視線の先にあるものに気づいているような気がした。


 今スーパーへ向かえば、由美と鉢合わせるかもしれない。

「……ちょっと、休憩してから行こうか」

 僕は逃げるように、亜耶ちゃんの部屋へと自分を押し込めた。


「芋けんぴもありますよ!」

「……用意周到すぎるね。僕がいつも芋けんぴばかり食べてると思ってるのかい?」

 冗談めかして言うと、彼女は真顔で「違うんですか?」と聞き返してきた。

「あ……いや、認めます。最近は毎日食べてるよ。ごめんなさい、食べたいです」

 降参すると、彼女は「あははっ、いいですよ♪」と満足そうに笑った。彼女は案外、いたずら好きなのかもしれない。

 けれど、そうやって振り回されるのを、心地よく感じていた。


「亜耶ちゃん、何が食べたい?」

「ふわとろの、オムライスがいいです!」


 ――心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。

 数時間前、由美と一緒に食べたメニューが頭をよぎる。

「……難しいですか?」

「いや、大丈夫。オムライスにしようか」


 さっき食べたばかりだ、なんて口が裂けても言えなかった。

 家を出ると、由美の車があった場所には、もう何もなかった。

 少しだけ安堵して、スーパーへ向かう。


「ケチャップは、これじゃなきゃダメなんです! リコピンが多いほうが美味しいんですよ!」

 真剣に語る彼女の顔がなんだかおかしくて、ついニヤニヤしてしまう。

「あー! 今、絶対バカにしたでしょ?!」

「そんなことない、かな。……それ、睨んでるつもりなんだろうけど……可愛いよ」


 正直な感想を口にすると、彼女はぷいっとそっぽを向いた。

「ごめん、許して?」

「……アイス、買ってくれたら許してあげます」

 そんな子供染みた交換条件に、また顔が綻ぶ。由美といる時の「恩返し」のような重い義務感とは違う、心臓が軽やかにステップを踏むような、純粋に「楽しい」という感情。


 キッチンに立ち、調理を始める。

「なんだか不思議です。あの優流さんが、私の家でご飯を作ってくれてるなんて」

「僕も不思議だよ。どうしてこうなったんだろうな」

「あはは、下原さんのおかげですね」


 完成したオムライス。黄色い卵がとろりと揺れる。

 けれど、それを前にした二人の間には、どこか重い空気が流れていた。

 引越し作業という「口実」が終われば、もうこうして会うことはないだろう。二人とも、言葉には出さずともそれを感じ取っていた。


「……そろそろ帰るよ」

 時刻は十九時。片付けを終えた僕に、亜耶ちゃんは俯いたまま言った。

「……なんでもないです。また、芋けんぴ買いに来てくださいね」

「うん。またね」


 彼女の部屋を後にし、すぐに自分のマンションに着く。

 ドアを開けると、そこは完璧に「整えられて」いた。

 塵ひとつない床、規則正しく並んだ家具。由美が掃除を済ませていったのだ。

 さっきまでの亜耶ちゃんの部屋にあった、甘い残り香を根こそぎ消し去るような、無菌室のような息苦しさ。

 僕は冷え切った指先で、由美への「感謝」という名の報告を送信した。

 

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