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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─壮絶な人生を描く感動のドラマ—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜「誠実でありたい」と願う僕の、あまりに不誠実な選択。――恩義ある恋人の誘いを断り、僕は出会ったばかりの女の子の「孤独」を選んだ。

狭いロフトで重なる視線と、甘いシャンプーの香り。

 孤独に耐えることに慣れきっていた僕の心に、彼女の「寂しさ」が音を立てて侵食していく。


そんな時、最愛の恋人から届いた、一筋の光のような誘い。

 いつもなら、何よりも優先し、何よりも大切にするはずの彼女の言葉。


――けれど、僕の口から出たのは、自分でも驚くほど迷いのない「拒絶」だった。


「ごめん。先約があって……」

「……ちょっと、休憩しませんか? キッチン周りが片付いたので、コーヒー淹れますね」

 亜耶ちゃんの提案に、僕は飛びついた。下着の荷解きという、あの心臓に悪い気まずさを、少しでも払拭したかった。


「優流さん、ブラックですよね」

「え、そんなところまで貴明から聞いたの?」

「はい! バイトの時はいつもボトルのブラックを飲んでるって、下原さんが言ってました」


 ……貴明。あいつ、僕の個人情報をどれだけ流しているんだ。

「正解。ありがとう」


 差し出されたカップを受け取り、一口。

 不意に、少し前に由美と会った時のことを思い出した。

『コーヒー好きだよね?』と言って微笑んで彼女が渡してくれたのは、甘ったるい微糖の缶コーヒーだった。

 数年一緒にいても、由美は僕の好みを本当の意味では知らないのかもしれない。

 淹れたてのブラックの潔い苦味と香りが、埋めようのない溝のように僕の胸


「おやつもありますよ! はい、芋けんぴ!」

「お、それは嬉しい。ありがとう」


 湯気の向こうで、二人並んで芋けんぴをかじる。

 他愛もない会話。けれど、心地よい香りが、少しずつ、けれど確実に僕の心の隙間を埋めていくのを感じていた。


「もうこんな時間だ。少し喋りすぎたね。……続きをしようか。先に寝具をやってしまおう。ロフトで寝るんだよね?」

「そのつもりです。……羨ましいですか?」

「少しね。秘密基地みたいでいいじゃないか」


 寝具を抱えてロフトへ上がる。小柄な彼女には重労働だったはずだ。


 ロフトの上に寝転び、上から部屋を見下ろしてみる。

「ロフトの上はどうですかー?」

 下から亜耶ちゃんが声をかけてきた。

「思った通り、子供心がくすぐられて楽しいよ」


 答えると、彼女も梯子を登ってきた。そして、僕のすぐ隣に横たわり、一緒に下を見つめる。

 ――近い。

 またあの心地いい甘いシャンプーのような香りがする。

 誰に対してもこうなのだろうか。こんな距離で、正気でいられる男がいるのだろうか。


「亜耶ちゃんは……彼氏、いないの?」

 そんなことを考えているとつい、口が動いていた。

「いませんよ」

 彼女の表情が、ふっと曇った。

「でも、優流さんは……彼女、いるんですよね」

「……うん」


 短い肯定の後、重苦しい沈黙がロフトに満ちた。

「ごめんなさい。こんなに馴れ馴れしくしちゃって……」

 亜耶ちゃんはそう言い残し、逃げるようにロフトを降りていった。


 その後の作業は、どこかぎこちない空気のまま進んだ。

 外が暗くなり始めた頃、彼女が意を決したように切り出した。

「お礼をさせてください。晩御飯、ご一緒しませんか?」


 彼女の好物だというハンバーグレストランへ向かう道中。

 家の場所を尋ねられたが、僕は教えなかった。「教えたら遊びに来るでしょ」と茶化したけれど、本当は自分を律するためだ。

 深入りしてはいけない。作業が終われば、僕たちは元の関係に戻るんだ。そう自分に言い聞かせる僕の横で、亜耶ちゃんは寂しそうな顔をしていた。


「あの……明日も休みだって言ってましたよね。まだ終わってないから、明日も手伝ってもらえませんか?」


 店に着き、料理を待っている間に彼女が消え入るような声で言った。

 残りは少し。一人でもできるはずだ。断るべきなのに、目の前の暗い表情を放っておけず、僕の口は勝手に動いた。

「……いいよ」

 僕は彼女といると居心地の良さを感じていたのだ。


「……じゃ、じゃあ! 連絡先、聞いてもいいですか?」

 ぱあっと明るくなった顔で、彼女は携帯を取り出した。

「明日の午前中は大学に行かなきゃいけないので、終わってから合流することになりますし……もし何かあって遅れたら申し訳ないので」


「そうだね」

 もっともらしい理由を盾に、僕たちは連絡先を交換した。

 重苦しかった空気は、いつの間にか消え去っていた。


 その時だ。携帯の画面に「由美」の名前が浮かんだ。

「もしもし、ゆーくん? 今、電話大丈夫?」

「うん。友達とハンバーグを食べてる所だよ」

「そっか、珍しいね。また下原くん?」

「いや、別の友達。元バイト先の人だよ」


「そっか。あのね、明日休みでしょ? 親戚の用事がなくなって、お姉ちゃんの面倒も見なくてよくなったの。明日、会えないかな……?」


 由美には、障害を持つ姉がいる。休みの日はいつも家族を支えている彼女が、わざわざ作ってくれた貴重な時間。

 そして僕を孤独にさせている理由。

「明日……」


 僕が呟くと、目の前の亜耶ちゃんがビクッと肩を揺らした。

 いつもなら、由美を最優先にする。返事を保留にし、相手に確認をとる。それが、誠実さという名の僕にできる精一杯の恩返しだと思っていたから。

 けれど。


「ごめん。先約があって……友達の引越しの手伝いをする約束をしてるんだ」

 一人が寂しいと言っていた亜耶ちゃんの為に返事を保留にすることもしなかった。孤独に耐えるのは辛い。

 胸を刺すような罪悪感。

 由美は「そっか、諦めるよ。頑張ってね」と優しく電話を切った。

 申し訳なさが胸をかすめたが、それ以上に「約束を守らなければ」という義務感が僕を支配していた。

「誠実でありたい」という僕の信念は、この時、間違いなく目の前の彼女に向けられていた。それが、誰かに対する不誠実の上に成り立っていることなど、その時の僕は微塵も疑っていなかったのだ。

「どうして……? 彼女さんに、明日誘われたんじゃないんですか?」

 顔を上げると、亜耶ちゃんが困惑の混じった瞳で僕を見つめていた。

「そうだけど……亜耶ちゃんと先に約束していたから」

 自分でも驚くほど、迷いのない言葉だった。

「誠実でありたい」という僕の信念は、この時、間違いなく目の前の彼女に向けられていた。それが、誰かに対する不誠実の上に成り立っていることなど、その時の僕は微塵も疑っていなかったのだ。


「あれくらいの量、一人でも大丈夫ですよ。優流さんだって、そう思ってたんじゃないんですか?」

 

「……約束は約束だし。それに、一人は寂しいって言ってたから」


 亜耶ちゃんは、そのまま黙り込んだ。

 彼女から「明日、やっぱり大丈夫だよ」という言葉が出ることはなかったし、僕の方からも「明日、やっぱりなしでいい?」と切り出すことはできなかった。

 どちらも、この危うい時間に、自ら幕を引く勇気がなかった。


「せっかくのハンバーグ、少し冷めちゃったね。ごめん」

「……冷めても美味しいですから、大丈夫です」


 そう答える彼女の横顔は、今にも崩れそうなほど複雑な色をしていた。

 帰り道、家の近くの大きな交差点で僕は足を止めた。

「僕はこっちだから。ハンバーグ、ごちそうさまでした」

「優流さん……また明日」


 一人になった途端、心に空いた穴から罪悪感が吹き込んできた。

 由美との時間を犠牲にして、僕は明日、また亜耶ちゃんの家へ行く。

 それが正しいのか、取り返しのつかない過ちなのか。

 答えは夜の闇に吸い込まれて、自分の靴音だけが虚しく響いていた。

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