運命の悪戯 〜未来を売った身代金・決別の完済証明書〜「これで、優流を救ったのは私になるでしょ?」。亜耶が差し出したのは、自らの未来を捨てて用意した学費。その重すぎる愛を背負い、由美との過去を断つ
「……これで、あの時優流を救った一部は、私ってことになるでしょ?」
亜耶が差し出した封筒には、彼女の未来である「次年度の学費」が詰まっていた。
自分を焼き払ってでも私を繋ぎ止めようとする、崇高なまでの狂気。
その重みを受け止めた僕は、由美との約束を破り、一週間早く彼女の実家へと向かう。
目的は、完済と絶縁。
見慣れたインターホン、なっちゃんの無邪気で痛切な叫び、そして全てを察したお母様の沈黙。
テーブルに置かれた「絶縁の封筒」を前に、玄関の向こうから由美の足音が近づいてくる。
一歩、また一歩。静寂を切り裂くその音は、誰にとっての破滅の合図なのか――。
それからの数日間、部屋の空気は鉛のように重かった。
かつてひっつき虫のように僕に甘えていた亜耶は、どこか上の空で。
土曜日の朝、何かを静かに決意したような、痛々しいほどに澄んだ表情をしていた。
桃色に染まったはずの部屋で、いつものように業務日誌をつけていると、亜耶が僕の前に一通の封筒を差し出した。
「これ、使って」
中を覗いた瞬間、心臓が握り潰されるかと思った。そこには、目を疑うようなまとまった金額が詰め込まれていた。
「……亜耶、これ、どうしたんだよ。受け取れるわけないだろ」
「それは、私が親から預かっていた次年度の学費だよ」
淡々と告げる彼女の言葉に、背筋が凍りついた。意味がわからない。
「こんなこと……僕に騙されてるかもしれないんだぞ! 馬鹿なのか!」
理解の範疇を超えた行動に、僕は咄嗟に声を荒らげる。けれど亜耶は、揺るぎない眼差しで僕を見つめ返した。
「私がどれだけ優流を見てると思ってるの!? そんなことあるわけないじゃない! 馬鹿なのは優流だよ!」
こんな亜耶を僕は見たことがなかった。
けれど、こんなこと、引き下がる訳にはいかない。受け取る訳にはいかない。
「君の人生が狂ってしまうだろ!」
「いいの。私の人生がどうなっても、優流があの人と毎月会うのを黙って見てるなんて、私にはできない……。だから、お願い」
懇願するように、彼女は僕の手に封筒を押し付けた。その指先の震えが、僕の心に深く刺さる。自分の未来を焼き払ってでも、相手の過去を清算しようとする彼女の愛は、もはや崇高なまでの狂気だった。
生半可な決意で差し出されたものではない。もし僕が彼女の立場だったとしても、これほどの自己犠牲は到底できないだろう。
「……これで、あの時優流を救った一部は、私ってことになるでしょ?」
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、僕は理解した。由美にではない、目の前の、この痛々しいほどにまっすぐな瞳をした少女に、僕は完敗したのだ。
健気というにはあまりに重い、その独占欲。僕は震える手で封筒を受け取るしかなかった。
その瞬間、亜耶は泣き笑いのような、どこか満足げな笑顔を見せた。
由美との過去を完全に断ち切るために、僕は亜耶の人生という重すぎる代償を支払う決意をした。由美の母親も巻き込み、二度と接触させない状況を完遂しなければならない。
「……わかった。これで、最後にするよ」
亜耶の人生を狂わせた責任を、一生かけて取ること。彼女がそれを望む限り、僕は絶対に彼女の手を離さないと決意する。
左手の指輪が、月明かりの下で冷たく、けれど強く光っていた。
封筒の重みは、亜耶の人生そのものの重みだった。
僕は彼女に、立てた作戦を話した。由美と約束した「再来週の水曜日」を待たず、来週の水曜日に彼女の実家へ直接乗り込む。お母様に立ち会いをお願いし、一括で返済して完済証明書にサインをもらう。二度と会わないための、退路を断つ奇襲だ。
決行日。家を出る直前、亜耶が「忘れ物」と言って僕の裾を引いた。
彼女はそっと、行ってらっしゃいのキスをくれた。
「頑張ってね、優流。ちゃんと帰ってきてね」
その瞳は、僕を戦地へ送り出す聖女のようでもあり、獲物を追い詰める共犯者のようでもあった。
バイクを、由美の帰宅路とは違う裏道に停める。
(亜耶、ごめん……)
心の中で謝りながら、由美を過剰に刺激しないため、左手の指輪を外して財布の奥へと忍ばせた。
見慣れたインターホンを鳴らし、名前を告げる。
「……何の用?」
不審げな、けれどどこか疲弊したお母様の声。
「由美さんに以前出していただいたお金を、お返しに来ました」
玄関が開くと同時に、二階からなっちゃんが駆け下りてきた。お出かけが大好きな彼女は、僕を見るなり目を輝かせ、すぐに履ける靴を突っかけて僕の前に立つ。
「久しぶり、なっちゃん。こんにちは」
僕が笑いかけると、なっちゃんは嬉しそうに僕の手をぎゅっと握り、家の駐車場の方へぐいぐいと僕を引こうとした。彼女にとって、僕がここに来ることは「楽しい場所へ連れて行ってくれる合図」のままなのだ。
「ごめんね、なっちゃん。今日はお出かけじゃないんだ」
その手を優しく解くと、なっちゃんは顔を真っ赤にして叫んだ。
「なっちゃーん!!」
不満がある時に彼女が上げる、独特の叫び声。その痛切な声が玄関先に響き渡る。お母様の「お出かけじゃないよ、戻りなさい」という声に促され、なっちゃんは地団駄を踏みながらも、不満げに家の中へと消えていった。
「……あなたの本質は、変わっていないのね。話は中で聞くわ。上がりなさい」
その言葉には、娘がしでかしていることへの深い羞恥と、僕という人間に対する、裏切りようのない信頼が混ざっていた。
お母様はわかっていたのだ。僕を家に入れることが、娘にとっての「残酷な結末」を早めることになると。それでも、この不健全な執着を断ち切れるのは、僕が持ってきたこの「絶縁の封筒」しかないのだと、母親としての本能で悟ったのだろう。
居間に通された僕は、淡々と事実を伝えた。由美に学費を出してもらったこと。それを返してほしいと連絡があったこと。借用書はないが、用意した完済証明書にサインをいただきたいこと。
お母様は、深いため息をついた。その溜息には、娘の身勝手さへの呆れと、僕への申し訳なさが混ざっているようだった。
「はぁ……わかったわ。今時、あなたみたいな律儀な人もいるのね。……由美が帰ってきたら、これを彼女に返して、もうそれで終わりにしていいのね?」
真っ直ぐに僕の目を見て、お母様は念を押すように確認した。お母様は、由美がこのお金を「再会の口実」にしようとしていたことを見抜いていたのだ。そして、母親として、これ以上娘が惨めに執着を続けるのを止めなければならないと、覚悟を決めた眼差しだった。
テーブルの上には、亜耶の人生を削って用意された封筒が置かれている。
その時。外で、仕事終わりの由美が帰ってくる足音がした。
一歩、また一歩と、破滅へ向かうような足音が近づいていた。




