運命の悪戯〜「直接会って渡してね」。振込を拒む由美の執念と、恩義の鎖に縛られた僕の決断。泣き崩れる亜耶と、左手の薬指に食い込む重い足枷。再来週の水曜日、地獄への返信。
「……いいよ。その代わり、毎月直接会って渡してね」
幸せなケーキの香りに満ちていた部屋は、一通のメールで凍りついた。
正論という名の刃を突きつける由美。恩義という名の鎖に縛られ、抗えない僕。
「逃げようよ!」と泣き叫ぶ亜耶を、僕の「誠実さ」が無慈悲に切り裂いていく。
清算しなければ、前には進めない。けれどその道は、かつての恋人が仕掛けた底なしの沼。
左手の薬指に輝く指輪が、今は僕を逃がさないための冷たい足枷に変わっていく――。
亜耶がシャワーを浴びに行き、浴室からかすかに水音が聞こえてくる。
僕は一人、テーブルに置いた手作りのケーキを眺めながら、左手の薬指に馴染み始めたばかりの指輪をそっとさすっていた。
「これが、僕の選んだ道なんだ」
自分に言い聞かせるように、その冷たい銀の感触を確かめる。
その時、テーブルの上で携帯のバイブ音が短く、けれど不吉に震えた。
画面に表示された名前に、心臓が跳ね上がる。……由美からだった。
【ゆーくん。私が出してあげてた学費、返してほしい。連絡、待ってるね】
指先から血の気が引いていくのがわかった。
お祝いムードに満ちていた部屋の空気が、一瞬にして刺すような冷気へと変貌する。
彼女がどれほど僕を救い、支えてくれたか。その恩義を僕は一秒たりとも忘れたことはない。だからこそ、この正論を纏った要求は、僕の喉元に突きつけられた鋭い刃だった。
震える指で、僕は返信を打つ。
「もちろん返すよ。ただ、一括では返せないから、分割にしてほしい」
送信してすぐ、返事が返ってきた。まるで僕が端末を握りしめ、苦悩している姿を画面の向こうから冷たく見透かしているかのように。
【いいよ。その代わり、毎月直接会って渡してね】
ドクン、と鼓動が耳の奥で爆ぜた。
「直接」——その二文字に込められた執念。彼女は僕を解放するつもりなど、毛頭ないのだ。金銭という解けない鎖で、僕を繋ぎ止め、引き戻すつもりなんだ。
「優流? どうしたの、そんな怖い顔して」
シャワーを終えた亜耶が、浴室から出てきた。湯気に包まれた彼女の無垢な笑顔が、今の僕には眩しすぎて、直視できなかった。
僕は隠しきれないと悟り、届いたばかりの呪いのメールを彼女に差し出した。
「……由美から、連絡が来た。出してあげた学費を返してほしいって。でも、手渡しじゃなきゃ受け取らないって言ってるんだ」
亜耶の顔から、さっきまでの幸福な色彩がさぁっと引いていった。
「……振込じゃダメなの? 『振込でお願いします』って送ってみてよ」
彼女の縋るような声に促され、僕は「振込先を教えてほしい。振込でお願いしたい」と送った。けれど、返ってきた言葉は、僕たちの淡い希望を無情に踏みにじるものだった。
【振込先は教えないよ。直接じゃなきゃダメ】
画面を見つめたまま、僕たちは言葉を失った。
桃色に染め上げたこの部屋も、左手の指輪も、彼女の執念から逃げるための盾にはならなかった。
「……なんで!? 直接会う必要なんて、どこにもないでしょ!?」
亜耶の声が激しさを帯びて震え始める。その瞳には、剥き出しの恐怖と怒りが宿っていた。僕の腕を掴む指先に、痛いほどの力がこもる。
「ねぇ、優流。そんなの、返さなくていいよ! 無視すればいいじゃない! なんで会いに行こうとするの? 逃げようよ、ねえ……!」
彼女の必死な訴えに、僕は目を伏せることしかできなかった。
無視。それができればどれほど楽だろう。けれど、僕の育った環境も、僕が守ってきた「柳優流」という人間の矜持が、それを許さなかった。
「……亜耶、ごめん。でも、振込先を教えてくれないんだから、これ以外の方法がないんだ。これは僕の未来を清算するために、避けては通れないことなんだよ」
「清算なんて……、そんなの、ただの言い訳だよ!」
必死に縋り付く彼女の声を、僕は目を伏せて拒むことしかできなかった。
「何があっても返さなきゃいけないんだ。あの時、僕を救ってくれたのは由美で、彼女がこう言っている以上、無視するわけにはいかないんだ……」
僕が絞り出した言葉は、亜耶にとって、何より残酷な裏切りとして響いたに違いない。
「誠実さ」という名の凶器が、今、目の前で取り乱している恋人を深く切り裂いている。あの時、手を一緒に握り、僕を底なしの沼から救い出してくれた由美への恩義が、今の僕を縫い付けていた。
「わかってほしい……。これを通さないと、僕は、君と本当に幸せになることができないんだ」
そう付け加えた僕の言葉も、今の亜耶には届いていないようだった。
泣きながら僕に縋り付く亜耶。
由美の狙いは明白だ。けれど、僕は……「分かった、会わないよ」とは言えなかった。
あの絶望的な日、僕を泥沼から救い出し、手を握り続けてくれたのは、紛れもなく由美なんだ。その「恩義」という名の重い鎖が、今の僕をこの場所に縫い付けて離さない。
泣き崩れる亜耶を前に、僕は「道理」という盾の後ろに隠れるしかなかった。由美の執念に屈したのではなく、ただ正しい道を歩もうとしているだけだ——。
そう自分に言い聞かせるたび、左手の薬指の指輪が、僕を縛り付ける冷たい足枷のように感じられた。
「学費を返す」という逃れられない正論を前に、僕たちはただ、幸せだったはずの部屋で立ち尽くすしかなかった。
やがて、沈黙を守っていた亜耶が力なく項垂れ、絞り出すように呟いた。
「……そうだよね。それが優流だもんね……」
その言葉に背中を押されるように、僕は地獄への返信を打った。
「分かった。再来週の水曜日、夕方でいいかな?」




