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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜(由美視点)「ゆーくん、本当に行っちゃったんだ」。百貨店で見かけた、知らない女と笑う彼。幸せへの復讐。放たれた「学費を返して」という、逃げ場のない一撃。

「……許せない」


別れから一週間。灰色の霧の中にいた私が見たのは、神様が与えた最悪の罰だった。

百貨店で、幼い女の子と幸せそうに指輪を選ぶ、私のゆーくん。

その左手の薬指に銀色の輪が滑り込むのを見た瞬間、私の心は真っ赤な怒りに染まった。


綺麗に終わらせるなんて、絶対にさせない。

彼が一番逆らえない「恩義」という刃を、私は冷たく研ぎ澄ます。

「学費、返してほしい。連絡、待ってるね」

暗闇の中で送ったその一行は、彼を一生私に縛り付けるための、解けない呪い――。

 あの日、駐車場に残された車の中で、私はどれくらい泣き続けたのだろう。

 てのひらには、彼に無理やり外させたキーケースの重みが、ずっしりと鉛のようにのしかかっていた。そこにあるのが当たり前だった、彼と私を繋いでいた大切な鍵が一本、なくなっている。

「……ゆーくん、本当に、行っちゃったんだ」

 あんなに優しくて、私のわがままを全部飲み込んでくれたゆーくんが。

 あんなに冷徹な目をして、私の手から鍵を「奪い取った」。

 今までの彼からは想像もできない、明確な殺意すら感じる拒絶。その事実が、私の心を何度も、何度も、錆びた鈍い刃で切り刻んでいく。


 フラフラと家に辿り着くと、あまりに早く戻った私を見て、母が驚いた顔をしていた。私は崩れ落ちるようにして、震える声で母に別れたことを告げた。

「ゆーくんは、今日もう来ないよ。……私が、遅すぎたの。私が彼に甘えて、寂しい思いをさせて……全部、私のせいなの」

 泣き崩れる私を、母はやりきれない表情で抱きしめてくれた。「ごめんなさい、由美……。お母さんも、もっとあなたたちのことを考えてあげていればよかったわね」と、母の涙が私の肩を濡らす。


 それからの日々は、色のない灰色の霧の中にいるようだった。

 一週間以上が経っても、何も手につかない。日記を読み返してあの時に戻りたいと、彼との思い出を反芻しては、止まらない涙で視界を滲ませる毎日。

 そんな私を見かねて、母が「気晴らしに駅前の百貨店へ行こう」と誘ってくれた。

「来週の水曜日がいい。来週の水曜日仕事休む」

 私は、自分でも呪いのような淡い期待を抱きながらそう答えた。

 ——水曜日。彼の休みの日。もしかしたら、広い街のどこかで、偶然会えるかもしれない。

 母もそれをお見通しだったのだろう。何も言わず、お出かけが大好きな姉も一緒に出かけることになった。

 道中、お姉ちゃんは嬉しそうに私の手を握ってきた。……かつて、ゆーくんもこうして当たり前にお姉ちゃんの手を握ってくれた。突然名前を叫び出したり、自分の肌を掻きむしったりするお姉ちゃんを、彼は一度も嫌な顔せず、「別に構わないよ」とにこやかに受け入れてくれた。

 あの時、私はどれほど救われただろう。この人となら、どんな困難も超えていける。そう確信していたのに。


 けれど、そこで目にしたのは、神様が私に与えた最悪の罰だった。

 キラキラと輝く百貨店の一角。スワロフスキーの店内で、彼は笑っていた。


 隣には、私の知らないひどく幼くて若い女の子。

 二人は慈しむように指輪を選び、彼の左手の薬指に、冷たい銀色の輪が滑り込むのが見えた。


 あんな顔、私にはもうずっと見せてくれなかった。

 あんなに子供のように、幸せそうに笑う彼を、私はもう二度と取り戻すことはできないんだ。


 隣で母が息を呑むのがわかった。

 視界が、怒りと悲しみで真っ赤に染まっていく。けれど、私は必死に声を殺して耐えた。ここで私が取り乱せば、お姉ちゃんが不安を感じて叫び出してしまう。そうなれば、ゆーくんも、あの女の子も、こちらに気づくだろう。私は自分の心臓が止まるような衝撃さえも、喉の奥で押し殺した。


「……許せない」


 けれど、ぽつりと。汚泥のような言葉が漏れた。

 私の場所を奪い、私のゆーくんを「自分のもの」にしたあの子。そして、私をあんなに無惨に捨てておきながら、こんなに早く新しい幸せを掴んだ彼。

 ——このまま、綺麗に終わらせるなんて絶対に嫌。

 腹の底では真っ黒な決意が固まっていた。


 その後、母が行きたがっていた場所へ無言で向かった。母は何も言わず、赤くなっている私の目を心配そうに何度も覗き込んでいた。

 家に帰り、私は暗い部屋で考えた。

 彼がどれほど責任感が強くて、どれほど「恩義」という言葉に弱いか、私は誰よりも知っている。

 彼を繋ぎ止めるための、最後にして唯一の、呪いの言葉を紡ぐ。


【ゆーくん。私が出してあげてた学費、返してほしい。連絡、待ってるね】


 送信ボタンを押す指が、微かに震えていた。

 けれど、心は氷のように冷たく凪いでいた。

 こう送れば、あの「誠実で紳士」な彼は、絶対に私から逃げられない。


 携帯の画面が消え、暗闇に沈んだ部屋の中で、私は一人、狂気を含んだ笑みを浮かべた。

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