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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─壮絶な人生を描く感動のドラマ—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜放置彼女がいる僕。引越しを手伝った女子に合鍵を預けられ「もし付き合ってたら、毎日おかえりって言えますね」なんて。下着の荷解きまで頼む無防備すぎる彼女に、僕の理性は限界です

預けられた合鍵で入った彼女の部屋。二人で啜る牛丼の味。

「もし付き合ってたら……」なんて、彼女は無邪気に笑う。

放置されている彼女・由美への誠実さを守りたい僕を、彼女の「寂しいから一緒にいたい」という真っ直ぐな瞳が揺さぶり続ける。

そして、段ボールから現れた「それ」に、僕は覚悟を決めるしかなくて――。

「……おかえり」

 言った瞬間、耳の裏が焼けるように熱くなる。

 彼女も少し照れたように、パチパチと瞬きをして視線を泳がせた。

 まだ何もないこの部屋の温度が、一気に上がった気がした。


「あ、牛丼買ってきたよ。温かいうちに食べようか」

 照れ隠しに袋を掲げると、彼女はパッと表情を明るくした。

「わあ、ありがとうございます! お腹ペコペコだったんです♪」


 段ボールをテーブル代わりにして、二人で並んで牛丼を食べる。

 ただのチェーン店の牛丼。けれど、窓から差し込む陽光と、隣にいる女の子の立てる小さくて幸せそうな咀嚼音のせいで、それはどんな高級料理よりも特別な味がした。


「……ねえ、優流さん」

 ふいに、亜耶ちゃんが箸を止めて僕を見た。

「ん?」

「さっき、私の部屋の鍵、自分で開けて入ってきたんですよね?」

「……まあ、そうだけど。亜耶ちゃんが渡したんだろ」

 急に真面目なトーンで聞かれ、僕は少し身構えた。やっぱり、勝手に入ったのは非常識だっただろうか。


「ふふっ。なんか、いいですね。優流さんが私の部屋の鍵を持ってて、先に帰って待っててくれて。私が『ただいま』って言ったら、優流さんが『おかえり』って言ってくれる……」

 彼女はそこまで言って、少しだけ身を乗り出すように僕の顔を覗き込んだ。

「これ、もし私たちが付き合ってたら、毎日こうやって優流さんと『ただいま』『おかえり』って言い合えるってことですよね」


 ドクン、と心臓が大きな音を立てた。

 ――付き合ってたら。

 あまりにストレートな仮定に、言葉が詰まる。

 由美への誠実さを盾にして守ってきたはずの女性に対する壁は、出会って数時間の女の子が放つ、冗談とも本気とも取れない言葉に、あっけなく突き崩されようとしていた。


「……何言ってるの。ほら、冷めるから食べよう」

 僕は気づかないふりをして、必死に牛丼を口に運んだ。

 自分の指先に残る、あの銀色の鍵の冷たい感触と、相反するような心の火照りを、必死に無視しながら。


「いくらだった?」

 亜耶ちゃんが身を乗り出して聞いてくる。

「いいよ、これくらい。気にしないで」

「手伝ってもらって、ご飯まで奢ってもらうのは悪いですよ!」

 引き下がらない彼女に、僕はつい、口を滑らせた。

「じゃあ、今度……今日手伝った分も併せて、何か奢ってね」


(……何を言っているんだ、僕は)

 瞬時に由美の顔が浮かび、激しい自己嫌悪が襲う。けれど、彼女は僕の迷いなんて露知らず、「はい!」と満面の笑みで答えた。

 その笑顔があまりに眩しくて、僕は言葉を飲み込むしかなかった。


「……そういえば、亜耶ちゃんって何歳なの?」

 気を取り直して尋ねると、彼女は「優流さんの二つ下ですよ」と事もなげに答える。

「なんで、僕の年齢まで知ってるの?」

「下原さんから、いーっぱい聞きましたもん! 仕事が暇な時、優流さんの話をよくしてくれるんですよ」


 貴明の奴……。けれど、少し合点がいった。彼女が最初から僕を親しげに呼んできたのは、あいつが語る「僕の話」を、彼女がずっと聞いていたからなのか。


「あの話も聞きましたよ! 優流さんが、すっごく格好良かったって話!」

「……格好良かった?」

「下原さんがお釣りを渡し間違えて、お客さんに殴られた時のことです」


 思い出した。あの時、隣のレジで貴明がいきなり殴り飛ばされた光景を。

 八〇〇円のお釣りを三〇〇円で返してしまい、逆上した客が貴明を殴ったのだ。

『誰にでもミスぐらいあるだろ! 殴ることないでしょ、謝れよ!』

 僕は震える足を隠してカウンター越しに怒鳴り、警察を呼ぶよう貴明に目配せして、その客と対峙した。警察が来た途端、それまでの威勢はどこへやら、客はやっと貴明に謝ったっけな。


「下原さん、『優流はすげえ奴なんだよ』って、ずっと言ってましたよ」

 あいつ……僕の前では一度もそんなこと言わないくせに。

「そういえば、なんで貴明は『下原さん』なのに、僕は最初から名前呼びなの?」

「下原さんが呼び捨てにするから、私の中でも『優流さん』になっちゃったんです。……駄目ですか?」

「いや、いいけどさ。……そうだ、名字、教えてよ。やっぱり思い出せなくて」

 亜耶ちゃんは少し考えた後、言いたくなさそうな感じで答えた。

「……松坂ですよ」

「了解。松坂さん、だね。……松坂さんは、どこの大学に通ってるの?」


 その瞬間だった。

 先ほどまで弾けるように笑っていた亜耶ちゃんが、急に不機嫌そうな顔をして黙り込んだ。

「……どうしたの?」

「なんか急に余所余所しい感じがして悲しいです。さっきまでみたいに、下の名前で呼んでくれなきゃ、教えてあげません……」


 じーっと僕を見つめてくるその瞳に、僕は抗えなかった


「……わかった。じゃあ、これからも亜耶ちゃんって呼ぶよ」

「はい!」

 途端に花が咲いたような笑顔に戻る。

 感情表現が豊かすぎて、目が離せない。見ていて本当に楽しいなと、毒気を抜かれた気分だった。


 昼食を終え、一息ついたところで僕は立ち上がった。

「じゃあ、あとは荷解きだけだろうし、僕は帰るよ」

「え……?」

 亜耶ちゃんが、あからさまに固まった。

「あの……荷解きも、手伝ってほしいです。一人は寂しいから……優流さんと一緒にいたいです」


 潤んだ瞳で、上目遣いに見つめられる。

「いや、僕に見られたくないものとか、いろいろあるでしょ」

「特にないですよ! だから、駄目ですか……? 一人は、寂しいし」

 ――くっ、駄目だと言い切れない。

「……わかったよ。どうせ暇だし、明日は久々に予約もなくて休みになってるから」


 これくらいなら、由美への裏切りにはならない。

 自分にそう言い聞かせながら、僕は再び段ボールと向き合った。

 だが、その後の展開は、僕の予想を遥かに超えた「違和感」の連続だった。

 荷解きが進む中、とんでもないものが段ボールから現れた。

「亜耶ちゃん、ごめん。下着はさすがに……僕が触るわけにいかないよ」

「気にしなくていいですよ。そこのタンスにお願いします」

 キッチンの方から、信じられない答えが返ってきた。

「いやいや、さすがにまずいって」

「見られたくないものなんてない、って言いましたし……」


 亜耶ちゃんはこちらを見ようとしない。けれど、キッチンに立つ彼女の耳が、焼けるように赤くなっているのが見えた。


 僕は固唾を呑み、覚悟を決めた。ここで僕が躊躇し続ける方が、彼女を余計に意識させてしまう。

 僕は無言で、指先に伝わる柔らかな感触を無視するように、それらをタンスの奥へと仕舞い込んだ。

 ――この、あまりにも不用心で、あまりにも「近すぎる」彼女の振る舞い。

 それが彼女の天然ゆえなのか、それとも意図的なものなのか。

 鈍感な僕でも、さすがに胸のざわつきを抑えることはできなかった。

 由美という鎖が、音を立てて軋んでいた。

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