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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜「ここで一緒に住みたい」。由美との記憶を塗り替える、彼女の鮮やかな侵食。店長への報告と勝ち誇った笑顔。スワロフスキーの指輪に込めた、残酷で切実な独占欲。

「……由美さんといた場所を、私の色で上書きしたいの」


僕の無機質だったアパートは、一夜にして彼女の「桃色」に塗り替えられた。

捨てられたヘアゴム、運び込まれた彼女の家具。かつての恋人の痕跡を一つずつ丁寧に、残酷に消し去っていく。


「左手の薬指がいいです」

誕生日、スワロフスキーで見つめ合った二人の指に光るペアリング。

それは、誰かを傷つけた罪を分け合い、もう引き返さないと誓った証。

 亜耶と恋人同士になってから、彼女はものすごく僕に甘えるようになった。

 以前も多少の接触はあったけれど、今の彼女は隙さえあれば僕の腕に抱きつき、背中にひっつき、僕の体温を確かめていないと呼吸さえ忘れてしまうような、愛らしくも切実な「ひっつき虫」と化していた。

 こんなにも愛されている。僕は幸せを噛み締めていた。


「ねぇ、優流。明日、優流のおうち見に行ってもいい?」

 首を傾げ、潤んだ瞳で覗き込んでくる彼女に、断る理由なんてなかった。


 迎えた翌日。僕のアパートに足を踏み入れた瞬間、亜耶は獲物を探す小動物のように目を輝かせて部屋中を歩き回った。

「なんか生活感がないね。ずっと私のとこにいたから当たり前だけど」

 棚に並ぶ専門書や、以前の業務日誌を指先で愛おしそうに辿る。そして、不意に僕の正面に立つと、シャツの裾をぎゅっと掴んで僕を見上げた。


「……ねぇ。私、こっちで住みたい。優流と一緒に、ここで住みたい」

 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。由美はこの家を知っている。それどころか、かつてここで僕と時間を共有していたはずだ。亜耶はそれを知っていて、あえてこの場所を「私たちの家」にすると言っているのか。

 返事に詰まっていると、彼女は僕のシャツの裾をより強く握りしめた。その瞳には、一歩も退かないという猛烈な意思が宿っていた。

「……由美さんといた場所を、私の色で上書きしたいの。ダメかな?」

 首を傾げて覗き込むその瞳の奥に、吸い込まれるような暗い執念が見えた。

 彼女はただ一緒にいたいのではない。僕の中に残る「あの人」の残像を、根こそぎ自分の色で塗り潰してしまいたいのだ。

 僕はその、毒を含んだ愛おしさに抗えず、吸い寄せられるように頷くしかなかった。


「……亜耶がいいなら。でも、本当にここでいいの?」

「ここがいいの。優流の場所を、私の場所にしたいの」


 その言葉からの進展は、目まぐるしい速さだった。

 次の水曜日までに荷物を詰め込み、二人で一気に運び出した。荷解きもそこそこに、亜耶は僕の膝に潜り込んでくる。

「残りの荷解きは明日やるから。今は優流とイチャイチャしたい!」

 亜耶が僕の膝に顔を埋め、子猫のようにスリスリと甘えてくる。その柔らかな感触に、由美を傷つけた罪悪感が少しずつ溶けていく。

「ありがとう。僕も、そうしたい」

 僕は彼女の髪を優しく撫で、その温もりに溺れた。しばらくして満足した彼女が「買い物行こう」と立ち上がろうとしたが、今度は僕が彼女を引き止めた。

「亜耶だけズルいよ。僕も、したいことさせて。十分だけでいいから」

「もー!」

 膨れているけれど拒まない彼女を膝に座らせ、背後から深く包み込む。

 細いうなじに顔を埋め、彼女の甘い匂いを肺の奥まで吸い込んだ。

 僕にとっては、この匂いこそが、自分が選んだ「現実」という名の麻薬だった。この温もりさえあれば、背負った罪の重さも、一瞬だけは忘れられる気がした。


 スーパーへ行く前、アルバイト先に顔を出した。店長には亜耶から報告済みだったが、彼女はどうしても僕を連れて行きたかったらしい。

「店長……あの時は、叱ってくれてありがとうございました」

 僕が頭を下げると、店長は少しだけ表情を和らげ、けれど真剣な眼差しで告げた。

「もう、泣かせないであげてね」

「……努力します!」

「もう、本当に不器用なんだから」

 その言葉の意味を考えながら、隣で勝ち誇ったように僕の腕にぶら下がる亜耶を見た。

 スーパーでも亜耶は僕の腕を離そうとしない。どこからどう見てもバカップルそのものだ。けれど、その視線さえも、今の僕たちには祝福のように感じられた。



 翌朝、いつもと違う天井を見て目が覚める。自分の家なのに、どこか他人の家のような、不思議な感覚。隣で眠る亜耶を起こすと、彼女は嬉しそうに目を細め、「おはよう」のキスをくれた。


 ——けれど、その日の夜。

 玄関を開けた瞬間、僕は自分の家を間違えたかと思って立ち尽くした。

 そこは、僕の知っている部屋ではなかった。

「おかえり、優流!」


 隅に積まれていたダンボールは消え、代わりに配置されたのは、かつての亜耶の部屋を彩っていたピンク色のソファー、テーブル、カーテン、カーペット。

 それは紛れもなく、あの混沌としていた「亜耶の部屋」そのものだった。彼女のいた空間が、僕の無機質だった生活を侵食し、鮮やかに塗り替えていく。

「えへへー、驚いた?優流の部屋、可愛くなったでしょ!」

 満足そうに言う亜耶。

「うん、可愛くなった。幸せの色みたい」

 かつての思い出さえも力ずくで書き換えてしまうような、圧倒的な色彩。僕はその光景に呑まれながらも、どこか心地よい支配感に身を委ねながら答えていた。

「そういえば、ヘアゴムが落ちてたから捨てておいたよ」

「あ、うん。ありがとう。嫌なもの見せたね。ごめん」

「ううん。それにしても由美さんの私物って全然ないんだね」

 何かを確認するような眼差し。

「うん。そもそもあの人とは外で会うことばかりだったから」

 由美、と呼び捨てにするのは憚られる。けれど「さん」付けをするのも、今の彼女に対しては不誠実な気がした。

 僕はあえて「あの人」という言葉を選び、精一杯、それはもう終わった過去なのだと伝えたかった。


 そこからの一週間も、これまでの嵐が嘘のように穏やかで、甘い日々が続いた。

「ねぇ、優流。私、自分の部屋の解約手続き、ちゃんとしてきたよ」

 満足そうに報告する彼女の声には、退路を断ち、僕という居場所にすべてを賭けるという誓いが宿っていた。

「何があっても絶対離さないから。安心して」

 僕はぎゅっと亜耶を抱きしめた。



 そして迎えた、亜耶の誕生日。

「……亜耶、おめでとう。ごめんね、プレゼント、まだ用意できてなくて」

 僕は申し訳なさそうに切り出した。

「亜耶と一緒にいられる時間を一秒でも削りたくなくて。一人で買い物に行きたくなかったんだ。だから、今から一緒に買いに行ってほしい」

 僕の言葉を聞いた亜耶は、驚いたように目を丸くした後、幸せそうに顔を綻ばせた。

「物をもらうより、優流がそう思ってくれたことの方が、ずっと最高のプレゼントだよ」


「でも、私ペアリングが欲しい。優流は私のだってもっと感じたいの」

「……もう十分、亜耶のだよ」

 僕は優しく唇を重ね、二人で駅前の百貨店にあるスワロフスキーへと向かった。


 平日昼過ぎの静かな店内。

「どの指につけたいですか?」という店員の問いに、亜耶は迷いなく答えた。

「左手の薬指がいいです」

 その言葉の重みに、心臓が跳ねた。

 刻印を尋ねられた彼女は、未来を見据えるような強い瞳で、静かに、けれど確信を持って言った。


「すぐ欲しいので大丈夫です。それに……またこの指に、本当の意味で新しい指輪を買ってもらう時に、刻印したいから」


 それは、いつかこのペアリングを「本物の指輪」に繋げてみせるという、彼女なりの宣戦布告だったのかもしれない。



 帰宅後、僕はキッチンに立ち、彼女のためにケーキを焼いた。学んだすべてを、今はただ、目の前の彼女を笑顔にするためだけに使う。甘い香りがピンク色の部屋に満ちていく。


 お揃いの指輪をはめた僕の指を、彼女は愛おしそうに眺めながら、できたてのケーキを口に運んだ。

 由美との別れの痛み、背負った罪悪感。それらが消えたわけではない。

 けれど、この桃色の光に包まれた部屋で笑う彼女を見ていると、自分の選択は間違っていなかったのだと、そう確信できた。

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