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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜「別れてきたよ」。玄関で崩れ落ちた再会と、剥ぎ取られた合鍵の行方。王子様の夢を現実にするキス。由美の鍵を欲しがる彼女の『執念』。始まりの牛丼と、共犯者の夜

「……あれがいいの。あの鍵が、いい」


由美から取り上げた、鈍く光る合鍵。

新しいものを作ればいいという僕の困惑を、彼女の強い瞳が射抜く。

それは、僕を救ってくれた恩人の存在を、根こそぎ自分の色で上書きしようとする、剥き出しの独占欲だった。


「王子様の夢」を叶え、誰かを傷つけた罪を分かち合うように肌を重ねる。

僕たちはもう、引き返せない地獄の深淵へと、二人で落ちていく――。

アパートのドアを開けると、そこには朝と同じ場所で、祈るように僕を待っていた亜耶がいた。

「ただいま……」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、暗かった。僕のあまりに沈んだ表情を見て、亜耶の顔が瞬時に絶望に染まる。

「……言えなかった、の? 別れるって、言えなかったんだね……」


 震える彼女の声に、僕は何も答えず、ポケットから一つだけ取り出した。由美のキーケースから、僕が自ら剥ぎ取った合鍵。

「別れてきたよ。……合鍵も、返してもらった」

 明るい日差しが入り込む玄関で、鈍く光る金属の塊。それを見せた瞬間、亜耶は呆然と固まった。けれど、僕がなぜ死人のような顔をしているのか、彼女はすぐに察したのだろう。

「……ごめんなさい。ごめんなさい、優流。こんなにつらいこと、させて……っ」

 彼女が駆け寄り、僕の体を折れるほど強く抱きしめる。その腕の温かさが、張り詰めていた僕の心を一気に決壊させた。



「……これは僕が招いたことなんだ。僕が、自分で選んだんだから……っ」

 声を殺して泣くことしかできなかった。恩義ある人を裏切り、その未来を奪ったという事実。亜耶の肩を濡らしながら、僕は自分のしたことの残酷さを血を吐くような思いで噛み締めていた。


「……ありがとう。戻ってきてくれて。私、嬉しくて、悲しくて……優流、優流……」

 自分を責める僕を、まるごと包み込もうとする彼女の腕。その温もりだけが、暗闇の中にいる僕の、唯一の道標だった。


 どれくらい、二人で泣き続けていただろう。部屋の時計が刻む音だけが、やけに残酷に大きく聞こえ始めた頃、僕たちはようやく距離を置いた。

 僕はキッチンから持ってきた水を彼女に手渡し、自分も一口含んだ。冷たい水が、焼けるように熱かった喉を通り、少しだけ理性を呼び戻してくれる。

「……ねぇ、優流」

 亜耶が、まだ震える声で僕の名前を呼んだ。

「私、さっき言っちゃったよね。……嬉しいって。由美さんから全部奪い取ったのに、私……最低だよね」

 彼女は自分の膝を抱え、小さく震えていた。

「優流の涙の理由が『私のところに戻るための痛み』だってわかったら、不謹慎なのに……とても嬉しかったの」


 僕は、彼女のその痛切な告白を、真っ向から受け止めるしかなかった。由美から鍵を奪い取ってきた時の感触。『優しいゆーくんなら、できないでしょ?』というあの声がまだ耳の奥で鳴り響いている。

「……最低なのは、僕だよ。亜耶をこんなに追い詰めて、ようやく決断して……それでいて、自分だけ被害者みたいな顔をして泣いて。……ごめん、亜耶。僕、もう、君が知ってる僕じゃないかもしれない」

 すると、亜耶は首を横に振って、僕の手にそっと自分の手を重ねた。

「……いいの。私がそうさせちゃったの。今までの貴方を殺させてまで、私がそばにいたかったの」


 繋いだ手の温もりだけは本物だった。けれどその下には、誰かの心の瓦礫が埋まっている。

「……私、優流の恋人になりたい」

 潤んだ瞳で見上げる彼女に、僕は言葉を詰まらせた。


「別れてきたばかりで、軽薄なやつみたいで……僕から言えなくて、ごめん」

「わかってるよ。でもね、私ずっとずっと願ってたんだよ。大好きなの。好きで、好きで仕方なくて、どうしようもないくらいあなたが好きなの!」


 濁流のように溢れ出した彼女の覚悟に、僕は瞳を見つめ返して答える。

「……僕と付き合ってほしい。僕は亜耶が大好きなんだ」

「はい!」

 亜耶が涙を流しながら、この世の何よりも幸せそうな笑顔で抱きついてきた。しばらく彼女は声を出さずに泣きながら、僕を離さなかった。


 やがて、彼女が小さく口を開く。

「……王子様の夢、現実にして」

 背中にまわっていた手が離れ、彼女は潤んだ瞳で僕を見上げていた。僕は、彼女に吸い寄せられるようにキスをした。

あの日、亜耶が夢だと語っていたことが、今、現実の感触となって重なる。


「……夢が、本当に叶った……。でも、もっとしたい。……足りないの」

 自分の唇に指を這わせながら、亜耶は渇望するように僕を見上げる。誰かを傷つけた罪を分かち合うように。僕たちは再び、溺れるように激しく愛を確かめ合った。


 カーテン越しに差し込む午後の光は、驚くほど穏やかだった。

「優流、いい……?」

 不意に押し倒され、彼女の熱い視線に射抜かれる。

「……いや、付き合ったばかりだし、僕は亜耶のこと、大切にしたいんだ」

「私はずっと大切にされてきたよ? だから、ダメ……? 私はずっと、ずっと夢見てたんだよ。もう、抑えられないの。優流が『私のもの』だって、身体の芯まで感じたいの……っ」


 彼女の細い指が僕に絡みつく。あまりに彼女が脆く見えて守りたかった。けれど、不安を宿したその瞳を言い訳に、僕は彼女の剥き出しの欲求を拒むことができなかった。いや、僕自身も、何か確かな温もりで自分の罪悪感を塗り潰してしまいたかったのかもしれない。

 重なり合う肌の熱さだけが、今、僕たちが生きている証明だった。


 祭りの後のような静寂。ふとテーブルの上に目をやった。そこには、僕がポケットから出した、あの鈍く光る「合鍵」が置かれたままになっていた。

「ねぇ、優流。……私も、優流の家の合鍵がほしい」

「……わかった。新しいのを作りに行こう」


 そう答えると、亜耶はゆっくりと顔を上げ、テーブルの上に無造作に置かれた「あの鍵」を指差した。


「……あれが、いい」

僕は一瞬、耳を疑った。

「えっ、でも、あれは……」

 なんで? という言葉が喉まで出かかった。あれは由美が持っていた鍵だ。彼女から「剥ぎ取った」記憶そのもので、前の恋人が使っていたものを欲しがるなんて普通ではない。


けれど、少しいたずらっぽく、それでいて一切の妥協を許さない所有欲に満ちた瞳で、亜耶はもう一度言った。

「あれがいいの。あの鍵が……ダメかな?」

 

もしかしたら彼女は、由美の手にあったものを自分の手に収めることで、勝利を完璧なものにしたいのかもしれない。

その剥き出しの執念に圧倒されながら、僕は、自分の罪を共有するように頷くしかなかった。


「……わかった。じゃあ、これからは亜耶が持ってて」

「ふふ、ありがとう。……あ、なんだか急にお腹空いちゃった」


 さっきまでの悲痛な涙が嘘だったかのように、亜耶はいつもの可愛い笑顔で笑った。

「そうだね。何か作ろうか」

「ううん。今日は牛丼が食べたい!」


 牛丼。初めて一緒に食べた、あの味。彼女は、今日という日を「新しい始まりの記念日」として、由美との思い出さえも自分の色に塗り替えようとしているのだろうか。

 幸せそうに隣を歩く彼女を見ながら、僕は思う。

 僕はもう、引き返せない場所まで来たのだと。この無垢で、残酷で、愛おしい彼女のために、僕は汚れながら生きていくのだと。

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