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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜「由美と、別れる」。亜耶に誓った決死の帰還。恩人への裏切りと、震える手で外した合鍵。車内に響く金属音と、彼女が流した涙。

「亜耶。……由美と、別れる」


その一言は、僕を絶望から救ってくれた恩人を、この手で地獄へ突き落とすという残酷な宣告だった。

「誰にでも優しい僕」を捨て、一人の女性の笑顔を守るために、僕は悪魔になる道を選んだ。


思い出の駐車場の車内。震える指で合鍵を外す由美の涙と、思い出の欠片がこぼれ落ちる音。

「もし、あの時私が受けていたら……」

取り返しのつかない過去を背負い、僕は指先に残る金属の冷たさを抱えたまま、彼女の待つ場所へとバイクを走らせる――。

 亜耶の絞り出すような「嘘」が、鋭い刃となって僕の心臓を締め付ける。

 こんなにもボロボロになり、血を流しながら、彼女は僕を自由にするために嘘をついている。その健気さをこれ以上、僕の身勝手な「正義感」や「恩義」という名の言い訳で踏みにじってはいけない。


 僕は、もう一度あの輝くような笑顔が見たいんだ。

 僕が作った料理を「美味しい」と頬張った、あの屈託のない日常を取り戻したい。


 そのためには、僕を救ってくれた由美を傷つけなければならない。

 誰にでも優しい「都合のいい僕」ではいられなくなる。けれど、自分の心に嘘をつき、由美の両親に会い、亜耶の存在を殺した先に、本当の幸せなんて一滴も残っていないことに気づいてしまった。


 僕は、決断した。


「亜耶。……由美と、別れる」


 静かに告げると、亜耶は弾かれたように顔を上げた。

 驚き、喜び、そして「ありえない」奇跡を目の当たりにしたような深い困惑が、その瞳の中で激しく渦巻く。


「これ以上、亜耶を傷つけたくない。僕は君の笑顔を見て生きていきたいんだ。僕は、その笑顔にずっと救われていたんだって、やっと分かった」


 亜耶の瞳から、奇跡という名の涙がこぼれ落ちる。

「これは、僕のわがままだ。由美を、僕の恩人を傷つける覚悟を決めた。今までの『僕』じゃなくなるかもしれないけれど、それでも亜耶の隣にいたい。亜耶の笑顔を見ていたい。亜耶に振り回されたい」


「本当に……? 本当に、私といてくれるの?」

 水平線の向こうに、絶対に見つかるはずのない灯台を見つけたような表情。その震える声に、僕はまっすぐ頷いた。

 僕は、僕を救ってくれた恩人を傷つける「悪魔」になる覚悟を決めた。

 それでも、亜耶に振り回されながら、隣で生きていく未来を選びたかった。


「……ただ、水曜日に由美と会って、直接言うまで待ってほしい。それが僕にできる、最期の誠実だと思うから」




 水曜日の朝。

 今日、僕は一つの人生を壊しに行く。かつて愛し、絶望の淵から僕を救ってくれた恩人の未来を、僕の手で粉々にするんだ。


 玄関で、亜耶が僕の服の裾をぎゅっと掴んで見上げていた。

「行ってくるよ」

「帰ってきて、くれるよね……?」

 その瞳には、僕がそのまま由美の「家族」という重圧に取り込まれ、二度と戻らないのではないかという、消えない不安が揺れている。

「もちろんだよ。信じて待ってて。……必ず、亜耶のところに帰るから」

 彼女の頭を一度だけ撫でて、僕は重い扉を閉めた。


 待ち合わせ場所は、この街で由美と初めて来た思い出のショッピングモール。その駐車場の片隅。

 車内で隣り合う僕たちの間には、かつての甘い空気は微塵もなかった。


「ゆーくん、おはよう。今日、お父さんも楽しみにしててね……」

「ごめん、由美。……僕はもう、君の気持ちには応えられない」

 遮るように告げた言葉に、由美の笑顔が薄氷が割れるように固まった。

「……え? どういうこと?」

「好きな人が、できたんだ。別れてほしい」


 そこからは、自分の中に溜まっていた澱をすべて吐き出した。

 親友だと思っていた。けれど、いつの間にかその存在が僕の居場所になっていたこと。かつては由美で埋め尽くされていた頭の中に、今は別の誰かの影が染み付いていること。


「こんな気持ちで君の両親に会うなんてできない。由美と一緒にいることも……もう、できない。ごめん」


 長い、長い沈黙。冬の底のような静寂が車内を支配し、彼女の震える吐息だけが白く濁る。



「そっか……。私はずっと、ゆーくんに甘えて、寂しい思いをさせてたんだね……」

 由美の声が、枯葉のように震える。

「でも、これからは寂しい思いをさせないから! だからお願い、ゆーくん……!」

「ごめん……」

「私、ゆーくんじゃなきゃダメなの。ゆーくん以外考えられないよ……っ」


 何を言われても、僕は「ごめん」という無機質な言葉を繰り返すしかなかった。今の僕には、彼女を救う資格はない。亜耶の笑顔を見て生きていくって決めたんだ。

 10分以上の沈黙。車内を支配するのは、重苦しい冬の空気のような静寂。

「……そっか。わかった」


 由美は震える手で、キーケースから僕の部屋の合鍵を外そうとした。けれど、溢れる涙で手元が見えないのか、指がうまく動かない。

「ゆーくんが外してよ……っ。それを私から取り上げて……」


 僕は胸を掻きむしられるような痛みを堪え、彼女の手から鍵を受け取った。

 金属のリングから鍵を外すたび、チャリン、という乾いた音が響く。

 それは僕たちの積み上げてきた時間が、一つ、また一つと削り取られ、死んでいく音だった。

 かつて「いつでも来ていいよ」と、全幅の信頼を込めて手渡した愛情の結晶。

 指先に伝わるその金属の冷たさは、僕が犯した裏切りの重さそのものだった。

 隣で、由美がついに子供のように声を上げて泣き出した。


「最後、一つだけ聞かせて。……ゆーくんが結婚してほしいって言ってくれたとき、私が受けていたら、私と結婚してた?」

 僕は少しだけ視線を落とし、かつて彼女に「居場所になってほしい」と願ったあの日の温度を思い出す。


「……あのときは、そう思ってたよ。本気だった」

 嘘はつけなかった。あの時の僕にとって、彼女は確かに唯一の救いだった。

 でも、僕が求めていたのは「形」としての家庭ではなく、魂が安らげる本当の「居場所」だったんだ。


「そっか……もっと早く決断していたら、よかったんだね……」


 由美は涙を拭い、最後にか細く笑った。その笑顔は、かつて僕を救った時と同じくらい、残酷に綺麗だった。

「ばいばい、ゆーくん。……けど、私はきっとずっと、ゆーくんが好きだよ。私のところへ戻ってきたくなったら、いつでも言ってね。今度は絶対、離さないから……」


「……由美、ごめん。……ばいばい」


 車を降り、一度も振り返らずに自分のバイクへ歩いた。

 駐車場に残された沈黙を振り切るように、アクセルを回す。

 身体を叩く冷たい風に打たれても、ポケットの中で揺れる合鍵の、あの命を断つような冷たい感触は、いつまでも消えなかった。

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