運命の悪戯〜アスファルトに泣き崩れた彼女の真実。店長が突きつけた僕の罪。由美からの『両親に会って』という宣告。抱きしめながら壊してゆく、残酷な『親友』の夜。結婚式、呼んでね……
「結婚式、呼んでね……」
泣きじゃくる彼女が絞り出したその嘘は、どんな叫びよりも深く僕の胸を刺した。
由美への恩義を裏切り、恩知らずとして生きるか。
それとも、自分を愛し、壊れそうなほど震えるこの腕の中の彼女を捨て、一生の後悔を背負って生きるか。
誰も傷つけたくないと願っていた僕は、自分の卑怯さが招いた「究極の二択」という地獄の底で、ついに一つの決心を迫られていた――。
水曜日。由美と会う約束の日まで、あと一週間。
答えは出ない。ただ、何も決まっていない日常を必死に演じることしかできなかった。亜耶は「親友だよ」と笑ってくれるが、その笑顔は薄氷のように危うく、見ていて胸が締め付けられる。
気まずい沈黙を払拭したくて、僕は彼女の本棚に手を伸ばした。
「これ、読んでみてもいい?」
承諾を得てソファーに座り、ページをめくる。どこかで見覚えのあるタイトル。あぁ、この前ネットカフェで彼女が読んでいた本だ。
けれど、本棚に新しい本が増えた形跡はない。……その時、心臓が冷たく脈打った。
彼女は本が読みたかったんじゃない。
あの狭いネットカフェの、外の世界から遮断された二人きりの空間で、僕の体温を感じて、甘えたかっただけなんだ。
そんな震えるような想いを知りながら、僕は「親友」という言葉を盾にして、彼女の心を踏みにじり続けてきたんだ。
僕は思わず独り言を漏らす。いつの間にか、いつものように亜耶が隣にいたのに気付かずに。
「この主人公……ヒロインの気持ちに気づいていながら、酷いやつだな」
「そうだね。まるで優流みたい」
心臓を貫かれた。亜耶の言葉は、鏡のように僕の醜さを映し出していた。
一人になりたくて、逃げるように買い物に出た。
食材を提げて店を出たところで、鋭すぎる「視線」に捕まった。不自然なほど険しい表情をした、店長だった。
「……あら、柳くんじゃない」
「店長……お疲れ様です。買い物ですか?」
「そんなわけないでしょ。あんたを待ってたのよ。……あっちのベンチまで来なさい」
公園のベンチ。店長は僕の買い物袋をひったくるように置くと、僕を正面から射抜いた。
「あんた、松坂さんがあの日、道端でどんな風に泣き崩れていたか知ってるの?」
「……え?」
「彼女ね、あんたが由美さんと手を繋いで歩くのを、隠れて見てたのよ。人目も気にせず、アスファルトの上に座り込んで、子供みたいに泣いてた。それを私が介抱したの!」
言葉が出なかった。目がパンパンなのを「寝過ぎたせい」だと言って、無理やり口角を上げて笑っていた彼女の顔がフラッシュバックする。
「彼女はね、由美さんの影に怯えながら、『親友』っていう千切れそうな糸を命綱にして、必死にあんたの隣にしがみついてたのよ! なのにあんた……キスマークをつけたまま帰ってきたんですって? 鈍感にも程があるわよ!」
店長の言葉は、一言ごとに僕の胸を鋭利な刃で抉っていく。
「観覧車で指を絡め、膝枕を許し、髪を撫でて……。あの子が自分を好きだって、気づいていたんでしょ! なのに来週また彼女に会う? ふざけないで!」
僕は、自分の寂しさを埋めるために、彼女を地獄に繋ぎ止めていた。底なしの罪悪感に震えながら、僕はアパートへ戻った。
「遅かったね。何かあった?」
「……店長と会ったんだ。いかに僕が残酷だったか、やっとわかったよ」
亜耶の顔から血の気が引く。
「……私が悪いの。彼女がいるってわかってるのに、どうしても、どうしてもあなたの傍にいたくて」
亜耶から直接ぶつけられるその想いに、僕は言葉を失った。
僕は「優しさ」のつもりで、彼女にどれほど残酷な執着を強いていたのか。その重みが肩にのしかかる。
食卓につき、静かな夕食が始まった時だった。テーブルに置いたままの僕の携帯が、短く震えた。 画面に浮かび上がったのは、【由美】の文字。
正面に座っていた亜耶が、それを見てビクッと肩を揺らしたのが分かった。
見るのが怖かった。今この瞬間に彼女から届く言葉が、どれほど僕を追い詰めるものか、本能が警告していた。
「……見ないの?」
亜耶が、消え入るような声で僕を促した。 僕は震える指でロックを解除し、メッセージを開いた。
『……お父さんとお母さんに会ってほしい』
一瞬、思考が停止した。血の気が引き、自分の顔が凍りつくのが分かった。それは、由美が僕との未来に「家族」という決定的な縁を繋ごうとしている合図だった。
「……夜に、両親にも会ってほしいって、言われた」
「それって……それって……っ!」
亜耶の瞳から、耐えていた堤防が決壊するように大粒の涙が溢れ出した。
抱きしめちゃダメだ。そんな資格は僕にはない。そう分かっていても、気づけば僕は彼女を抱きしめていた。店長に「殺し続けている」と言われた彼女の細い肩を、僕は離すことができなかった。
「抱きしめちゃ、ダメだよ……っ。こんなの、ズルいよ……」
嗚咽混じりに、彼女が僕の胸を叩く。でも、僕はさらに強く、彼女をぎゅっと抱きしめ返した。 「ごめん……。けど……」
言葉が続かない。ただ、僕自身も怖かったんだ。自分に迫る責任から、決断から、逃げ出したかった。その弱さが、さらに彼女を追い詰める。
「甘えたくなっちゃうよ……。優流、行かないで……行かないで、お願い……っ」
シャツを握りしめ、僕の胸に顔を埋めて泣き叫ぶ亜耶。
由美からの「希望」という名の招待状と、腕の中で震える亜耶の「絶望」。
僕はその正反対の熱量に挟まれながら、自分の無力さと卑怯さに、止まらない涙が溢れていた。
やがて、亜耶は無理やり僕の胸から顔を離し、赤く腫れた目で、笑ったのか泣いたのか分からない表情を浮かべた。
「……ごめんなさい。私、親友失格だね。……由美さんと、幸せになってね。居場所がほしい優流はずっとこの時を待ってたんだもんね。ご両親に、ちゃんと会って、きてね……」
言いながら、視界を塞ぐほど涙が溢れているのに、彼女は残酷なまでの優しさで僕を突き放した。
「結婚式、呼んでね……」
震える声でそう言った彼女の瞳は、もう僕を見てはいなかった。
どこか遠く、僕たちが決して辿り着けないはずの、偽りの未来を見つめているようだった。
彼女が零した涙が、僕のシャツに染み込んで、冷たく体温を奪っていく。
部屋の隅で、ピピがこちらを見たまま座っている。置かれたままの芋けんぴが、無機質な袋の中でカラカラと乾いた音を立てた。
それは、僕たちが築き上げてきた『親友』という名の砂の城が、音もなく崩れていく音に聞こえた。
僕を地獄から救い上げてくれた由美への「恩義」を裏切るのか。
それとも、僕をこれほどまでに愛し、僕が壊し続けてきた彼女への「想い」を貫くのか。
誰も傷つけたくないと願っていた僕は二人の人生という重すぎる荷物を両手に抱え、どちらも離せないまま、真っ暗な奈落の縁で立ち尽くしていた。




