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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─壮絶な人生を描く感動のドラマ—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜洗い流された残り香と、お日様の匂い。手を繋ぎ、膝を貸し、未来を信じた二ヶ月。一通のメールが告げる『再来週の水曜日』。凍りつく瞳と、壊れゆく日常。僕の誠実さが彼女を殺す

「……あぁ、亜耶が洗ってくれたんだ」


僕が必死に隠したかった「熱」を、彼女は太陽の光でもう一度浄化してくれた。

それからの二ヶ月、僕たちは『親友』という言葉を盾に、あまりにも甘い日常を過ごした。


けれど、由美からのたった一通のメールが、すべてを瓦解させる。

「許可を取ること」が誠実だと思い込んでいた僕の愚かさが、彼女の心をガラスのように砕いていく――。

「……ごめん。亜耶にはあまり言いたくない」


 思わず口をついて出たその言葉は、自分でも驚くほど卑怯な響きを含んでいた。

 本当は、由美と過ごした時間のすべてを正直に話すべきだったのかもしれない。けれど、僕の中にある「正解」は、真実で彼女を傷つけることでも、真っ赤な嘘をつくことでもなかった。

 ただ、これ以上、由美との「熱」をこの部屋に持ち込みたくなかったんだ。


 沈黙が流れる。拒絶されたも同然の僕に、亜耶は追求すらしてこなかった。


「今日はお布団持ってくる? ソファー、痛いでしょ?」


 その瞬間、僕は全身の力が抜けるような安堵を覚えた。

 あぁ、許されたんだ。彼女は僕の卑怯さを、すべてその細い腕で包み込んでくれた。

 最低な男だと自覚しながらも、僕は「これでいいんだ」と、彼女の優しさに甘える自分を無理やり納得させていた。


 翌朝、穏やかな朝の一時。

 並んで歯を磨き、一緒に朝食の準備をする。

「行ってらっしゃい」「行ってきます」

 その響きに一昨日のぎくしゃくした違和感が消え去ったことに、僕は安堵し、嬉しく思っていた。


 仕事の合間、亜耶のいるバイト先で何も知らない貴明と少し会話をし、大好物の芋けんぴを買う。家主のいない彼女の部屋でシャワーを済ませ、芋けんぴを齧りながら業務日誌を書き始めたとき、ふと、布団からいい匂いがすることに気がついた。


(……あぁ、亜耶が洗ってくれたんだ)


 昨日も洗ったのにな、と思いながら、お日様と亜耶の匂いが混ざったシーツに顔を寄せる。

 由美の残り香はもう一滴もしていなかった。

 これで本当に、僕たちは「元通り」だ。そう、自分に言い聞かせた。


 それからの二ヶ月間は、恐ろしいほどに何も起きなかった。

 買い物に行けば、いつの間にか当たり前のように手を繋ぐ。

 カラオケで歌い、ゲームセンターで彼女の欲しがるスヌーピーを獲る。プリクラで後ろから抱きしめるポーズを求められても、もう躊躇わなくなっていた。


 ネットカフェの狭いペアシート。

「ちょっと首が凝っちゃった」と言って、僕の膝に頭を預けてくる亜耶。

 伝わってくる彼女の体温。


「……亜耶?」

「んー、寝不足なの。もうちょっとだけ」


 満足そうに目を閉じている彼女を見ると、立ち上がって次の本を取りに行くことすらためらわれた。手持ち無沙汰になった僕は、黙って彼女の髪を撫でていた。

 指先に絡まる髪の感触が、あまりにも自然で。

 このまま、世界が止まってしまえばいい。そんな傲慢な願いを、僕は本気で信じ始めていた。




 けれど、そんな平穏は唐突に終わりを告げた。

 スマホに届いた一通のメール。由美からだった。


『再来週の水曜日、会いたいな』


 その瞬間、僕の脳裏に「あの日」のベランダの風景が蘇る。

 僕は「親友」の亜耶を裏切らないために、あえて「恋人」の誘いを隠さないことを選んだ。それが最大の不実であるとも気づかずに。


「ねぇ、亜耶。由美から、再来週の水曜日に会いたいってメールが来たんだけど……行っていいかな?」


 日誌を書く手を止め、隣に座る彼女に視線を向ける。

 その瞬間、亜耶の表情が、目に見える速さで「無」へと凍りついた。

 さっきまでの柔らかい瞳が、光を失ったガラス細工のように無機質に反射する。

 部屋の空気が一瞬で吸い取られたような、長い、長い沈黙。


「……そんなの、私に許可をとるようなことじゃないよ」


 ようやく返ってきたのは、驚くほど低く、地這うような震える声だった。


「え? ……あ、でも……」

「私、寝るね。おやすみ」


 亜耶は振り返りもせずにロフトへと上がっていった。

 階段を軋ませる音が、僕たちの「偽りの二ヶ月」が壊れる音のように響いた。

 何か埋め合わせをしないとな。

 そんな、薄ら寒い能天気さを抱えたまま、僕は白々しく光る日誌の続きを書き始めた。

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