表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─壮絶な人生を描く感動のドラマ—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/26

運命の悪戯〜【由美視点】略奪という名の救済。あの日、絶望の彼を『私のもの』にした日記の告白。背中に刻んだ透明な鎖と、別の誰かに奪われる予感。私が始めた嘘が、私を追い詰めていく

「私、ゆーくんを連れていきたい」


ボロボロになった彼を見て、私は最低な計算をしていた。

今この手を差し伸べれば、彼は一生、私から離れられなくなる――。


あれから数年。嘘のつけない彼が放った「やましいことはない」という言葉。

その誠実さを信じるために、私は彼の肌に、誰にも見えない印を刻みつける。

私が彼を奪った時のように、今度は別の誰かが、彼の寂しさにつけ込んで奪い去ってしまう前に。

 自室の机に向かい、日記帳を開く。

 いつもなら一行か二行、事務的な予定を書き込むだけで終わるその真っ白なページが、今日は私の体温を吸い込んだ文字でびっしりと埋まっていく。


 ペンを走らせる間も、緩みっぱなしの頬が戻らない。今日、彼と一緒にいられた時間のすべてが愛おしくて、一文字も漏らしたくなかった。


 ふと手を止め、古いページをめくる。そこには、私たちの「始まり」が刻まれている。

 他のゲームに移るという彼に、必死で食らいついたあの日。連絡先を交換できた時の、飛び上がるような喜び。

『写真、見てみたい』

 軽い気持ちで送ったメールに、別にいいけどと、彼がはにかんだような自撮り画像を送ってくれた。こんなにカッコいいなんて……私はこんなカッコいい人に優しく接されてたんだと思うと、一人で顔を真っ赤にした。


 お返しに私の写真を送ると、すぐに驚いたような返信が来た。

『……女性だったんだ。びっくりした』

 画面越しに、彼が目を丸くしている姿が目に浮かぶようで、可笑しくて、愛しくて。


 そして――ゆーくんと初めて会った、あの日。

 彼はまだ高校三年生だった。写真は見ていたけれど、画面の向こう側にいるこんなにもカッコよくて優しい人が、本当に実在するなんて信じられなかった。

「実は騙されているんじゃないか」

 新幹線に揺られながら、私はそんな不安を抱えて、必死に胸の高鳴りを抑えていた。


 待ち合わせは、私の家の最寄りのターミナル駅よりもずっと大きな、ターミナル駅。

 人混みの中、柱の隣で大きなリュックとカバンを抱え、心細そうに俯いている男の子を見つけた。


 私は帽子を深く被り、正体を隠したまま、彼の前を通り過ぎてみる。

 彼はじっと足元を見つめたままで、私には気づかない。けれど、一瞬だけ見えたその横顔は、画像で見るよりもずっと整っていて、どこか壊れそうなほどに美しかった。


 柱の後ろに隠れ、激しく暴れる心臓を宥める。

 ドキドキが止まらない。こんなに浮ついた気持ちで、地獄の中にいる彼に会ってはいけない。

 深呼吸をして、帽子をカバンに押し込む。少しだけ落ち着きを取り戻してから、私は彼の横に並び、覗き込むようにして視線を合わせた。

「……ゆーくん」


 彼は弾かれたように顔を上げ、私の瞳を捉えた。

「由美……さん?」

 確認するように、不安げに紡がれた「さん」という敬称。ああ、やっぱり私は、彼にとって「対象外のお姉さん」なんだ。胸の奥が少しだけチクリと痛む。

「そうだけど……いつもみたいに、『さん』はいらないよ」

 私が微笑むと、彼の瞳には深い絶望と、少しの安堵が混ざり合った。

「ごめん。由美が、あんまり綺麗な人だったから、つい……」

 平静を装っているけれど、彼の指先は小刻みに震えている。必死に耐えているのだ。彼が今、どれほどの地獄を背負ってここに立っているかを思えば、当然だった。


 私はその消えてしまいそうな手を取り、駅から連れ出した。

「二人きりになれるところ、行こっか」

 外へ出たものの、私はこの界隈に詳しくない。

「ゆーくん、どこか良さそうな場所あるかな?」

「ごめん、僕も数えるほどしか来たことがなくて。……でも、あそこなら」

 彼が指差したのはカラオケボックス。その隣には、煌びやかな看板のホテル。

「あっちの方が、静かだよ」

 私はホテルを指差した。我ながらなんて大胆なことを言っているんだろう。けれど、今の彼の心には、カラオケの騒音さえ毒になる気がした。


 ゆーくんは耳まで真っ赤に染めて「そりゃそうだけど……」と消え入るような声で呟いた。

 私はそれを承諾と受け取り、彼の腕を引いて、そのまま密室へと連れ込んだ。


 重い荷物を置き、彼がポツリと零す。

「これから、どうしよう……」

 その一言が、私の限界だった。堰を切ったように涙が溢れ出す。

「大好きなゆーくんが、こんな目に遭ってるなんて……耐えられない」

 言葉よりも先に彼を抱きしめていた。「大好きだ」なんて、この状況で言ってはいけない告白まで、口を突いて出た。

 ゆーくんは私の腕の中で、肩を震わせながら、声を殺して泣き続けた。


 やがて、彼が私の胸から顔を上げた。

「ごめんね。私の方が泣いちゃって……」

「ううん。由美、ありがとう。来てくれて……すごく、嬉しい」

 絶望を纏ったままの、痛々しい笑顔。


「私こそ、遅くなってごめんね。家が近かったら良かったんだけど」

「遠いんだから、当たり前だよ。でも、交通費、すごくかかったんじゃ……」

「そんなこと気にしないで。それより……」

 私は彼の荷物を見つめ、意を決して言った。

「住むところ、探さなきゃね」

「うん。……でも、この街にはいたくない。どこか、遠くへ行きたい……」


 今なら彼を私のものにできるかもしれない。

 ずっと恋焦がれていた彼を。


「私ね、会ったことはなかったけど、画面越しにずっと、あなたのこと好きだった」

 ゆーくんが目を見開いて私を見ている。


「私、ゆーくんを連れていきたい」


 絶望の淵にいる彼を救いたい。けれど、このタイミングで言うのはあまりにも卑怯だ。弱みにつけ込むような、最低な女かもしれない。


 今、この手を差し伸べれば、彼は一生私から離れられなくなる。

 ゆーくんを救うことは、私の長年の望みを叶えることと同義だった。

「ゆーくん……私と一緒に来る?」

 その日から、私は念願だった「ゆーくんの恋人」になった。


 ---


 日記を綴る手が、少しだけ重くなる。

 最近、胸の奥にさざ波のような違和感が消えない。

 前に、急に誘った時に「予定がある」と断られた。どんな時でも私を最優先にしてくれていた彼が、初めて私を後回しにした。その瞬間、小さな不安の種が芽生えた。


 だから今日、確信を得るために聞いてみた。

「この前の引越しの手伝い、どうだった?」

 ゆーくんの肩がビクッと跳ねるのを、私は見逃さなかった。本当に、嘘がつけない人。


「……ちゃんと、手伝ったよ」

「ふーん。女の子でしょ?」

 彼は沈黙の後、絞り出すように答えた。

「うん……ごめん。どうしても放っておけなくて。でも、決してやましいことはないから!」

「……ほんとに?」

「うん。ほんとに、やましいことはないよ」

  「ほんとに?」

「誓って、ないよ」

「わかった。信じるよ。急に誘った私が悪かったんだしね」

 彼は心底ほっとしたように笑った。


 かつて私を裏切ってきた男たちなら、逆ギレして怒鳴り散らす場面。けれど彼は、どこまでも誠実に、私の目を真っ直ぐに見つめて答える。

 その瞳に映る自分が、あの日彼を『略奪』した時と同じ、狡猾な顔をしていないか不安になる。

 私は、消えない不安の澱を塗り潰すように、彼の服の下、目立たない場所にキスマークを刻んだ。

 これは私のもの。誰にも触れさせないための、透明な鎖。


 その後も、彼は楽しそうに私に寄り添ってくれた。

 やっぱり、私は彼と結婚したい。毎日、温かい家で「おかえり」って言いたい。

 けれど、母や姉のことを考えると、あの時彼が言ってくれた「結婚しよう」に頷くことができなかった。


 いつまで、彼を待たせてしまうんだろう。

 寂しがり屋の彼を一人にして、自分の幸せから逃げて、私は一体何をしているんだろう。


 私が彼を救ったあの日と同じように、今度は別の誰かが、彼の寂しさにつけ込んで奪い去ってしまうのではないか。

 ……いつか、取り返しがつかなくなる。そんな予感がして、胸がざわつく。


 日記の最後に、決意を込めて書いた。

『今度こそ、お母さんに相談してみよう』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ