運命の悪戯〜【由美視点】略奪という名の救済。あの日、絶望の彼を『私のもの』にした日記の告白。背中に刻んだ透明な鎖と、別の誰かに奪われる予感。私が始めた嘘が、私を追い詰めていく
「私、ゆーくんを連れていきたい」
ボロボロになった彼を見て、私は最低な計算をしていた。
今この手を差し伸べれば、彼は一生、私から離れられなくなる――。
あれから数年。嘘のつけない彼が放った「やましいことはない」という言葉。
その誠実さを信じるために、私は彼の肌に、誰にも見えない印を刻みつける。
私が彼を奪った時のように、今度は別の誰かが、彼の寂しさにつけ込んで奪い去ってしまう前に。
自室の机に向かい、日記帳を開く。
いつもなら一行か二行、事務的な予定を書き込むだけで終わるその真っ白なページが、今日は私の体温を吸い込んだ文字でびっしりと埋まっていく。
ペンを走らせる間も、緩みっぱなしの頬が戻らない。今日、彼と一緒にいられた時間のすべてが愛おしくて、一文字も漏らしたくなかった。
ふと手を止め、古いページをめくる。そこには、私たちの「始まり」が刻まれている。
他のゲームに移るという彼に、必死で食らいついたあの日。連絡先を交換できた時の、飛び上がるような喜び。
『写真、見てみたい』
軽い気持ちで送ったメールに、別にいいけどと、彼がはにかんだような自撮り画像を送ってくれた。こんなにカッコいいなんて……私はこんなカッコいい人に優しく接されてたんだと思うと、一人で顔を真っ赤にした。
お返しに私の写真を送ると、すぐに驚いたような返信が来た。
『……女性だったんだ。びっくりした』
画面越しに、彼が目を丸くしている姿が目に浮かぶようで、可笑しくて、愛しくて。
そして――ゆーくんと初めて会った、あの日。
彼はまだ高校三年生だった。写真は見ていたけれど、画面の向こう側にいるこんなにもカッコよくて優しい人が、本当に実在するなんて信じられなかった。
「実は騙されているんじゃないか」
新幹線に揺られながら、私はそんな不安を抱えて、必死に胸の高鳴りを抑えていた。
待ち合わせは、私の家の最寄りのターミナル駅よりもずっと大きな、ターミナル駅。
人混みの中、柱の隣で大きなリュックとカバンを抱え、心細そうに俯いている男の子を見つけた。
私は帽子を深く被り、正体を隠したまま、彼の前を通り過ぎてみる。
彼はじっと足元を見つめたままで、私には気づかない。けれど、一瞬だけ見えたその横顔は、画像で見るよりもずっと整っていて、どこか壊れそうなほどに美しかった。
柱の後ろに隠れ、激しく暴れる心臓を宥める。
ドキドキが止まらない。こんなに浮ついた気持ちで、地獄の中にいる彼に会ってはいけない。
深呼吸をして、帽子をカバンに押し込む。少しだけ落ち着きを取り戻してから、私は彼の横に並び、覗き込むようにして視線を合わせた。
「……ゆーくん」
彼は弾かれたように顔を上げ、私の瞳を捉えた。
「由美……さん?」
確認するように、不安げに紡がれた「さん」という敬称。ああ、やっぱり私は、彼にとって「対象外のお姉さん」なんだ。胸の奥が少しだけチクリと痛む。
「そうだけど……いつもみたいに、『さん』はいらないよ」
私が微笑むと、彼の瞳には深い絶望と、少しの安堵が混ざり合った。
「ごめん。由美が、あんまり綺麗な人だったから、つい……」
平静を装っているけれど、彼の指先は小刻みに震えている。必死に耐えているのだ。彼が今、どれほどの地獄を背負ってここに立っているかを思えば、当然だった。
私はその消えてしまいそうな手を取り、駅から連れ出した。
「二人きりになれるところ、行こっか」
外へ出たものの、私はこの界隈に詳しくない。
「ゆーくん、どこか良さそうな場所あるかな?」
「ごめん、僕も数えるほどしか来たことがなくて。……でも、あそこなら」
彼が指差したのはカラオケボックス。その隣には、煌びやかな看板のホテル。
「あっちの方が、静かだよ」
私はホテルを指差した。我ながらなんて大胆なことを言っているんだろう。けれど、今の彼の心には、カラオケの騒音さえ毒になる気がした。
ゆーくんは耳まで真っ赤に染めて「そりゃそうだけど……」と消え入るような声で呟いた。
私はそれを承諾と受け取り、彼の腕を引いて、そのまま密室へと連れ込んだ。
重い荷物を置き、彼がポツリと零す。
「これから、どうしよう……」
その一言が、私の限界だった。堰を切ったように涙が溢れ出す。
「大好きなゆーくんが、こんな目に遭ってるなんて……耐えられない」
言葉よりも先に彼を抱きしめていた。「大好きだ」なんて、この状況で言ってはいけない告白まで、口を突いて出た。
ゆーくんは私の腕の中で、肩を震わせながら、声を殺して泣き続けた。
やがて、彼が私の胸から顔を上げた。
「ごめんね。私の方が泣いちゃって……」
「ううん。由美、ありがとう。来てくれて……すごく、嬉しい」
絶望を纏ったままの、痛々しい笑顔。
「私こそ、遅くなってごめんね。家が近かったら良かったんだけど」
「遠いんだから、当たり前だよ。でも、交通費、すごくかかったんじゃ……」
「そんなこと気にしないで。それより……」
私は彼の荷物を見つめ、意を決して言った。
「住むところ、探さなきゃね」
「うん。……でも、この街にはいたくない。どこか、遠くへ行きたい……」
今なら彼を私のものにできるかもしれない。
ずっと恋焦がれていた彼を。
「私ね、会ったことはなかったけど、画面越しにずっと、あなたのこと好きだった」
ゆーくんが目を見開いて私を見ている。
「私、ゆーくんを連れていきたい」
絶望の淵にいる彼を救いたい。けれど、このタイミングで言うのはあまりにも卑怯だ。弱みにつけ込むような、最低な女かもしれない。
今、この手を差し伸べれば、彼は一生私から離れられなくなる。
ゆーくんを救うことは、私の長年の望みを叶えることと同義だった。
「ゆーくん……私と一緒に来る?」
その日から、私は念願だった「ゆーくんの恋人」になった。
---
日記を綴る手が、少しだけ重くなる。
最近、胸の奥にさざ波のような違和感が消えない。
前に、急に誘った時に「予定がある」と断られた。どんな時でも私を最優先にしてくれていた彼が、初めて私を後回しにした。その瞬間、小さな不安の種が芽生えた。
だから今日、確信を得るために聞いてみた。
「この前の引越しの手伝い、どうだった?」
ゆーくんの肩がビクッと跳ねるのを、私は見逃さなかった。本当に、嘘がつけない人。
「……ちゃんと、手伝ったよ」
「ふーん。女の子でしょ?」
彼は沈黙の後、絞り出すように答えた。
「うん……ごめん。どうしても放っておけなくて。でも、決してやましいことはないから!」
「……ほんとに?」
「うん。ほんとに、やましいことはないよ」
「ほんとに?」
「誓って、ないよ」
「わかった。信じるよ。急に誘った私が悪かったんだしね」
彼は心底ほっとしたように笑った。
かつて私を裏切ってきた男たちなら、逆ギレして怒鳴り散らす場面。けれど彼は、どこまでも誠実に、私の目を真っ直ぐに見つめて答える。
その瞳に映る自分が、あの日彼を『略奪』した時と同じ、狡猾な顔をしていないか不安になる。
私は、消えない不安の澱を塗り潰すように、彼の服の下、目立たない場所にキスマークを刻んだ。
これは私のもの。誰にも触れさせないための、透明な鎖。
その後も、彼は楽しそうに私に寄り添ってくれた。
やっぱり、私は彼と結婚したい。毎日、温かい家で「おかえり」って言いたい。
けれど、母や姉のことを考えると、あの時彼が言ってくれた「結婚しよう」に頷くことができなかった。
いつまで、彼を待たせてしまうんだろう。
寂しがり屋の彼を一人にして、自分の幸せから逃げて、私は一体何をしているんだろう。
私が彼を救ったあの日と同じように、今度は別の誰かが、彼の寂しさにつけ込んで奪い去ってしまうのではないか。
……いつか、取り返しがつかなくなる。そんな予感がして、胸がざわつく。
日記の最後に、決意を込めて書いた。
『今度こそ、お母さんに相談してみよう』




