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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─壮絶な人生を描く感動のドラマ—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯(亜耶視点)〜浄化された布団と、背中の紅い証。壁一枚隔てた隣の部屋で、私は自分の存在が消される音を聞いていた。「言いたくない」という不器用な誠実さが、私を一番残酷に突き放す

「……ねぇ、優流。昨日は、どうだった?」


彼が由美さんのために私との痕跡を消し去る姿を、私は黙って見つめていた。

壁の向こうから聞こえる二人の笑い声。道端で泣き崩れた私の絶望を、彼は何も知らない。


戻ってきた彼の背中に刻まれた、生々しい裏切りの痕。

それでも私は、彼の罪悪感を肩代わりするように「許し」を与えてしまう。

この嘘が私を壊してしまうまで、私は彼の隣で笑い続けるしかない――。

 裏切りの朝


 精一杯の笑顔を作って、彼を送り出す。扉が閉まった瞬間、私の顔から表情が消えた。


 優流の敷布団が敷かれていた場所を見つめる。そこにはもう、何もない。ただ、冷たいフローリングが広がっているだけ。あんなに私といるのを嬉しそうにしてくれていた人は、もういない。




(……どうして?)




 先週の遊園地。観覧車の中で重なった体温。きっと私の気持ちにも気づいている。


 窓の外を見つめる優流の横顔は、あんなに優しくて、あんなに切なそうで……確かに私のことを、ただの「親友」以上の眼差しで見つめていたはずなのに。


 それなのに。彼は「由美を心配させたくない」という正論を盾に、私の部屋から自分の痕跡を消し去った。




『……分かった。じゃあ、今日はソファーを借りるよ』




 逃げるように仕事へ向かった、卑怯な人。


 彼は自分の部屋で、私の部屋の匂いを懸命に叩き落としたのだろう。あの人が来るまでに、真っ新な「彼氏の顔」に戻るために。


 それは私という存在が彼にとって不都合といっているようなもの。




 気づけば二時間が経っていた。私は吸い寄せられるように、彼のマンションが見える角に向かっていた。


 そこには見覚えのある一台の車が、静かに停まっていた。




(……まだ、家の中にいるんだ)


 何を話しているんだろう。どんな風に、触れ合っているんだろう。  嫌だ。想像したくない。  けれど、勝手に溢れ出す光景が頭の中を埋め尽くして、視界が滲む。こんな道端で涙を零している私を、道行く人は怪訝そうに見るけれど、どうしても止めることはできなかった。

「親友でいい」なんて、やっぱり嘘だ。    彼が私のために作ってくれたカクテルの甘い味も、一つのマイクで一緒に歌ったことも、観覧車での夢のような時間も全部幻だったんじゃないかと思えてくる。  「親友」という言葉で自分を騙してきた報いが、今、抉られるような痛みとなって私を襲っていた。時計の針が進むたびに、私の心は削り取られていく。



 こんなの耐えられない。



 自分の心に、嘘なんてつけないんだ……。



 十一時を過ぎた頃、マンションの入り口から二人が出てきた。仲良さそうに手を繋いで車へ向かう優流と由美さん。




(……あぁ、本当に。彼の隣は、私の場所じゃないんだ)




 私は身を隠しながら、遠ざかっていく車をただ黙って見送った。




「……松坂さん? ちょっと、松坂さんじゃないの!」

 頭上から降ってきたのは、驚きに満ちた、けれど聞き慣れた店長の声だった。見上げることすらできず、私はただ、道端で子供のように泣きじゃくるしかなかった。

「ちょ、ちょっと、ここで立ち話もなんだから。こっち来なさい」



 店長に半分抱きかかえられるようにして、近くの喫茶店の隅の席へと連れて行かれた。温かいおしぼりと、頼んでもいないココアが運ばれてくる。店長は私が落ち着くまで、何も言わずにただ向かい側に座っていてくれた。

「……すみません、店長。見苦しいところを」  ようやく震える声で絞り出すと、店長は深い溜息をついた。 「見苦しいもなにも……あんな泣き方してる子、放っておけるわけないでしょ。何があったの?」

 問いかけられ、今日あった出来事を思い出すと、また視界がじわりと滲んだ。私は、誰にも言えなかった「秘密」を、堰を切ったように話し始めた。



 恋人がいる優流を好きになってしまったこと。  その彼と「親友」になると嘘をついて、同棲しているような生活を送っていること。  そして今日、彼が恋人と自室で二人きりで過ごし、仲睦まじくマンションから出てくるのを、隠れて見ていたこと。

「……馬鹿ね。あんた、本当に馬鹿よ」

 店長の声は、怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。 「なんでそんな、自分を切り刻むようなことするの。親友なんて、そんな都合のいい言葉で自分を騙して……。柳君はあなたの気持ちに気づいているのでしょう……?」

「……はい。たぶん、気づいていると思います。観覧車で、肩に寄り添って、指まで絡めましたから……でも、親友だって……だから、私も……そうじゃなきゃいけないんです」

「……! あのタラシ、いい加減にしなさいよ……」

 店長はテーブルを小さく叩いて、悔しそうに顔を歪めた。その憤りが、自分のことのように怒ってくれるその優しさが、今の私には痛くて、でもほんの少しだけ救われるような気がした。



「あの……店長。今日私が泣いてたこと、優流には言わないでください……」 「松坂さんがこんなになってるのに……一発言ってあげないと気が済まないわ」 「そしたら、私の気持ち本当に全部バレちゃうじゃないですか……一緒にいられなくなっちゃうかもしれないから。私は、それでも、彼のそばにいたいんです……」

 また涙を浮かべる私を前に、店長は深いため息をつきながら「わかったわ」と言った。


 店長と別れた後、ドラッグストアで冷えピタを買い、必死に目を冷やした。 鏡で見なくてもわかる。私の目は、誰が見ても「ひどく泣いた後」だとわかるくらい腫れ上がっている。

(大丈夫。まだ時間はたっぷりある。……笑わなきゃ。笑顔で『おかえり』って言わなきゃ)


 夕方17時。私はわざとロフトの上で寝ているふりをして、彼の帰りを待った。

 別れ際、またあの人とキスしたのかな。想像したくないのに、止まったはずの涙がまた溢れそうになる。枯れるほど泣いたはずなのに、私の心はまだこんなにも痛い。

 ほどなくして、玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま、亜耶。……あれ、寝てるの?」 「おかえり、優流! ずっと寝てたんだけど、今起きたところ。……あはは、寝すぎちゃって目がパンパンだよ」

 私はわざとおどけて、腫れた目を指差して笑った。寝起きのせいにすれば、泣き腫らしたことは誤魔化せるはず。

「本当だ、ひどい顔。……大丈夫? どっか具合悪いんじゃ……」 「全然! お腹空いちゃった。ねぇ、今日のご飯何にする?」

 心配そうに覗き込んでくるその眼差しが、今は一番苦しい。  彼は何も知らない。私が道端で泣き崩れていたことも、店長にすべてをぶちまけたことも。そして、彼が由美さんと手を繋いで歩く姿を、私がどんな思いで見送ったかも。


「……そっか。じゃあ、今日は簡単にパスタでも作ろうか」

「やった! 優流のパスタ大好き」

 急いで材料を買いに走る彼の背中を見つめながら、私はそっと息を吐いた。

 また、いつもの日常が始まる。  彼が私の「親友」でいてくれる、この脆くて危うい、偽物の幸せ。


(これでいいんだ。……これでいいの)

 心の中で何度も言い聞かせる。  私のついた嘘が、今日、また少しだけ深くなった。

 いつか、この嘘が私を壊してしまう前に。  白馬の王子様が、私の本当の願いを叶えてくれる日は来るのかな。  そんな子供じみた夢に縋らなければ、私はもう、彼の隣で笑い続けることなんてできなかった。



 運ばれてきたパスタの味は、少しも覚えていない。


「今日は布団持ってこないの?」


 あえて聞いてみる。彼は「今日もソファーを借りようかな」と答える。


 きっと、あの布団には由美さんの匂いが残っているのだろう。その密室の熱量を想像してしまい、私は砂を噛むような思いでパスタを喉に流し込んだ。



 翌朝、昨日と同じ時間。

 物音で目が覚めてロフトから顔を出すと、優流が着替えているところだった。



(……あぁ、また「掃除」に行くんだ)



 昨日、私との思い出を叩き落としたあのベランダで、今度は由美さんとの愛の残骸を「浄化」しにいく。ふと、シャツを羽織る瞬間の彼の背中が、街灯の光に照らされた。



 ――薄い赤紫の、生々しい痕。


 昨日、あの部屋で二人が何をしていたのかを物語る、動かぬ証拠。



「ぁ……ぁぁ……」

 堪えなきゃ。堪えなきゃ。  ここで取り乱して、気持ちがバレてしまったら、きっと一緒にはいられなくなる。  私は慌てて顔を引っ込め、呼吸を整えた。


 私は起きていないフリをして、また布団に潜り込んだ。



 優流は静かに帰ってくると、何事もなかったかのように私と一緒に歯を磨き、仕事の準備を始める。早朝の外出に気づかれていないと思っているのだろうか。それとも、汚れた布団を持ってこないことが、彼なりの「誠実さ」なのだろうか。



「行ってきます」と言って仕事へ向かう背中を見送りながら、私はまた行ってきますと言える嬉しさと、それ以上の悲しさに震えていた。



 夜。仕事終わりに帰ってきた優流の隣に、私は座る。


 触れ合う肩。そこから伝わってくる彼の体温は、昨日、別の女性を抱きしめていた時と同じ温度なのだろうか。


 優流は離れようとはしなかった。いつも通り業務日誌をつける彼の横顔は、ひどく穏やかで、真っ白で。



 私はあえて、その地獄の蓋を開けた。



「……ねぇ、優流。昨日は、どうだった?」



 できるだけ軽い、どこにでもある日常のトーンで。


 優流の手が、ぴたりと止まった。静寂が部屋を支配し、私の心臓の音だけがうるさく響く。



「……ごめん。亜耶にはあまり言いたくない」



 絞り出されたその声に、目眩がした。


「言いたくない」――。


 それは、「嘘をつきたくない」という彼の不器用な誠実さの皮を被った、最大級の残酷だった。


 あぁ、そうなのね。言葉にできないほど、説明を拒むほど、濃密で、神聖な時間を、あなたはあの人と過ごしてきたのね。


 沈黙という逃げ道を選んだ彼が、たまらなく卑怯で、たまらなく愛おしかった。



「そっか」



 自分の声が、遠くの方で冷たく響く。


 ここで「どうして?」と泣き叫べれば、どんなに楽だろう。でも、そんなことをすれば、この細い糸のような繋がりは一瞬で千切れてしまう。


 彼を困らせたくない。一緒にいたい。


 その一心で、私はまた、自分の心に太い杭を打ち込んだ。



「今日はお布団持ってくる? ソファー、痛いでしょ?」



 私が投げかけた言葉に、優流がわずかに肩の力を抜くのが分かった。


 あぁ、救われちゃったんだ。


 私が彼の「罪悪感」を肩代わりしてあげたから。


 自分が汚した布団を、私が「持ってきていい」と許してあげたから。



 立ち上がって自分の部屋へ戻る彼の背中を、私はただ、ロフトの下で見つめていた。


 あのシャツの下にある、紅い証。


 彼はそれを「なかったこと」にして戻ってくるだろう。




 やがて戻ってきた優流が、私の目の前で慣れた手つきで布団を敷く。


 昨日まで、別の女の匂いがついていたはずの、あの布団を。



 私は、今日「浄化」してきたばかりの布団にくるまる彼を、微笑んで受け入れるしかなかった。


 私の負けだ。


 こうして、一歩ずつ。彼が「自分は許されている」と勘違いしていくたびに、私は彼なしでは生きていけない体になっていく。



 ――これでいい。今はまだ、この嘘が私を壊してしまうまで。

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