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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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20/28

運命の悪戯〜遊園地の魔法と、早朝の証拠隠滅。太陽の光で焼き消した、君の残り香。由美を迎えるために『潔白』を捏造する、卑怯な僕の独白。

「女の子は友達同士でも手を繋ぐんだよ?」


遊園地の喧騒に紛れさせた、彼女の精一杯のわがまま。

繋いだ手の熱さを「遊園地のせいだ」と言い聞かせ、僕は自分の卑怯さを隠し続けた。


由美が来る前日の早朝。僕は彼女の部屋から荷物を運び出し、僕たちの時間を『なかったこと』にする作業を始める。

太陽の匂いの布団を叩くたび、心の中で何かが壊れる音がした――。

 朝食を終えた後、食卓に落ちた気まずい沈黙を破ったのは、亜耶だった。


「せっかく朝から起きてるし、どこか行きたいな。……遊園地、行かない?」

「えっ、遊園地?」


 唐突な提案に、僕は思わず声を上げた。ついさっき、来週の水曜日に由美と会う話を伝えたばかりだ。

 もし、貴明の言う通り彼女が僕を想ってくれているのだとしたら、そんな気分になれるはずがない。やっぱり、僕たちは「親友」なんだ。その事実に少しだけホッとする自分と、心のどこかで言葉にできない寂しさを感じている自分に気づく。


(……僕は、なんて最低なんだ)


 昨夜の、『もし、彼女がいなかったら、恋人にしてくれた……?』という言葉。あれはやっぱり、ただ自分に魅力があるかを確認したかっただけなのだろう。

 由美への罪悪感と、亜耶への期待。その矛盾に苛まれる僕を余所に、彼女は茶化すように笑った。


「女の子はね、女の子同士でも遊園地くらい行くんだよ? 親友なんだから、いいじゃん!」


 その瞳が一瞬、ひどく必死な色を帯びた気がしたけれど、僕はそれを見ないふりをした。結局、僕は彼女の勢いに押し切られる形で、ぎこちない心のまま遊園地へと向かった。


 平日の園内は、どこか現実味を欠いた空気が流れていた。

 ゲートを潜った直後、「喉渇いたでしょ!」と差し出してくる飲みかけのお茶。亜耶の親友の距離はいつもこうだ。いつしか僕も気にしなくなったが、やはりじーっと見られると気になる。けれど、僕が返したボトルを、彼女は何の躊躇もなく再び口にする。僕の中の常識は崩壊していた。

 自然な動作で亜耶の手が僕の手を包み込む。

「女の子は友達同士でも手を繋ぐんだよ」と悪戯っぽく笑って僕の手を包み込む彼女の指先は、僕のどんな理屈も、由美への義理も、軽々と飛び越えて心の内側に侵入してくる。


 もし。もしも彼女が、本当に僕に好意を寄せているのだとしたら。僕が繰り返す「親友」という言葉は、どれほど残酷に彼女を傷つけているのだろうか。


 流されるまま、手を繋いで歩き出す。けれど、ふとある違和感が胸をかすめた。

 僕は、亜耶から彼女自身の友達の話を聞いたことがない。それどころか、彼女が僕以外の誰かと遊びに行く姿さえ、想像がつかなかった。


(……来週、僕は彼女を一人にしてしまうんだな)


 そう思うと、申し訳なさが胸を突く。今日くらいは、彼女のしたいように付き合ってあげよう。それが、今の僕にできる唯一の「誠実さ」だと思い込もうとした。

 苦手なジェットコースターに何度も乗せられたり、ミラーハウスできゃっきゃ騒いだり、怖いのが苦手なくせにお化け屋敷で怖がって終始抱き着いたり。

 とにかく亜耶はめいっぱい楽しんでいた。


 夕暮れ時。

 ゆっくりと上昇する観覧車の中で、亜耶はそれまでのはしゃぎぶりが嘘のように静かになった。


「……今日は、誘ってくれてありがとう。優流」


 ――誘ったのは亜耶の方だったはずなのに。

 戸惑う僕の肩に、彼女がそっと頭を預け、繋いだ手に指を絡めてくる。

 突き放すことはできなかった。……いや、したくなかった。

「今日は彼女のしたいようにさせてあげよう」という言い訳は、僕を守るための盾に過ぎない。僕は、亜耶を見ないようにして窓の外を見つめる。

 彼女が今、どんな表情で僕の体温を感じているのか。それを確かめるのが怖かった。


 いや、本当はもう、気づいてしまったんだ。

 自分の気持ちに。そして、亜耶の気持ちに。

 気づきながら、「親友」という言葉で彼女を縛り、自分を赦そうとしている。これは由美への裏切りだと確信していても、亜耶との居心地のいい時間を手放すことができなかった。


(この子を、抱きしめたい)


 胸の奥から湧き上がる衝動を、必死で押さえつける。僕には由美への恩義を裏切る覚悟なんて、これっぽっちもない。

 だから僕は、自分の心に冷たい蓋をする。これは、遊園地の熱気にあてられただけなんだ、と。

 僕は、僕が思っているよりもずっと、卑怯で最低な男だった。


 彼女との思い出が増えていくほど、ポケットの中にある「合鍵」が、ずっしりと重くなっていく。それは僕を「親友」という嘘に繋ぎ止める鎖であり、同時に「裏切り」という地獄へ引きずり込む重りのようでもあった。


 それからの数日間。亜耶の笑顔からは「貴方が好き」という想いが、隠しようもなく滲み出ていた。

 先週よりもさらに近い距離感に、僕は罪悪感を覚えながらも、どうしようもなく嬉しさを感じてしまう。


 けれど、水曜日が来れば、僕は「彼氏」の顔に戻って、由美と会う。

 そのための準備を、僕は冷酷に進めた。


 火曜日の早朝。まだ空が白み始めた頃。

 僕は亜耶の部屋へ持ち込んでいた敷布団や荷物を、久しぶりに帰宅した自分の部屋へと運び入れ始めた。


 ガサゴソという音に、寝ぼけ眼の亜耶が起き出す。「……明日の、準備?」


 その細い声に、僕は一度も視線を合わせることができなかった。


「うん。由美が朝早くに来るから。親友だからやましいことは何もないって言えるけど、心配はさせたくないし。……たぶん由美は、今の状況を知ると怒るから」


 自分の口から出た言葉のあまりの卑怯さに、舌を噛み切りたくなった。

 潔白を証明するために、君との月日をなかったことにする作業。

 僕は早朝から、自分の部屋のベランダに布団や衣類を干した。


 太陽の光で、君の部屋の匂いを、君との密やかな時間を、すべて焼き消してしまわなければならなくて。

 亜耶はきっと、僕のこの行動を最低だと思うだろう。けれど、僕はどうしても、由美への恩義を裏切れないんだ。


「優流……。今日も、帰ってきてくれるよね?」


 布団が消え、急に広くなってしまった床を見つめる彼女。

 その姿は、僕がこれから彼女に与えようとしている『孤独』を先取りしているようだった。


「……分かった。じゃあ、今日はソファーを借りるよ」


 僕はそう答えるのが精一杯だった。


 夜、仕事が終わった僕は一度自分の部屋へ戻り、闇の中で布団を取り込んだ。

 太陽の光を吸い込んで、ふっくらと、けれど知らない匂いになった布団。

 ふと、その布地に顔を埋めてみた。

 陽光の匂いの奥に、昨日まで過ごしていた亜耶の部屋の、彼女の生活の匂いが微かに残っている気がした。


(こんなことをしている僕は……本当に、最低だ)


 激しい自己嫌悪が襲う。けれど僕は、その匂いを振り払うように、何度も何度も布団を叩いた。

 僕は亜耶の孤独に気づかないフリをして、出会った頃と同じように、彼女の家のソファーで眠りについた。

 明日、僕は由美の「彼氏」に戻る。その残酷な決意を胸に秘めて。

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