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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜彼女に放置され孤独に耐える僕の前に、荷車で引越しをしようとする女の子が現れた。偶然すぎる新居、預けられた合鍵。これは仕組まれた恋の罠なのか?〜

付き合っている彼女・由美がいるのに、なぜか女の子と二人きりで引越し作業をすることになってしまった優流。荷車を引くというシュールな状況の中、新居の場所はまさかの……? 縮まっていく距離と、預けられた銀色の鍵。予感もしていなかった「非日常」が加速します。

 僕には、付き合っている人がいる。由美がいるんだ。

 何を考えているんだ、僕は。由美を裏切ることなんて、絶対に、死んでもできない。

 僕は無心になろうと、奥歯を強く噛み締めた。

 掌に残る熱を消し去るように、重たい荷車のハンドルにぐっと力を込め、ただ前だけを見て引き続けた。


 ガラガラ、ガラガラ。

 無機質な音が静かな住宅街に響く。

 引きながら、ふと違和感に気づいた。この道、なんだか見覚えがある。……というより、僕の家の方に向かっていないか?


「あそこの一〇二号室です。ロフトもあるんですよ!」


 亜耶ちゃんが指差したのは、僕のアパートから歩いて一、二分ほどの距離にある建物。僕の部屋のベランダからも見える場所。

「ロフトか、秘密基地みたいでいいよね。一度登ってみたいな」

「優流さんは、特別に登ってもいいですよ♪」


 いたずらっぽく微笑む彼女に、「あはは、ありがと」と笑い返した。

 距離が近い。物理的にも、そして住んでいる場所も。偶然にしては、あまりに出来過ぎている気がした。


 一往復目の荷物を運び込み、荷車を空にする。

「荷車、十二時までに返さなきゃいけないので、先に全部持ってきちゃってもいいですか?」

「もちろん」


 再び元の家へと向かおうとすると、亜耶ちゃんがスッと隣に並び、荷車の取っ手にそっと手を添えてきた。

「もう道、分かりますよね? 私も一緒に押したいです」


 ――近い。

 彼女が動くたびに、ふわりと甘いシャンプーのような香りが鼻をくすぐる。

 肩が触れそうな距離に、僕の心臓はさっきの重労働よりも激しく脈打っていた。


「いや、空なんだし軽いよ。さっきの方が重かったし、大丈夫だって」


 照れ隠しにそう断ったけれど、彼女は僕の顔を覗き込むようにして手を離さない。

「だって、こっちの方が楽しいじゃないですか♪」


 真っ直ぐな笑顔でそう言われてしまったら、もう、返す言葉なんてなかった。

 端から見れば、仲の良いカップルの引越しにしか見えないだろう。それほどまでに、亜耶ちゃんはずっと幸せそうに笑っていた。


 十一時半。すべての荷物を運び終えた。

「私、荷車返してきますね!」

「僕も一緒に行くよ」

「一人で大丈夫ですよー。優流さんは、少し休んでいてください」


 結局、あの荷車がどこから来て、どこへ帰っていくのか。その謎は永遠に解明できそうになかった。


「そっか。じゃあ、少し早いけどお昼を買ってくるよ。この近くは牛丼屋しかないけどいい?」

「いいんですか♪ お願いします! たぶん優流さんの方が早く戻ると思うので……はい、これ」


 差し出されたのは、銀色に光る、まだ真新しい鍵だった。

「え?」

 手のひらに落ちた金属の重みに、思考が止まる。

「……だーかーらー、亜耶ちゃん不用心すぎ。今日まともに話すのが初めての人に、こんなもの渡しちゃ駄目だよ」


 思わずお説教モードになる僕に、彼女は「あーあーあー、聞こえなーい!」と両手で耳を塞ぐ。そのまま、軽やかな足取りで荷車を引いて駆け出していった。

 彼女の嵐のようなペースに、僕はため息をつくことしかできない。


「はぁ……。とりあえず、買いに行くか」

 一人残された僕は、ボソリと呟いて、鍵穴にその銀色の鍵を差し込んだ。

 カチリ、と心地よい音がして、扉が閉まる。


 他人の、それも年下の女の子の鍵を預かり、自ら掛ける。

 その「許されている」という感覚に伴う背徳感が、なんだかひどく、くすぐったい。


 牛丼を買い、再びその部屋へと戻る。

 自分の指先で、彼女の部屋の鍵を開ける。やっぱり、くすぐったい。

「おじゃましまーす……」


 段ボールの匂いがする、あるじのいない部屋。

 今日初めてまともに喋った女の子の帰りを、一人で待つ。

「……一体、どういう状況なんだ、これは」


 自問自答を繰り返しながら、牛丼の袋を見つめること数分。

 トントントン、と控えめなノックの音がした。

(インターホンじゃないのか?)

 首を傾げながらドアを開けると、そこには、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた亜耶ちゃんが立っていた。


「誰か分からないのに、開けたら駄目なんだよ?」

「……やられた。そのために、わざとノックにしたんだろ?」

「えへへ。バレた? ただいまー」


 彼女は軽やかに部屋へ滑り込んでくる。僕は反射的に、その言葉を返してしまった。


「……おかえり」


 言った瞬間、心臓が跳ね、耳の裏が焼けるように熱くなる。

 家族でも恋人でもない相手に、一番深い場所を預けてしまったような、取り返しのつかない響き。

 まだ何もない殺風景な部屋の温度が、二人の吐息だけで一気に上がった気がした。

 

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