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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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18/27

運命の悪戯〜カクテルの魔法と、暴かれた本音。泥酔した彼女の問いに、僕は致命的な裏切りを口にする。由美からのメールが、甘い夜を無慈悲な現実に引き戻す

「優流の作ったお酒、飲んでみたいな……?」


親友からの忠告。「絶対にお前のこと好きだぞ」という言葉が胸を刺す。

杏露酒の香りに溶け出した本音。「もし彼女がいなかったら?」という問いに、僕はついに一線を越える答えを返してしまう。


眠る彼女の隣で、恩人からの通知が闇の中に光った。僕の居場所は、一体どこにあるんだろう――。

 ある日、ふとした会話の中で亜耶が切り出した。

「ねぇ、明後日は休みだし、明日の夜はちょっと夜更かししたいな」


「いいよ。何かしたいことでもあるの?」

 今度は何がしたいんだろう?そう思いながら許可をする。もはや一緒にという言葉がなくとも一緒に夜更かしするのは当然となっていた。

「下原さんから聞いたんだ! 優流とカクテル作って一緒に飲んでたって。私も、優流の作ったお酒、飲んでみたいな……?」


 少しだけ首を傾け、上目遣いで僕を覗き込む。甘えるような、それでいてこちらの出方を伺うような声。

 そんなあざとく言う彼女も可愛い。

 計算だとしても、可愛いものは可愛いのだ。それにしても、貴明のやつ、何でも話しているな……。


「いいよ。じゃあ明日、何かリキュールでも買ってこようか」

 そういえば、亜耶とお酒を飲むのは初めてだ。僕は元々お酒には強く、酔ってもあまり顔に出ない。親友の貴明が潰れるまでカクテルを作り続けられるくらいには、肝臓にも自信があった。


 明日、この部屋で、彼女はどんな顔をして僕の作るお酒を飲むのだろう。

 そう考えると、板前として客に料理を出す時とは違う、落ち着かない熱が胸の奥に灯った。


 翌日、仕事の帰り道。僕はスーパーに立ち寄り、カシスリキュールと杏露酒シンルチュウ、そして、新鮮なオレンジを買い込んだ。

 亜耶はどんなお酒が好きだろうか。あまり強いものは避けて、まずは飲みやすいカシスオレンジから作ってあげよう。そんなことを考えながら、彼女のバイト先のコンビニへと向かった。


 店に入ると、レジには貴明と、シフトに入っている亜耶の姿があった。僕の姿を認めるなり、亜耶がパッと顔を輝かせる。

「迎えに来てくれたの?!」

 仕事中にも関わらず、大きく手を振る亜耶。僕は苦笑いしながら、小声でたしなめた。

「……仕事中だよ。そこは『いらっしゃいませ』でしょ」

 店内にいた数人のお客さんと、隣でレジを打つ貴明のニヤニヤとした視線が痛い。亜耶はやっちゃった!とはにかみ、手早く仕事に戻った。


 バイトが終わるや否や、貴明が制服を脱ぎ捨てて近寄ってきた。

「『迎え』ってどういうことだよ、優流?」

「……今日、亜耶と飲む約束をしてるんだよ」

「ほう、二人でか? ……なるほどなぁ。だから今日の松坂さん、あんなに機嫌が良かったのか」


 貴明はわざとらしく肩をすくめ、僕の肩をポンと叩いた。

「随分と仲良くなったな、お前ら。いいけどさ、変なことするなよ? 松坂さんはうちの大事な後輩なんだからな」

「わかってるよ。親友として飲むだけだ」

「……親友、ねぇ。お前が入ってきたときの、あの子のぱぁっとした笑顔、見たか?」

「いつもあんな感じだけど」

「お前なぁ……それは……」


 貴明が呆れたように何かを言いかけたとき、着替えを終えた亜耶が出てくるのが見えた。貴明は言葉を飲み込み、帰り支度のために奥へ戻ろうとしたが、僕の耳元へ顔を寄せた。


「……なぁ優流。お前がどういうつもりか知らないけど、松坂さんは、絶対にお前のこと好きだぞ。俺にはあんな笑顔しないからな? それだけは頭に入れとけよ」


 突き放すような、けれど確信に満ちた囁き。

 僕は何も言い返せず、ただ立ち尽くした。

 そんなはずはない。彼女は「親友だ」と言ってくれた。僕の重い過去も、由美という存在がいることも、全部知った上で隣にいてくれているんだ。

 けれど、鼓動が少しだけ速くなったのは、両手に提げた重い買いもの袋のせいだけではない気がした。


「お待たせ、優流!」

 駆け寄ってくる亜耶の、いつものキラキラした笑顔。

 その笑顔の裏側に、貴明の言う「想い」が隠されているのだとしたら――。

 僕は彼女の視線を少しだけ避けるようにして、「帰ろっか」と短く答えた。


 家に着き、荷物を置くのももどかしく、亜耶がキッチンに並んだ瓶を興味津々に眺めている。

「ねぇ、まずは何から作ってくれるの?」

「まずはカシスオレンジかな。一番飲みやすいと思うから」

「楽しみ! 私、優流が作ってくれるの、すごく楽しみにしてたんだよ!」


 そう言って僕を見上げる彼女の瞳は、貴明に指摘されるまでもなく、熱を帯びてキラキラと輝いていた。

 今までなら、それを純粋な友情だと思えていた。でも今の僕は、彼女の笑顔の裏側にあるものを、無意識に探ろうとしてしまっている。


「……グラス、取ってくるね」

 彼女に背を向けた隙に、僕は小さく息を吐いた。

 手際よくオレンジをカットし、氷を入れ、カシスとジュースを注ぐ。仕上げにスライスしたオレンジを添えて、クラッカーにクリームチーズを乗せたおつまみと共に彼女の前に差し出した。

「わぁ……お店みたい! いただきます!」


 一口飲んで、「美味しい!」と顔をほころばせる亜耶。

 けれど、亜耶はお酒に弱いらしく、すぐに顔が赤くなっていく。

「ねぇ、優流の理想のタイプってどんな人?」

 イタズラのつもりなのだろうか。また答えにくい質問を。

「んー⋯居場所になってくれる人、かな」

「⋯なんか哲学的だねー。でも優流らしいかも」

「ねぇ、それって私のことでもあるよね?」心臓が早鐘を打つ。亜耶はどこか期待したような目をしている気がした。

「うん、そうなるかも」

 間違いなく、亜耶は、既に僕の居場所になっている⋯それは紛れもない事実だ。

「えへへ」亜耶が満足そうに笑っているのを見ると、たまらなく恥ずかしくなってきて、同じ質問を亜耶に返した。

「かっこよくて〜、優しくて〜、料理できて〜、イタズラしても笑ってくれて〜、真面目で真っ直ぐで〜、賢くて〜、優しくて〜」指折り数えながら言う亜耶に思わず笑ってしまう。

「なんか女の子が求める理想の彼氏像TOP10の詰め合わせみたい。同じことまでいってるし」

 笑う僕を見つめながら「そうなんですよ~!私、理想高いんです!」と何故か豪語する。

 一杯でけっこう酔ってるなと思うものの、

 おかわりをせがまれ、次は杏露酒のソーダ割りを作ってあげた。あんずの甘い香りが、部屋の空気をさらに柔らかく溶かしていく。

 二杯目を飲み進める頃には、彼女はもう、すっかりできあがっていた。


「……こんなに優しくて、お料理も上手な彼氏がいたら、本当に、幸せだろうなぁ……」


 しみじみと、独り言のように漏らした言葉。

「ねぇ……優流はどうして私に手を出さないの……?」

「ブハッ」

 僕は思わず少し吹き出した。

「私に、魅力がないからぁ……?」

「僕が紳士だから! 亜耶はとても魅力的な女性だと思うよ」


 嘘じゃない。


「またそれだぁ。けど、優流は自分で言うだけあって、とっても紳士だもんね……。じゃあ……もし、優流に彼女がいなかったらぁ、私を恋人にしてくれた……?」


 その問いに、時が止まったような錯覚を覚えた。僕は返す言葉が見つからず、しばらく黙って自分のグラスを傾けた。

 理性が「答えるな」と警鐘を鳴らす。けれど、グラスの氷が溶ける音さえ聞こえる沈黙の中で、僕は本音を吐き出していた。


「うん、きっと僕からお願いする」


 口にした瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。こんなことを言うのは、由美への裏切りだ。分かっている。けれど、目の前の震える女の子に、君はそれほどまでに魅力的で、価値があるんだと伝えたかった。その想いが、僕のなかの罪悪感さえも一瞬で塗りつぶした。

 それは、僕がずっと心の奥底に封印し、自分にさえ隠し通してきた「真実」だった。本音を口にせずにはいられなかったんだ。


「私……今、とっても幸せです……」


 そう言い残すと、彼女は抗えない眠りに落ちるように、カクンと首を傾けて寝入ってしまった。

「……亜耶?」

 返事はない。少し上気した頬と、規則正しい、小さな寝息。

 僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく彼女を見つめていた。さっき吐き出した「僕からお願いする」という言葉が、呪文のように部屋の空気に残り続けている。


 ロフトまで抱きかかえて上がるのは流石に危ない。僕は仕方なく、自分の寝床に彼女を横たえ、ロフトから彼女の布団を持ってきた。

 スヌーピーのピピを隣に置いてやり、グラスの後片付けをしながら、貴明の言葉を思い出す。


(松坂さんは、絶対にお前のこと好きだぞ、か)


 もしそれが本当なら、僕はどうすればいいんだろう。

 そんな自問自答を遮るように、テーブルの上の携帯が震えた。


『来週の水曜日、有給取れそう。久しぶりに会いたいな』


 由美からのメールだった。

 一瞬で、冷たい現実が引き戻される。「幸せだ」と言って隣で眠る亜耶と、遠くで僕を信じている由美。

 そのあまりに鮮明なコントラストに、胃の奥がせり上がるような感覚を覚えた。僕は返信できないまま、逃げるように携帯を置いた。


 自分の寝床を占領してしまった彼女。ロフトまで抱えるには足元がおぼつかないし、かといって彼女の隣に潜り込む勇気もない。

「……ソファーで寝るか」


 そう自分に言い聞かせて立ち上がろうとしたけれど、気づけば僕は、床に座り込んだまま眠っている亜耶の寝顔をじっと見つめていた。


 わずかに開いた唇。お酒のせいで赤くなった頬。

 ピピを抱きしめて安心しきっているその姿は、僕に「ここにいていいんだよ」と無言で語りかけているようで。


 少しだけ眺めるつもりだったんだ。


 聞こえるのは、彼女の柔らかな寝息。

 この「親友」という居場所が、いつまで通用するのか。由美への義理と、亜耶への愛おしさの狭間で、僕にはもう、何も分からなくなっていた。

(ああ、やっぱり僕は……この子が好きなんだな)

 部屋に満ちるあんずの甘い香りが、一瞬にして毒のように重苦しく変質する。

 由美という光を背負いながら、暗闇の中で別の光に手を伸ばしてしまった罪。

 

 眠りに落ちた彼女の寝顔は、あまりにも無防備で、あまりにも尊い。

 僕はその熱に浮かされたまま、戻れない橋を渡ってしまったことを、ただ静まり返った空気の中で自覚していた。


 気づけば、僕もそのまま深い眠りに落ちてしまっていた。

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