運命の悪戯〜合鍵、一つのマイク、重なる吐息。残酷なほど甘い「親友」という免罪符。凍りついた僕の心を溶かしたのは、彼女が仕掛けた「嘘」という名の魔法だった
「親友なんだし、勝手に入ってていいよ。……ね?」
預けられた合鍵は、僕たちの境界線を無慈悲に壊していった。
一つのマイクで歌う「小さな恋のうた」。至近距離で見つめ合う瞳。
彼女が仕掛ける悪戯に振り回されるほど、僕の中の何かが少しずつ壊れ、溶けていく。
これが「裏切り」だと知りながら、僕は彼女のぬくもりを手放せなくなっていた――。
翌朝、仕事に出る準備をしていた僕に「今日、バイト入っちゃったんだー」と亜耶が伝えてくる「うん、わかった」という僕の手に小さな金属を握らせてきた。
僕の掌に乗せられたのは、銀色に光る、彼女の部屋の合鍵だった。
「これ、優流に預けておきます」
「えっ、でも……流石にそれは。付き合ってもいないのに……」
「今日は私より優流のほうが帰りが早いでしょ? 優流の私物もけっこうこっちにあるし、業務日誌だってあそこに置いたままだよ?私がいなくても、勝手に入ってていいよ。……親友なんだし、ね?」
首を少し傾け、いたずらっぽく微笑む彼女。その「親友なんだし」という言葉は、僕のどんな反論も封じ込める魔法の呪文だった。
指先に感じる鍵の冷たい質感は、由美への罪悪感と同じくらい、僕の掌にずっしりと食い込んだ。
けれど、僕はそれをカバンのポケットへと仕舞い込んだ。親友。その言葉を盾にして、僕たちはまた一歩、決して引き返してはいけない場所へと足を踏み出していた。
仕事が終わり、自分の家ではなく亜耶の家へと向かった。
昨日までと決定的に違うのは、そこが「主のいない部屋」だということだ。
(……本当に、勝手に入ってていいのかな)
マンションの廊下で微かなためらいを感じながら、ポケットから出した鍵を差し込む。ガチャリ、と無機質な音がして、扉が開いた。
一歩踏み込むと、彼女の生活の匂い――あの甘い洗剤の香りが、優しく僕を包み込んだ。
僕は静かに中に入り、電気をつけた。
真っ暗だった部屋に光が灯った瞬間、真っ先に目に飛び込んできたのは、ソファの中央にちょこんと座るスヌーピー――『ピピ』の姿だった。
見ると、ピピの短い手には、一枚の小さなメモが握られている。
『おかえり!』
丸っこい、亜耶らしい可愛らしい文字。
僕は思わず、その場に立ち尽くしたまま、ふっと口元を緩めてしまった。
あの子は狙っているわけじゃなく、きっと「優流が驚くかな」なんて考えながら、素でこういう温かいことをする。なんて、なんて愛らしい子なんだろう。
それからしばらくして、ドアが開く音がした。
「ただいまー!」
元気よく帰ってきた亜耶に、僕はこれまで彼女に言ったことのない、けれど今のこの場所に一番ふさわしい言葉を返した。
「おかえり、亜耶」
その瞬間、彼女の顔がぱぁっと花が咲いたように明るくなった。
「わあ、優流に『おかえり』って言われちゃった! ……ピピ、可愛かった?」
「うん。でも、こういうことをする亜耶のほうが、もっと可愛いと思うよ」
思わず本音が漏れてしまうと、彼女は「……っ!」と言葉を詰まらせ、真っ赤になってそっぽを向いてしまった。耳の先まで赤くして照れる彼女を見ている時間は、今までの時間を忘れさせてくれる、何よりの癒やしだった。
二人とも休みである水曜日を控えた火曜日の夜。
亜耶が「したいことがあるの!」と唐突に切り出した。
「深夜に、朝までカラオケ! 行きたい!」
「……それ、めっちゃ仲良しの友達っぽいね。いいね、行こう」
夜の街へ繰り出し、ネオンの光が眩しいカラオケボックスへ。
亜耶が最初に選んだのは、YUIの『CHE.R.RY』だった。
「私、この歌大好きなの」
そう言って、彼女はリモコンを置いた。イントロが流れると同時に、彼女はモニターを一度も見ようとせず、真っ直ぐに僕の目を見つめたまま歌い始めた。
――恋しちゃったんだ、たぶん。気づいてないでしょう?
至近距離で僕の鼓動を揺らす歌声。
(ああ、切ない恋の歌が好きなんだな。女の子らしいな)
そんな呑気な感想を抱きながら、僕は彼女の視線を受け止めていた。
「次は優流の番。はい、これ」
有無を言わさぬ手つきで、亜耶がデンモクから送信ボタンを押した。
勝手に曲入れられるという振り回されっぷりに思わず笑みがこぼれる。
スピーカーから流れてきたイントロを聴いた瞬間、僕は「あ……」と声を漏らした。
それは、亜耶が飽きもせず何度も何度もリピートして流していた『小さな恋のうた』だった。
「優流、私が家でいつも流してたから完璧に覚えてるよね?」
亜耶はいたずらっぽく、確信に満ちた笑みを浮かべる。
あまり自分から音楽を聴く習慣のない僕の日常に、彼女は自分の好きなメロディを、隙間を埋めるようにして浸透させていたのだ。
何度も耳にするうちに、いつの間にか歌詞もメロディも、僕の脳内の深い場所に刻み込まれている。
「なにそれ……確信犯じゃん」
僕が呆れたように呟くと、亜耶は「えへへ」と可愛らしく舌を出して、マイクを僕に突きつけた。
歌いだそうとした時、亜耶がスッと立ち上がり、あろうことか、カラオケのモニターの真正面に陣取り、画面を背にして仁王立ちになったのだ。
「……ちょっ、亜耶? 画面が見えないんだけど」
「いいの! 優流なら、歌詞なんてなくても歌えるでしょ?」
亜耶は悪戯が成功した子供のような、挑戦的な笑みを浮かべて僕を見つめている。
まったく、次から次へと。
僕は呆れ半分、可笑しさ半分で、彼女の突拍子もない行動をそのまま受け入れることにした。
こういうの、親友っぽくて楽しいな。
僕は振りまわされるのに心地よさを覚えていた。
「分かったよ。……じゃあ、歌うからどいてなんて言わないよ?」
僕はマイクを握り直し、モニターの代わりに、目の前に立つ彼女を真っ直ぐに見て歌い始めた。
歌詞を追う必要なんて、確かに最初からなかった。彼女が、それこそ耳にタコができるほど流され続けてきた曲なのだから。
僕がサビを歌い上げる間も、亜耶は一歩も動かなかった。
ただ、僕の視線を一秒たりとも逸らさせないように、じっと、射抜くような瞳で僕を見つめ返している。
(本当に、イタズラ好きな子だな……)
僕はそんな風に呑気に考えながら、彼女のペースに身を任せる。
歌声が室内に響く中、彼女の瞳がわずかに潤んで、熱を帯びていくのにも気づかずに。
「彼女が仕掛けた遊び」に付き合って、振りまわされることが楽しくて。
曲が終わると、亜耶はパッと表情を明るくして、何事もなかったかのように拍手をした。
「すごーい! 完璧!しかも上手!私、ちょっと感動しちゃった!」
あまりに褒めすぎる亜耶に、イタズラをやり返すつもりで「ふふっ惚れ直した?」と亜耶の真似をしてイタズラっぽく言ってみる。
ところが、亜耶は笑って誤魔化すどころか、僕の目をじっと見つめ、躊躇いもなく、はっきりと言い放った。
「……した!」
イタズラにカウンターをされてしまった。
僕は「あはは。さすが亜耶、イタズラをやり返そうと思ったのに、さらにやり返されちゃったよ」
「……もう、優流のバカ」
「ごめんごめん、ガラにもなくイタズラしてみちゃうからバカみたいにやり返されちゃったね」
僕もこんな風に笑うんだな。腹の底からこみ上げるような、何も考えなくていい笑い。
「次は……一緒に歌お? 私もこれ歌いたい!」
亜耶は僕の隣にちょこんと腰を下ろしながらデンモクを操作する。
「いいけど……」
と言いながらもう一本のマイクを渡そうとすると、亜耶は「ううん」と首を振って、僕が持っているマイクの柄に自分の手を重ねてきた。
「メインは優流だからいいの。私はサビだけ、一緒に歌いたいだけだから」
そう言って、彼女は僕の肩が触れ合うほど近くに寄ってくる。
一つのマイクの柄に、彼女の手が重なる。
指先に伝わる彼女の微かな震えと、重なり合う肌の熱。
彼女の吐息が頬を撫で、甘い香りが肺の奥まで入り込んでくる。
本来、親友と呼ぶ間柄で許される距離を、僕たちは踏み越えているのかもしれない。
「……歌いにくくない、これ」
「私は全然! 」
そう言って笑う彼女の横顔を、至近距離で見つめる。
彼女が思う親友は、僕が思う親友よりもずっと、ずっと距離が近かった。
けれど、それが狂おしいほどに心地よくて。
前奏が終わり、僕たちは一つのマイクに声を重ねる。
隣で歌う彼女と目が合う。
僕をいつも振り回す、イタズラ好きな彼女に僕は居場所を感じていた。
亜耶は僕の中の凍りついた心を、少しずつ、けれど確実に溶かしていってくれた。
翌日は昼過ぎまで泥のように眠り、目が覚めたら、僕が亜耶のために台所に立つ。
プロとしてではない。ただ一人の男として、彼女のためだけに腕を振るう。
料亭の休憩時間も、読書や調理師会の会誌をめくっていると、決まって携帯が震える。
【休憩中かな? お疲れ様! お昼なに食べた?】
返信を打つと、僕が携帯を置く暇もないほど、瞬時に返信が返ってくる。
「……本当に、マメな子だな」
僕は、その異常なまでのレスポンスの速さを、ただ心地よい好意として受け取っていた。
仕事が終われば、当たり前のように亜耶の部屋へ向かう。そして、彼女が洗ってくれたパジャマを着て、日課の業務日誌をつける。「優流、構って!」といつものイタズラで服の中に冷たい手が忍び込んでくるのをされるがまま、頬が綻ぶ。業務日誌を書き終えると、二人で芋けんぴを食べながら、他愛もない話で笑い合う日々。
「親友」という免罪符を得てからの月日は、驚くほど穏やかで、そして残酷なほどに甘い時間だった。
「亜耶」「優流」と呼び合うたびに、心臓の奥がチリりと鳴るけれど、僕はそれを「友情」という箱に無理やり押し込めて、蓋をした。
彼女もまた、僕の前で笑顔を絶やさなかった。
そんな、甘やかで眩しい、まるで本当の家族のような日々が続いていった。
その笑顔の裏に、どれほどの「嘘」が隠されているか。
そして僕のこの心地よさが、どれほどの「裏切り」の上に成り立っているか。
気づかないまま、僕たちは幸せな時間を歩き続けていた。




