運命の悪戯〜恩義という名の底なし沼。母に包丁を握らされ、逃げ出したあの日の真実
「ねぇ、優流さん。どうしてそんなに苦しそうな顔をしてるの?」
……あの日、僕は母から包丁を握らされ、自分の命を終わらせる覚悟をした。
そんな地獄から僕を救い出し、この街に『居場所』をくれたのは、由美だったんだ。
亜耶ちゃんを好きになってはいけない。
これは、僕が自分に課した、あまりに重すぎる呪縛の告白。
ゲームセンターで遊び終えた僕たちは、併設された施設内にある飲食店で遅めの昼食をとることにした。
実は、ここに来てからずっと、心臓の奥がチリチリと焼けるような感覚があった。立ち寄ったことはなかったけれど、何度も遠目から見ていた景色。ここは、僕が初めてこの街に来たとき、由美と来た場所だったのだ。
居場所を失い、行く当てもなく、どうしようもなかった僕を救ってくれたのは由美だった。今の僕の生活があるのは、間違いなく彼女がいてくれたからだ。
それなのに、僕は今、別の女性を連れて……何を――。
ふと、ここが由美の家からも近いことに気づき、心臓が跳ねた。僕はハッとして、落ち着かない様子で店内や窓の外に視線を走らせる。由美の姿がないことを確認して、喉の奥で安堵の息を漏らした。
(……どうして僕は、今、安堵なんてしたんだ)
由美に見つからなくて良かったと思ってしまった自分への嫌悪感が、どろりと溢れ出す。
「どうしたんですか? ……顔色、少し悪いですよ?」
正面から、亜耶ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「……話すべきか、少しだけ考えさせてほしい」
僕は意を決して、彼女を見据えた。
「ちょっと、重い話になるかもしれないんだけど、聞いてくれる? ……亜耶ちゃんの家で、話してもいいかな」
亜耶ちゃんの家に戻り、僕たちは重苦しい沈黙の中にいた。
「どこから話そうか……全部だと長くなる気がするけど、僕の思う『全部』を話してもいいかな」
僕は、自分の幼少期から話し始めた。
何をやっても人より器用にこなせてしまったこと。それが親の自慢になり、逆に周囲からは妬まれ、幼いながらに友達と距離を置いていたこと。
小学二年生の時、重病にかかった。数ミクロンのずれも許されない難手術。どこの大学病院も匙を投げたが、当時助教授だった父だけは諦めなかった。教授の反対を押し切り、父は「延命か、成功率は低いが完治を目指す手術か」を僕自身に決めさせてくれた。「お金のかからない方」と言ったら、烈火の如く怒られたことも覚えている。手術を成功させた父を、僕は心から尊敬した。
けれど小学校四年生の時、母の不倫で両親が離婚した。僕は父に引き取られるはずだったが、父から「弟や妹の面倒を見てあげてほしい」と頭を下げられ、母方についていく道を選んだ。
待っていたのは地獄だった。母の不倫相手だった働かないヒモのような男。母は僕にその男を「お父さん」と呼ぶよう強要した。呼ぶたびに、心が削れるように痛んだ。
家事や幼い妹の面倒に明け暮れる僕を、母は相変わらず自分の手柄のように自慢し続けた。そんな僕の境遇を唯一憂いて、一緒に涙を流してくれたのが、親友の平林英俊だった。
この頃には、亜耶ちゃんはもうボロボロと涙をこぼし、黙って僕の話を聞いてくれていた。
中学二年生の時、実の父から最後通告があった。
『再婚する。相手との約束で、もうお前たちとは連絡を取らない』
父の再婚相手は総合病院の院長の娘だという。父はそこで院長になる道を選び、僕を捨てたのだ。
高校に入ってもバイトに明け暮れ、給料の半分を家に入れ続けた。離婚した母は「養育費はもらっていない」と嘘をつき、養育費をホストクラブで使っていた。
亜耶ちゃんの激しい嗚咽を聞きながら、僕は言葉を繋いだ。
そんな中、唯一の息抜きだったオンラインゲームで出会ったのが由美だった。彼女は男性不信を抱える社会人だったが、僕の心の拠り所になっていった。
そして高校三年、日常は崩壊した。
きっかけは全国模試の結果だった。英俊たちに結果を聞かれ、角が立たないよう「凡ミスして悪かったよ」と答えた。なのに、全校集会で僕の名前が呼ばれ、表彰されてしまった。
それを境にいじめは苛烈を極めた。上履きは何度もなくなり、ノートや教科書には消えろという文字。机は教室にはなく廊下に出された。
『糸を引いているのは、英俊だよ。あいつ、自分の志望校が危ないからって、柳君のこと、めちゃくちゃ妬んで声をかけてたよ』
女子生徒の耳打ちで真実を知った。志望校への合格が危うかった彼にとって、僕はただの妬ましい存在だったのだ。
僕も彼がとても努力していたのは知っていた。僕が彼を追い込んだとしても、あんなに仲が良かった親友からの裏切りは辛かった。彼が僕を嘲笑いながら靴を隠している姿を想像するだけで、視界が真っ暗になった。
学校に行けなくなり、母からは「恥さらし」と罵られた。
『学校に行かないなら、生きてる価値なんてない。死んでくれる?』
僕を自慢の道具としてしか見ていない母は冷たい目で僕に包丁を握らせた。僕は震える手で刃先を自分の喉元に突きつけたが、母は止めるどころか、早くやれと言わんばかりにじっと僕を見ていた。
僕は自分の命を終わらせる覚悟をした。でも、最後の最後で僕は怖くなって包丁を置き、逃げだしたんだ。
ふと顔を上げると、亜耶ちゃんはまるで、目の前で僕が本当に殺されてしまったかのように、激しく泣き崩れていた。
「……ああ、ごめん。でも、大丈夫だったんだよ。こうして生きて、なんとかなったから」
あまりの泣き方に、僕は慌てて言葉を添えた。彼女の涙が少しだけ落ち着くのを待って、僕はまた、ポツリポツリと言葉を紡ぎ出す。
絶望の底で由美に連絡すると、彼女はその時のすべてを放り出して、新幹線で僕の元へ駆けつけてくれた。
『大好きなゆーくんが、こんな目に遭ってるなんて耐えられない』
彼女は僕を抱きしめて一緒に泣いてくれた。二日間そばにいてくれた由美は「私と一緒に来る?」と言ってくれたが、母から連絡があり『学校から特別措置の連絡が入った。頑張って卒業するなら帰ってきなさい』と連絡があった。
今すぐ逃げたかった僕に、由美は言った。
『卒業証書は将来きっと必要だから。どうしてもダメだったら、また迎えに来るから』
「卒業式の翌日、一人で証書を受け取った僕は、親と縁を切ってこの街に来た。初年度の学費まで、彼女が出してくれたんだ。由美が僕の居場所を作ってくれたんだ」
亜耶ちゃんは、ピンク色の小さなテーブルに突っ伏したまま、嗚咽混じりに泣き続けていた。
「……だから今日、あの場所に行ったとき、ハッとしたんだ。あそこは由美と何度も来た場所だったから」
僕は絞り出すように言った。
「亜耶ちゃんとあんな風に、楽しくプリクラを撮るのは……由美への裏切りだと思った。今の僕があるのは由美のおかげなのに、僕は由美を裏切れないんだ」
そう。結婚を断わられ、日に日に光を失っていってる居場所だとしても、由美が僕と一緒にいるのを望む限り、僕は由美を絶対に裏切れないんだ。




