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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯〜『一人は寂しい』。その電話は、僕を一生閉じ込める檻の合図だった。由美の知らない密室の二日間。パスコードを解き、僕を彼女の色で染め上げる略奪計画。天才料理人が罠に堕ちる。

「やっぱり、一人は寂しいです。……来てください」


その震える声も。

頬を濡らす涙も。

梯子から降りてくる、あどけない寝巻き姿も。


全部、僕を「檻」に閉じ込めるための計算だったとしたら?


彼女持ちの天才料理人を、一歩ずつ、確実に。

スマホのパスコードを解くように、僕の理性を解き明かしていく。


聖女の皮を被った略奪者の、甘くて残酷な誘惑が始まる。。

 二十一時。


 帰宅して上着を脱ぐと、いつもの日課のために机に向かう。そこには、一年間で書き潰した数冊の業務ノートが積み上がっていた。

 その日の仕込み、味見をさせてもらい感じたこと、そこから導き出すレシピ。

 このノートこそが、今の僕のすべてだった。


 かつて、学校で一番だと言われた僕の「桂剥き」。けれど、会長のそれと比べれば、雲泥の差がある。機械よりも薄く剥けるのは、「当たり前」の最低ラインでしかなかった。


 会長と二人きりの厨房。

 一切の無駄がない動き。目にも止まらぬスピードで、食材に命が吹き込まれていく。

 だからこそ、会長はたった一人でこの会席料理を回してこられたのだ。


(……届かない。あの領域まで、あとどれくらい剥けばいいんだろう)


 休憩時間、僕は一人厨房の隅で大根と向き合い続けた。

 包丁を添える左手の親指は、既に痛みを感じないほど厚くなっている。

 そんな僕の姿を、会長は何も言わずに見ていた。


 やがて、僕が休憩時間に剥いたものを、会長は夜の会席に使うようになった。

 それと同時に、献立が変わった。小さめの魚を多用し、繊細な包丁捌きを要求される、僕のための「修行用」としか思えないメニュー。

 言葉ではない。メニューを通じて、会長は僕を鍛えてくれた。


 ある日、午後に予約がない日のことだった。

 会長は昨晩のメニューと同じ材料を用意し、「賄い用にあら炊きを作ってみろ」と言った。

 味のコピーには自信がある。ノートにまとめた記憶を頼りに、夢中で作り上げた。


「……やはりお前は、天性のものを持っているな」


 その一言が、何よりも嬉しかった。

 そこへ、日本中の名店を旅しているという客が、たまたま暖簾をくぐった。

 一人分、何でもいいから食事はできないかという客に、会長は「賄いでよければ」と僕の作ったあら炊きを出した。


「こんなに美味いあら炊きは初めてだ!」


 客の感嘆の声が響く。会長が僕を呼び、これを作ったのはこの柳だと紹介した時、客は心底驚いた顔で僕を見つめていた。

「会長の教えのおかげです」

 精一杯の答え。それからだ。

 会長が不在の夜、助っ人を呼ばなくなったのは。

 けれど、あんなことがなくとも会長はそうするつもりだったのだろう。


「お前一人で回せるよな?」

 信頼という名の重いたすきを、僕は受け取った。


 けれど、固定のメニューがないこの店は、毎日が学びの宝庫だ。一年経っても、ノートへの記録を欠かしたことはない。


 ――ペンを置き、ふと、机の端に置いた携帯に目をやる。

 そこには、昨夜の亜耶ちゃんの涙が、まだこびりついているような気がした。


 ストイックに包丁を研ぐ自分と、深夜、甘い声に誘われて夜の街へ駆け出してしまう自分。

 由美によって潔癖なまでに整えられた、どこか冷たい空気の漂う部屋で、僕は自分でも気づかないうちに、スマホが光るのを待っていた。

 二三:〇〇。


 期待と、それ以上の罪悪感。

 その両方を孕んだまま、予感していた通りに、スマホが激しく震えだした。


 迷いがなかったと言えば嘘になる。けれど、昨夜の彼女の泣き声が耳にこびりついて離れなかった。  インターホンを押し、低めの声で名乗る。


「……柳です」


「はーい!」


 すぐに返ってきたのは、予想外に弾んだ声だった。  ガチャリと扉が開くと、そこには昨日とは打って変わって元気そうな亜耶ちゃんが立っていた。艶やかな黒髪のロングボブが、彼女の動きに合わせて揺れる。


「元気そうだけど……何かあった?」


「優流さんが今から来てくれるって思ったら、嬉しくなっちゃって……。一気に元気になっちゃいました!」


 瞳をキラキラと輝かせ、屈託のない笑顔で彼女は言った。

 その真っ直ぐな言葉に、毒気を抜かれる。元気なら帰るよ、と言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。今ここで僕が帰れば、またあの深い孤独が彼女を襲うかもしれない。

 昨夜の震える肩を思い出すと、どうしても突き放すことはできなかった。


「そっか。元気になったなら、よかったよ」


 夜も遅い。僕たちはそれ以上多くを語らず、それぞれの場所で眠りについた。

 ソファーに横になり目を閉じても、ロフトの上から僕を見下ろす彼女の視線が、熱を持って伝わってくる。その視線を心地よく感じてしまう自分に戸惑いながら、僕は眠りに落ちた。


 翌朝。


 昨日の失敗を繰り返さないよう、少し早めに設定したスマホのアラームが鳴った。  その音で、ロフトの上でも気配が動く。


「……おはようございます」


 寝ぼけ眼の亜耶ちゃんが、梯子を降りてくる。

  少し長めの前髪を払いながら見上げた僕は、思わず息を呑んだ。

 彼女が着ていたのは、ピンクのワンピースタイプの寝巻きだった。梯子を降りる動作に合わせて、意図的なまでに裾が大きく揺れる。引越しの日に彼女のタンスへ仕舞った色と残酷に一致するそれ。あの柔らかな布の感触が、今度は視覚情報として僕の網膜に焼き付いた。

(……やばい)

 咄嗟に目を逸らしたが、一度焼き付いた「色彩」は、瞼の裏で何度もリピートされる。

――柳優流、お前は彼女に『紳士だから大丈夫』と大口を叩いたばかりじゃないか!

煩悩を振り払うように頭をブンブンと横に振る。


「……? どうしたんですか、優流さん」

不思議そうに小首を傾げる彼女に、それを『わざとだ』と断じるのは、あまりに幼く、無垢に見えた。

 

僕がドキマギしていると亜耶ちゃんの携帯からも、アラームが鳴り響いた。僕を起こすために、わざわざ合わせてくれたのだろうか。



 亜耶ちゃんは僕の分まで朝食のパンを用意してくれていた。

「僕の分まで、用意してくれてたの?」 「あっ……これは、ただ二日分買いだめしてただけです!」

 慌てて言い繕う彼女。その様子は、いつものレジで見せる彼女とは違って、ひどく幼く、愛らしく見えた。


「行ってらっしゃい、優流さん」


 玄関で見送る彼女に、僕は咄嗟に返した。


「……うん、行ってきます」


 自分の口から出たその言葉が、妙に新鮮で、少しだけ胸の奥が熱くなった。

誰かに背中を見送られ、日常へと送り出される。

由美との間にはもう存在しない、あるいは最初からなかったのかもしれない「家庭」という幻想の片鱗を、僕はその一言に見てしまったのだ。


 一度自分の部屋に戻り、仕事の準備を整える。

 鏡の前で髭を剃りながら、僕は小さくため息をついた。

「いつでも呼んでいいとは言ったけど……結局、昨日すぐに呼ばれちゃったな」

 自分に呆れつつも、口角が少しだけ上がっていることに、僕は気づかないふりをして仕事へと向かった。

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