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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由─プロポーズしたのに!—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯─仕組まれた引越しと、掌に残る罪の熱─

恩義ある恋人・由美との関係は冷え切り、休日はただ「孤独に耐える作業」でしかなかった。


そんな僕の日常を壊したのは、親友からの強引な電話と、一台の「荷車」だった。


引っ越しの手伝いで再会したのは、かつてのバイト先の後輩・松坂亜耶。

小動物のような愛くるしさと、真っ直ぐな熱量を持つ彼女に振り回されるうち、僕の凍りついていた心は少しずつ溶かされていく。


けれど、触れ合った手の熱を感じるたび、僕を襲うのは激しい罪悪感だった。


「僕は、彼女を裏切れない。……それなのに」


誠実でありたいと願う青年が、過去と未来の間で揺れ動く、切実な恋の物語。

 始まりは、親友の下原貴明からの、いつもの強引な電話だった。

 調理師として働く日々、慌ただしい毎日。「明日は休みだ、泥のように眠ろう」まぁ、どうせすることもない。恋人の由美とは「付き合っている」という事実だけが、形骸化した契約のように残っているだけの、冷え切った関係。

 けれど、彼女に対する恩義がある以上僕からっは決して別れを口にすることも、寂しいと困らせることもできなかった。


 僕にとって休日とは、楽しみを待つ時間ではなく、「孤独に耐える」という作業をこなすだけだった。

 そんな諦めに似たため息をついていた夜、携帯が激しく震えた。


「明日、優流は休みだよな? 友達が引越しするんだ。手伝ってくれ!」


  「……誰だよその友達。知らない人なら行かないぞ」


  「知ってる奴だから大丈夫! とりあえず朝九時にここに来い!」


 一方的に場所を告げられ、電話は切れた。全く、勝手な奴だ。

 貴明とは学生時代のバイト先のコンビニで知り合った。同い年で、同じ地方出身。この街で同郷の奴に出会えた驚きと喜びで、僕たちはすぐに意気投合した。加えて彼は僕の過去など詮索しなかった。

 今は建築大学に通う彼と、調理の世界に入った僕。道は違えど、学生時代、たまの週末、彼の家で酒盛りをする時間は、僕にとって数少ない楽しみの一つだった。


 翌朝。九時前に指定された住所に着いたが、主犯の貴明が現れない。メールの返事もなく、電話も繋がらない。


「これ、どうすんだよ……」


 仕方なくインターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。

「あ……」


 目の前にいたのは、見覚えのある女の子だった。元バイト先に最近入った子で、貴明が「可愛い子が入った」と自慢していた貴明の後輩だ。

「ちゃんと誰が来たか確認してから、ドアを開けなさい」

 驚きのあまり、最初に出たのはそんな小言だった。不用心すぎる。

「優流さん! ごめんなさい、今度から気をつけます! 今日はありがとうございます!」

 彼女は僕の名前を知っていた。貴明の奴、僕には何も言わなかったくせに。


 初めて彼女を見たのは、仕事帰りに少し遠回りをして、元バイト先へ大好物の「芋けんぴ」を買いに行った時だった。オーナーとレジに立ってトレーニング中だった彼女の光を反射するような透明感のある佇まいに、素直に「可愛い子だな」と目を奪われたのを覚えている。

 その時、オーナーが僕に紹介した。

『柳君、いつものかい? こちら新人の松坂亜耶ちゃん』

 小柄で、どこか小動物のような愛くるしさがある子だった。年下の妹を見ているような感覚で、僕は自然と口にしていた。

  『やっとバイト見つかったんですね。よかったです。亜耶ちゃん、頑張ってね』

 深入りするつもりもなく、当たり障りのない挨拶をして、僕は芋けんぴを四個掴んでレジへ向かった。すると、彼女がクスリと笑ったのだ。

『芋けんぴばっかり四個も!』

『……美味しいのがいけないんだ』

 照れ隠しをしながら、つい目をそらして前髪を触ってしまう。すると、彼女は弾けるような笑顔を返した。

『そうですね! 美味しいですもんね!』

 心臓が少しだけ跳ねた。それから、芋けんぴを買うための「遠回り」で彼女の笑顔を見るのが少しだけ楽しみになっていた。

 そんなことを思い出しながら、貴明に電話をかける。ようやく繋がったと思えば、「急に大学の用事ができた」とふざけたことをぬかしやがった。


「貴明、来れなくなったらしい」


 目の前でどうしよう……と不安そうな顔をする彼女を見て、ここで帰るわけにはいかないだろう。仕方がない。普段は女性とは距離を置くようにしている。由美に誠実であらなければないと自分を律していたのだけど……

「大丈夫。僕がちゃんと手伝うから、安心して」


 困り顔の亜耶ちゃんにそう告げると、彼女の表情はパッと明るくなった。

「優流さん、ありがとうございます! じゃあ、友達から借りたこの荷車で運びますね!」


 ……荷車?  ツッコミたい気持ちを抑え、僕は大きな荷車に段ボールを積み込み始めるが、このシュールな状況に答えは出ない。

 この大きな荷車、普段は一体どこに置いてあるんだ。家に入るわけもないし、そもそも亜耶ちゃんはこれをどこから入手したんだ……?  

 そんな、どうでもいい謎が頭の中をぐるぐると回る。


「あ、荷車でも大丈夫ですよ! 引越し先、すぐ近くなので!」

 僕の視線を察したのか、亜耶ちゃんがいきなり声をかけてきた。

  「そっか。よかった、それならなんとかなりそうだね」

 僕は愛想笑いを返しながら、心の中では叫んでいた。そこも不思議だけど、一番不思議なのは、この時代の引越しに荷車を使うことだ。そもそも人生で荷車を触るのなんて今日が初めてなのだから。

 ……なんて、口には出せなかったけれど。

 手際よく作業を進めたものの、荷物の半分を載せたところで荷車は一杯になった。


「亜耶ちゃん、申し訳ないんだけど名字忘れちゃったからもう一度教えてくれないかな? あと、一旦これを運ぼうか。そろそろ荷車がいっぱいだし」


「全部は載りそうにないですし、そうしましょう!」


 快活な返事に、少しだけ肩の力が抜ける。

「前を歩いてくれる? 僕は荷車を引くから」


  「え、でも……」


「いいんだ。こういうことは、男に任せておきなさい」


 その瞬間だった。

「ありがとうございます!」

 彼女はいきなり僕の両手を握り、ぶんぶんと上下に激しく揺さぶった。

 感情表現が豊かというか、子供のように真っ直ぐな熱量を持った子だな。そういえば、名字を尋ねたのに、聞きそびれてしまった。

 僕が二つ同時に質問したからなのか……また後で聞こう。

 亜耶ちゃんは嬉しそうに僕の先を行く。

 道中、何度も、何度もこちらを振り返って。そのたびに彼女の瞳がキラキラと揺れる。


 ガラガラ、ガラガラ。


 アスファルトの上を滑る荷車の音が、不必要に大きく、静かな住宅街に響く。

(さっき、手を握られたな……)

 柔らかくて、火傷しそうなほど熱を持っていた、あの感触。

 その体温が僕の毒を溶かしていくような錯覚を覚えた瞬間、僕は激しい罪悪感に襲われ、我に返った。

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