「本当にあったかもしれない」部分
そこは、「幸せ村」と呼ばれていた。
といっても、正式な地名ではない。さらに言うなら、今現在は「村」でさえない。
以前はれっきとした村だったのだが、平成の市町村合併で、F県O郡K町の一部となった、とある「集落」。元々は、山間の狭い平地をかろうじて耕地とし、十数件の民家が肩を寄せ合うようにして生活していた土地だ。
ろくに作物も穫れず、温泉ができるわけでもなく、林業が衰退してこの方、ろくな産業すらなくなり、いつ限界集落となってもおかしくないところであったのだが……この集落、ある時期から、逆に都会からの移住者が増え、人口が急速に増え始めるのである。
それと同時に、移住者たちから「新しい発想」がもたらされ、その土地ならではの漬物を現在風にアレンジしたり、古来の作物の再植えつけに成功を受けた六次産業も新たに起こされたりしたことによって、住民の働き口も確保。「出稼ぎに行かなくても生活が成り立つ山間の集落」として、ますます人気を集め、廃校寸前だった小学校や中学校も生徒数を増やし、校舎まで新しくしたのである。
普通、そのような古くからの住民と移住者とが混じり合って暮らす地域では、必ずといっていいほど、軋轢が生じる。伝統的生活を守りたい住民と新しいスタイルの生活様式を導入しようとする新住民の間で深刻な対立が起き、村を二分する争いにで発展したりする例も、枚挙にいとまがない。が、この「幸せ村」では、そのような争い事は皆無。皆が譲り合い、意見を出しあい、一致協力して、自然を守り、居心地よく、住みやすい村を作ることに情熱を傾けているのだという。
もしそれが本当ならば、「幸せ村」は世にも珍しいケースであり、ぜひともその秘訣を探って広く日本中に伝えるべきだ……というプロデューサーの意向に従い、特集番組を製作する運びとなり……その先行取材として、今回はディレクターの黒沢さん、カメラマンの青沼さんと、リサーチャーの私、白砂の三人が現地に乗り込み、ロケハンやらインタビューやらを行うことになった。
これは、その先行取材記録から抜粋した、「幸せ村」の真実の姿である。
「……あ?ああ……着いたのか?」
東京の局を出発してからずっと、スピーカーから流れる音楽を圧するほどの音量で車内に響き続けていた大いびきがようやく止まり、黒沢さんはうっすら目を覚ました。
機材をさまざま放り込んだプラ箱の上に足をのせ、後部座席全体を占領する形で大の字になっていた体をようやく起こすと、早速たばこに火をつけ、細く開けた窓の隙間めがけて、ふうっと紫煙を吐き出す。
今回の先行取材でなにより気が重かったのは、黒沢さんと同じ車で出かけなきゃならなかったことだ。
なにしろこの人、起きてる間は5分と口からたばこを離していられない、重度のヘビースモーカーで、演出した番組より、同席した場所をたちまちいがらっぽい煙で充満させることで名が通っている。少々喉が弱い私としては、天敵のような存在なのである。
あの人との取材なら、どうか私だけ電車で現地集合という形にしてくれ、とプロデューサーに直訴したのだが、軒並み番組制作費が削られているこのご時世、そんなわがままが通るはずもなく、結局私も同じ車で、しかも現地までのドライバーまで担当する羽目となった。
それならいっそ、煙によるぜんそく発作を起こして労災でも申請してやろうか、と半ばヤケクソで考えたりもした。が、幸いなことに黒沢さん、前日前々日と連続で徹夜だったとかで、車に乗り込むなり、だらしない格好で高いびき。そのまま目的地に着くまで六時間以上、ずっと眠っていてくれたのである(その分、騒音被害は労災ものだったけれど)。
窓の隙間からこぼれ、車内に渦を巻く煙からあわてて逃げ出すように私は扉を開け、外に出ると、固まっていた腰がゆっくり伸びていく感触を楽しみながら、うーんと大きく伸びをした。
そこへ。
「あの、東京の、テレビ局の方でしょうか?」
と、柔らかい声が響いた。
見ると、皺一つないグレーのスーツに身を包み、渋いネクタイを締めた初老の男性が、優しげな笑みを浮かべ、立っている。
薄汚れたネルシャツに小物を詰め込んだ釣り用ベスト、同じく薄汚れたジーンズという格好の自分が、不意にひどく場違いに思え、私は首をすくめるようにしながら、
「あ、はい、そうすけど……」
ぼそぼそとつぶやいた。
けれど、相手は私のそんな失礼な態度にも全く動じず、ひたすらにこやかなまま。
「そうですか。私、今回の取材に同行し、案内役を務めさせていただきます、茶谷と申します。取材のご案内など実にひさしぶりですので、至らないことも多いかと思いますが、どうかよろしくお願いいたします」
と、私のような若造に深々と頭を下げるのである。
いよいよどうしてよいか分からず、「え、あの、いえ、こちらこそ……」などと明らかにキョドった態度で手をあちらこちらに動かし話しているところへ、ものすごい勢いで車の後部ドアが開き、黒沢さんが飛びだしてきた。
「これは、茶谷さん!どうもどうも久しぶりです!その節は本当にお世話になりまして!いや、何年ぶりでしょうか、ご無沙汰いたしまして、本当にどうもうどうも……」
旧知の、それも相当世話になった方であるらしく、いつもは誰に対してもふんぞり返って接する黒沢さんが、靴でも磨き始めそうなほどのへつらいようである。
その様子にあきれつつ、ちらりと青沼氏に視線を送ると、彼も苦笑しながら、やれやれと言わんばかり、頭を左右に振っている。
釣られて私もくすりと笑いながら、
「それじゃあ、そろそろご案内お願いできますでしょうか?」
矢継ぎ早に話しかけては一人ワハワハと笑っているディレクターと茶谷さんの間に割って入るように、声をかけたのだった。
「……ということで、当時の農事試験場と先代の上川酒造のご主人との尽力で、明治時代に一度滅びてしまった幻の酒米、「龍神」の復活に成功しまして。そこから研究開発に尽力し、三年後に、有機無農薬栽培によって育てた「龍神」と、この土地の誇る名水「涸れずの清水」を用いた酒の醸造に成功いたしました。それが、この土地の名産品第一号、銘酒「龍の井戸」なのです。この龍の井戸、ご存じかもしれませんが、今現在、ちまたで「飲むと幸せになれる酒」として、ちまたで絶大な人気を博しておりまして。本日はぜひこの銘酒を皆さんにもお飲みいただこうと、宿にご用意させていただいております。ぜひ楽しみに……」
そこで、茶谷さんはやや困ったような笑顔となり、じっと一点を見つめたまま、言葉を途切れさせた。
その視線の先をたどると――いつの間に、どこから取り出したのか――たばこをくわえた黒沢さんが、ほうほうと話を聞いているような顔をしつつ、ライターでも探しているのか、あちこちのポケットを探している。
ああ、もう禁断症状が出てる……。
私はひそかにため息をついた。
黒沢さん、それなりに仕事はできるのだが、ニコチン切れを起こしたら最後、頭の中が「葉っぱ」でいっぱいになってしまうらしく、たとえそこが教会の歴史ある大聖堂であろうが、病院の集中治療室の中だろうが、無意識のうちにたばこを吸ってしまうという、とてつもなく困った癖がある。
この癖のせいでいくつもの取材先やプロダクションを怒らせ、番組を一つ二つ潰しなどしていなければ、今頃もっと出世してたんだろうに、などと思いながら、ひじでそっと彼の脇腹をつつく。
「ディレクター。ここ、明らかに禁煙です」
ビクッと体を震わせると、黒沢さん、今初めてたばこをくわえていることに気がついた、といわんばかりのあわてようで唇からポケットへとたばこを戻し、
「いかんいかん、いやあすいません、つい癖で」
と、決まり悪そうな顔でへらへらと笑う。
「すいません、最初に申し上げましたように、こちらは食品製造施設ですし、万が一にも異物混入は困るので、おたばこはご遠慮いただいているんです」
実に申し訳なさそうな様子で深々と頭を下げる茶谷さんに、黒沢さんは大慌てで両手を突き出し、ものすごい勢いで左右に振る。
「いえいえいえいえ!こちらこそすいません、最初に注意されていたのに、ついぼんやりしまして。いやあ、それにしても、この村はすごいですなあ、田舎といえばいまだにたばこ文化がしっかり根づいているところが多い印象なんですが、こちらではほとんどどこの施設も禁煙。それどころか、屋外でさえ、吸えるところはごくごく限られている。都内でもここまで厳しくないぞって感じなんで、つい……」
どこからどう聞いても苦しい言い訳なのだが、茶谷さんは「分かりますよ」といわんばかりに鷹揚にうなずいてくれる。
「ご不便を強いる形になってしまい、申し訳ありません。別段たばこを目の敵にしているわけではないのですが、なにしろ住民にたばこを吸う者がいないものですから、自然どの施設も禁煙ということになってしまうんですよ。あ、屋外の耕作地での禁煙は違いますよ。ここと同じで、異物混入されると作物に影響が出るからそうさせていただいてます。ですが、一応禁煙となっていますが、食品関係以外の場所なら特に影響ありませんから、吸っていただいて構いませんよ。住民も、誰も文句は言わないはずです」
「いえいえ、せっかく無理にお願いして取材させていただいているのに、そこまでご迷惑をおかけするわけには……」
「そうですか。どうかご無理なさらずに。あ、宿のお部屋は喫煙可能ですから、もしなんでしたら、取材後、そちらで存分に……」
「あ、はい、ご配慮いただいてありがとうございます!」
ほっとしたような声を出す黒沢さんに向かい、茶谷さんは笑顔でうなずくと、再び視線を「案内者の位置」へと戻す。
「それでは皆さん、ここの見学はこの辺にいたしまして、次は集落で共同運営している野菜の直売場へご案内いたします。そこは、地場産の野菜や肉を使った食堂も併設しておりますので、そちらで皆さんに昼食を召し上がっていただこうと思っております。地飼いで育てた健康な鳥の肉と卵、地場産の無農薬玉ねぎを使った親子丼が名物でして、このところ何度もSNSでご紹介いただいたためか、遠方からお召し上がりにいらっしゃる方も多く……」
などと口調も案内者のそれに戻し、ゆっくりと先導して歩き始めたのだった。
「……ああ、参った。やっぱりあの親子丼がまずかったのかな。まさかこんなに腹の調子が悪くなるなんて……」
ソファーにふんぞり返るような格好で座ったまま、浮かない顔で腹をさすりつつ、青沼カメラマンが、そうつぶやく。
「いやでも、青沼さんはまだマシですよ。黒沢さんときたら、さっきからずっと、こもりっぱなしじゃないですか。一体どれだけ出してるんだか」
と、私は恨めしげな目でトイレをにらみつけた。
昼食をいただいた後間もなく、突然黒沢さん、
「あ、あああっ!い、いかん、なんだこりゃ!急に、きた、きた!」
そう叫ぶが早いか、たばことスマホと灰皿をひっつかんでトイレに駆け込んだきり、かれこれ1時間以上、扉の向こうから芳しい臭いを漂わせ、うんうんうなり続けているのである。
おかげで、午後の取材は取りやめ。直売場のそばに用意してもらった宿舎――集落唯一の民宿らしい――で、しばらく待機、ということになった。
スケジュールカツカツだというのに、そんなことで取材延期とはどういうつもりだ、と東京のプロデューサーはカリカリしているかもしれないが、私や青沼さんにとっては、この上なくありがたい話だった。
というのも、黒沢さんに続き、間もなく私たちも同じように腹具合が思わしくなくなり――というのは婉曲表現で、実際は直立するのが不可能なほど腹が痛み、ちょっと気を抜いたら最後、「人間の尊厳を失ってしまう状態」になってしまいそうなほど、ひどい下痢が続いている――ロビーのソファーに座り込んで、ゆっくり腹をなでているのが精一杯、という状況に陥ってしまったのである。
「やれやれ、こんなことになるとはな。茶谷さん、この集落に来ると、どういうわけか皆さん、はじめは下痢しやすいって言ってたけど、中国やインドじゃあるまいし、まさか国内でそんなことそうそうないだろって高くくってたのが、まさかの大当たりだ。夕飯は地場産の酒と料理ですごいもてなしてくれるって聞いて楽しみにしてたのに、こんなんじゃろくに食えないじゃないか……」
ひどい腹ぐらいであるにもかかわらず、青沼さん、今晩の食事がフイになるのが残念で残念でたまらないといわんばかりの、心底恨めしそうな声を出した。
まあ、それも仕方がない。
なにしろ青沼さんは食い道楽――というより、人生の目標の八割方を「食」に向けた人で、取材中も、隙を見てはポケットから取り出したスナックバーをもぐもぐしてることで、ギョーカイじゅうに名を知られている。
おかげでその見た目ときたら、トドか、はたまたボストロールか、という、見事に腹の突き出した百貫デ――おっと、コンプライアンス、コンプライアンス――超ふくよか体型である(ソファーにふんぞり返るような座り方をしているのも、そのせいだ)。
ある意味見上げた食欲の塊ではあるが、それでもさすがに、飲み食いしたものが原形を保ったまま出口からコンニチハする、というほどひどい下痢にさいなまれている今現在、夕食のことでグチグチと不満を述べるとは思いもよらず、私はただただあきれるばかり。「ここの土地はさ、名物多いんだよな。しかも、物産展なんかでもめったにお目にかかれない、幻の品が多くて。今回の取材じゃ、それらを思う存分、腹がはち切れるまで食ってやろうと思ってたのに……」
とはいえ、ずっと彼の繰り言を聞いているのも、さすがに煩わしく、私は疲れた笑顔を浮かべると、ゆっくり口を開いた。
「茶谷さん、はじめは確かに下痢しやすいけど、数時間も休んでもらうと大体皆さん回復するから、夕飯はご心配なく、ともおっしゃってたじゃないですか。だから、きっともうしばらくすれば落ち着きますよ」
「そうかな。そうだといいんだが……。それにしても茶谷さん、変わったな。はじめは誰だかさっぱり分からなかった」
その言葉に、私は、おや、とアンテナを立てる。
誰に対してもマイペースで、わざとじゃないかっていうほど無作法無神経な黒沢さんが、あんなにぺこぺこと腰の低い態度をとる一体茶谷さんとは何者なんだろうと、ずっといぶかしんでいたのである。
その事を打ち上げると、青沼さんは、ああ、という顔で、無精ヒゲの浮き出した三重アゴをごしごしとなでた。
「そうか、お前は知らなかったか。あの人も、元々は俺たちと同じテレビマンだよ。毎晩のように銀座六本木を飲み歩くような、いかにも「昭和の名物テレビ屋」という感じの豪快な人でな。気に入ったヤツがいれば、他局だろうが下請けだろうが関係なく連れ歩いて、ついでにお姉ちゃんまではべらせて、がんがん飲みながら脱ぐわ暴れるわ歌うわ踊るわ吐くわ、もうやりたい放題。それでも誰も文句つけられないぐらい、すごい人だったんだ。黒沢さんも、新人の頃茶谷さんに見込まれて、夜のお供はもちろん、仕事面でも一から仕込んでもらったらしくてね。あの人がいまだにめちゃくちゃな「昭和の生き残り」みたいなところがあるのは、そのせいだ」
「そうだったんですね。それで、いまだに頭が上がらないんですかね」
「だろうな。まあ、とにかく宴会は楽しみにしてろよ。今はまるで雰囲気違ってるけど、酒が入ると大体本性が出るからな。茶谷さんのあの壮絶な暴れっぷりがまた観られるかと思うと、楽しみだ」
「はあ……」
あんなに落ち着いた、物腰柔らかな紳士がそこまでの後乱行を披露するとは到底信じられなかったが……黒沢さんと同じく「昭和の生き残り」臭が濃厚に漂う青沼さんの言葉なのだ、ひょっとするとひょっとするかも……などと思っているところで、目の前の青沼さんが、うっそりと腰を上げた。
「さて。なんだかまた波がやってきそうだ。オレもトイレにこもって、気張ってくるよ」
「あ、適当なところで交代してくださいね」
「おお、分かった。取材も休みになったんだし、それまで体休めとけよ」
のっしのっしと――それでもいつもに比べ、幾分お尻に優しい足どりで――立ち去っていく青沼さんを見送ったところで、私もゆっくり目をつぶったのだった。
茶谷さんの予言は見事に当たり、夕食まであと一時間となった頃には、先ほどまでの不調は一体なんだったのか、と思えるほど、私たちはすっかり回復していた。
腸の中に詰まっていたモノ全てを出し切った上での復調なのだから、腹の空き具合ときたら並一通りではなく、冗談抜きで食材ばかりか鍋や皿、テーブルまでも全て平らげられるんじゃないか、という勢いで、食堂へと乗り込む。
普通こういう田舎に取材にやってきた際の宴会となると、やれ村長の挨拶だ、世話役の乾杯の音頭だと、つまらないセレモニーが延々続く。餓死寸前のこの状態じゃ、そんなの絶対待っていられない、もしも挨拶が始まったら、構わず目の前のものを端から順に手づかみで口に放り込んでやる……と、目だけをギラギラさせ、ひそかに思い定めていたのだが、幸いなことに、食堂で私たちを待ち受けていたのは、茶谷さんただ一人だった。
「お待ちしておりました。さあ、まずは一杯」
いや、それよりなにより食い物、食い物をください、といいたいところだが、さすがにそれではせっかくの心づくしに水を差す。なので、悲鳴のような咆哮を上げ続ける食欲を無理矢理抑えつけ、既に用意されていたおちょこを手に持つと、促されるままぐいっとその中身を喉の奥へと流し込む。
うまい。体の細胞一つ一つに、しみじみしみわたる酒だ。
思わず笑顔になる。が、それも一瞬のこと。すぐに私はこの上なく真剣な表情となると、ぐつぐつ煮立った鍋に箸を突き立て、大量の具材を取り皿にてんこ盛りにし、そのまま一気にかき込もうとした。
のだけれど……。
その時、なんとも不可解なことが起こった。
なんというか、脳が引きつれるような感じがしたかと思うと、不意にそこまで食欲が強くなくなったのだ。
なにを言っているか分からないと思うが、自分でもなにを言っているかよく分からない。もう少し詳しく説明しよう。
髪の毛をわしづかみにされて、ぐっと後ろに引っ張られた経験をしたことがないだろうか?
前へ進もうとしていたのが、急に阻止され、鋭い頭頂の痛みとともにがくんと首が後ろに折れて、倒れそうになる……あの感覚。
あれを、実際に頭を掴まれることなく、脳内だけでされたような、そんな感じに襲われたかと思うと、きりきりとした食欲が、不意におだやかな空腹感となり……同時に、「取り皿の中身を口の中一杯にかき込みたい」という衝動も、「ごく少量を口の中に入れ、ゆっくり咀嚼し、味わってから飲み込みたい」という思いに変化していたのである。
え?なんだ?なにがどうなった?
今までに感じたことのない経験に、私はかなり戸惑った。
が……欲望の炎が急にとろ火になってしまった以上、今さら大口を開け、はごはごと食い物をかっ込むなんてみっともない真似、できるはずもない。
結局私は、取り皿を手に取り、その一番上に乗っていた白菜の小片だけを箸でつまんでそっと口に入れ……じっくりとかみしめていたのである。
うまい。だしと、肉から出たうま味がよくしみて……ああ、うまいなあ。
存分に堪能した後、くたくたになった小片をゆっくり喉へと送り込む。ほんのりあたたかいものがするすると食道を滑り落ち、胃の腑に落ち着くまでの感触をもじっくり楽しんで……気がつくと私は、自然と笑顔になっていた。
ふと顔を上げると、黒沢さんも、あの「ミスタードカ食い」青沼さんまでもが、ごっそりと盛り付けた取り皿を手に、どこか戸惑ったような、けれども幸福そうな笑顔を浮かべ、少しずつ、少しずつ鍋の具材を楽しんでいた。
なにかおかしい、こんなことありえない、あってはならないのに、なんでこんなことに、という思いが頭の中を駆け巡りながらも、普段からは考えられないゆっくりしたペースで食事を堪能し、酒を味わい続けたのである。
その晩は四人で鍋一杯分の野菜や肉、そしてシメの雑炊をいただいただけでお開きとなった。
普段飲みに行くとき、それも青沼さんが一緒であるときは、鍋の具材を三回はおかわりし、その後にうどんかラーメンをぶち込んですすり、最後を雑炊でしめた後、さらにデザートまで追加する。なのに、たったそれだけ食べただけで、四人ともすっかり満足してしまったのだ(もちろん、青沼さんが一番面食らった顔をしていた)。
それだけではない。ある程度酒が進み、鍋の中身が減ってきたら、普段なら必ず黒沢さんがたばこを取り出し、小休止、とばかりに火をつけるのに――それもあるから、「異臭災害」によって風味が台無しにされるより前に、スタートダッシュで食べ物をがばがばとかき込む癖がついていたのだ――この晩に限っては、それが一切なかった。
今ポケットに手を突っ込むか、今指先に持ったたばこをくわえるかと、ドキドキしながら観察していたのだが、そういった素振りすら見せず、黒沢さん、ただただ目の前の料理に集中し、滋味あふれる具材を味わうことに純粋な楽しみを見出していたのである。
ちなみに、酒も、四人で四合瓶一本空けただけだった。普段ならばビールを半ダースに日本酒を一升瓶で数本空け、さらに興が乗れば、焼酎かウイスキーをボトルで頼み、ぐでんぐでんになるまで酔い潰れることも珍しくないのに、である。
青沼さんの予想はもちろん見事に外れ、茶谷さんはほんの少し頬を赤くしただけで、終止おだやかな態度のままだった。
食堂を辞し、自室へと引き上げる間、青沼さんも黒沢さんも、おかしい、あの人がこんな飲み方するはずない、絶対おかしいと何度も何度も首をひねっていた。だが、おかしいというなら、今日はこの地についてからずっと、おかしいことだらけだ。
ここは、なにかおかしい。
なにがどうおかしいのかよく分からないけれど、でも、とにかくおかしい。
そんな思いがずっと頭を駆け巡っていたわりには、よほど疲れていたのか、それとも、それも「おかしさ」の一環だったのか……私はベッドに入るなり、普段よりもよほど早く、すうっと眠りの世界に誘われていたのだった。
翌朝は、早くに目が覚めた。
いつもなら眠りの世界からゆっくりゆっくり浮上し、眠気が濃厚に残る中、眉をしかめながらしばらくばたばた、あっぷあっぷと身をよじり、寝返りをうち……それからようやくうっすら目を開ける(時刻はたいがい、午前10時をまわっている)。
だが、この日の目覚めは妙に爽やかで、カーテンのすき間から細く朝日が差し込むなり、それまで眠っていたというのが信じられないぐらいしゃっきりと覚醒した。しかも、体がうずうずし、横になっているのがもったいないように思えてくる。今すぐにでもなにかを始めたくて仕方がない、といわんばかり、体が臨戦体勢に入っているのである。
枕元の時計を確認すると、ようやく午前六時を回ったところだ。
おいおい、いつもより4時間も早いって。そりゃ昨日は早めに寝たけど、それにしても、この時間に目が覚めるって、絶対おかしいよ……。
意味もなくため息をつき、半身を起こして部屋を見回す。
と……隣のベッドで寝ているはずの青沼さんの姿が見当たらない。
あるのは、足もとにくしゃくしゃとはねのけられた寝具ばかりだ。
あれっと思って壁に目をやると、昨日は確かにそこのハンガーにかけられていた上着もなくなっている。
ということは……外に出たんだろうか?
自分以上に朝が弱く、午前10時を回っても、じっとり寝汗をかきながらがあがあ大いびきで寝ている青沼さんが、自分よりも早くに起き出し、どこかに出かけている!?
おかしい。あまりにもおかしすぎる。まさかとは思うが、夢遊病でも発病して、外をさまよい歩いているんじゃなかろうか……。
ちょっとだけ心配になり、私は急いで着替えると――といっても、昨日身につけていた服をまた着ただけだが――部屋の鍵だけ忘れずにポケットに入れ、外へ出た。
さて、どちらに行こうか?
宿の前を左右に走る道の端にたたずみ、しばし考える。
朝のキンと冷えた空気が肺に心地よい。
昨日は坂を上ってきたから……さらに上へいってみようか。
部屋を出たときの不安はいつの間にか消え、私は、ややウキウキとした気分で、ぶらぶらと目の前の緩い坂をゆっくり上り始めた。
農業主体の集落のせいか、やはり朝は早いようで、上っていく途中、数台の軽トラックに追い抜かされる。乗っている方々は皆一様に楽しげな笑顔を浮かべ、こちらを向いて会釈してくれたり、時には「おはようございます、いい朝ですね」などと声をかけてくれたり。けれど、それ以上の「どこへ行くの?」「どこから来たの?」といった「田舎あるある」な干渉は決してしてこない。あくまで「気持ちのいい距離感」を保ち、接してくれる。
こんなところに住めれば、気持ちいいのにな……。
昨日は考えもしなかったそんな考えが,ふと、頭に芽ばえる。
坂道を上りきると、一気に眺望が開けた。
背後には今まで上ってきた雑木林がこんもりとした緑を作り、行く手はゆるやかに下る土地に従って、整然と区画された耕地が広がっている。心地よい風がさわさわと作物の葉を揺らし、その間に立つ人々がなにやら一心に作業をしている様子は、ミレーの絵でも見ているかのようだ。
本当に、こんなところに住むことができればいいのに……!
先ほどよりも強く、切望するようにそんなことを考えていることに気がついて、私ははっとした。
あり得ない。幼い頃から都会に暮らし、都会以外のところに住むなんて、それまで考えたこともなかった――田舎の町紹介の番組に携わってはいるものの、その実、心中ではいつも、「こんなへんぴな土地にしがみついているヤツも、わざわざ都会からこんなところに移り住むヤツも、正直どうかしてるとしか思えない」なんてずっと考えていたのだ。
そんな自分が……ここへ住みたいだと!?
不意に、部屋を出るときの不安が蘇り、私は、くるりときびすを返すと、来た道を早足で戻り始めたのだった。
宿舎の前まで戻ったところで、反対側から歩いてくる黒沢さんと青沼さんに気がついた。
どうやら二人は、自分とは逆に、坂を下る方の散歩を選んだらしい。
ほっとしながら、小走りで二人に近づく。
「そっちへ行ってたんですか!びっくりしましたよ、起きたら部屋にいないから!」
「ああ、なんだか目が覚めちまってな、ロビーに行ったら黒沢さんがいたんで、二人でちょっと散歩してきたんだよ」
「私もです!坂の上の方歩いて行ったんですけど、なんだか不自然なくらい、きれいなところですよね」
「ああ……不自然な、っていうより、怖いぐらいだよな」
ぼそりと青沼さんがつぶやく。その横顔を気がかりそうに見つめていた黒沢さんが、不意に、私にぐっと顔を近づけた。
「なあ……ここ、なんだかおかしくないか?」
「あ、やっぱりそう思いますか?」
「てことは、お前も感じてたのか。さっきも青沼と話してたんだが、なんかここに来てから、どうにも自分に違和感があってな」
「自分に違和感」……言い得て妙だ。ここでの自分が普段の自分と違いすぎているせいで、なんだかしっくり生活できない。まさにどうしようもないほどの「違和感」がある。
「でも、そんな「違和感ある自分」を感じているのに、なんだかふんわりと幸せなんですよ。不安を感じなくちゃいけないはずなのに、それをやんわり禁じられているような感じというか……」
「そう、そう、そうなんだよな。おかしいって感じてなきゃいけないのに、そこに笑顔で安住してるんだ。そんな自分にも、またぬぐいきれない違和感を感じてるんだ」
「うん、分かります」
急いでうなずくと、黒沢さん、不意にきょろきょろと周囲を見回し、自分たち以外に誰もいないことを確認したところで、さらに顔を寄せる。
「あのな。俺……今朝起きてから、一本もたばこ吸ってねえんだよ」
「え!まさか!」
「いや、本当なんだ。体がニコチンを欲しているのは感じるんだけど、それがなんだか全く遠い感じで、むしろたばこを吸わずにいること自体が幸福に感じられて仕方ないんだ。だから、たばこを吸おうという気になれない。無理に吸おうともしてみたんだが、口にくわえた途端、なんともいやな味が口に広がって、思わずはき出してしまったんだよ。なあ、これ一体なんなんだ?一体なにが起きてるんだ?」
「わかりません。でも、私もおんなじような感じです。田舎なんて好きでもなんでもないのに、気がつくと、ここに住めたらいいのに、ってかなり本気で考えてて……」
話せば話すほど、脳の奥深くに隠れていた不安が湧き上がり、寒気に襲われる。
だが、ふと気がつくと、わき上がったはずの不安は霞となってどこかに消え去り、後にはぼやけた幸福感だけが、味気ない草原のように広がり、粟立った肌までもがつるりと元の状態に戻ってしまっているのである。
普通じゃない。絶対なにかおかしい。ここはどこか間違ってる……。
黒沢さんと二人、途方に暮れて立ち尽くしているところへ、ぼそりと青沼さんがつぶやいた。
「こうなった原因として、一つ、思い当たらないでもないことがある」
「え!?」
「ただ、あまりにも荒唐無稽な話だからな。自分でも半信半疑なんだ。だから、もう少し話すのは待ってほしい」
「それはいいですけど……」
「いや、そんなに長くは待たせない。今日の午後、ここの診療所に勤める医者に話し聞く予定だったろ。その時までには、大体はっきりさせられると思う」
「はあ……」
なぜそうなったか、理由が分かっているのならばさっさと理解し、対応策を考えたいところだが……本人がそういうなら仕方がない。
不承不承黙り込んだ私の顔を見て、青沼さんは苦笑した。
「すまんが、まあ、もう少し待ってくれよ。その代わりと言っちゃなんだが、この集落の、はっきり他と違っているところを教えてやるから」
「え!そんなのあるんですか?」
どことなく、なんとなく感じる「違和感」の他に、はっきりこれと指摘できる「違い」があるなどと思ってもみなかった私は、思わず身を乗り出した。
と、青沼さんは一つうなずき、
「ああ。俺今さっき気づいたんだが……この集落にはな、ドクダミが一本も生えてないんだよ」
そう言ったのである。
その日は、茶谷さんの案内で、移住してきた主な人たちの家を回り、話を聞かせてもらうことになっていた。
役場の車で先導する彼について走る道々、青沼さんから聞いた話だと、彼が「集落にドクダミがない」などという地味なことに気がついたのは、朝の散歩の最中だったそうだ。
宿舎から道をずっと下ったところに、ちょっとした公園があるのだが、そこへさしかかった時に、一緒に歩いていた黒沢さんが突然「ごめん、ちょっとトイレ行ってくら」と一言つぶやいたかと思うと、彼方に見える四角いコンクリート製の建物へと走って行ってしまったそうなのだ。
後に一人残された青沼さん、そのままぼんやり待っているのも手持ち無沙汰なので、「あの急ぎようからして、黒沢さん、朝出し忘れたのか?それともいきなり二回目の波がやってきたのか……」などと、かなり下世話なことを考えながら、さらに少し、道を下っていった。
と、公園から数軒離れた、かなり年季の入った感じの民家の脇に老婆が座り込み、なにやら草をむしっては手にした袋に放り込んでいるのが目に入った。
(草むしりかな?いや、それにしては伸び放題になってる雑草もあるし、一体なにをしてるんだろう?)
ちょっと気になって、そろそろとその老婆に近づくと、
「おはようございます。精が出ますね」
と声をかけた。
と、老婆はいかにもこの集落の人らしく、満面の笑みを浮かべ、
「はい、おはようさんでございます」
と気さくに返してくれる。
それに気をよくして、
「なにを、むしっているのですか?」
青沼さんが尋ねると、老婆はくしゃりと顔をゆがめ、
「はい、これ。ドクダミですがな」
と、袋の口を開けて、見せてくれた。
確かにその中には、ツンとする悪臭が印象的な、湿ったところならどこにでも生えてくるあの雑草が――おもしろいことに、他の雑草は一本も混じることなく――がさがさと入れられている。
「ああ、本当だ。ドクダミですね。煎じて薬草茶にでもなさるんですか?」
意外なことに、ドクダミは古くから薬草として知られている。生の葉をもんで傷や腫れ物の治療薬として用いたり、乾かした葉を煎じて飲み、解毒や便秘解消に使ったりと、その用途はかなり広く、売薬が高級品だった時代、かなり重宝されていた。
青沼さんは――こちらも意外なことに――理系大学院を卒業後、研究者になる道を諦めて学術映像を撮影する会社に入社、そこからテレビ業界へと転職してきたという異色の経歴の持ち主であり、ドクダミについても何かの文献で読み、その効能やについても知っていたので、こんなことを尋ねたのである。
が、老婆の反応は期待していたものとはまるで違っていた。
みるみる顔をしかめると、
「お茶にするだなんて、とんでもねえ!むしってもむしっても生えてくるこんないやらしい草、燃やして捨てるにきまってるわい!」
と、嫌悪感もあらわに怒鳴られたのである。
そのあまりの勢いに気圧され、
「え、あ、それは、申し訳ありません」
と一度は謝った青沼さんだったが、どうにも納得がいかず、
「あの、横に生えてるメヒシバやヤブカラシは放っておくのに、ドクダミはむしるんですか?」
と、重ねて尋ねてみた。
確かにドクダミは、ちょっとした土と湿り気があるだけでどこにでも繁茂し、なかなか根絶できない、厄介な雑草でもある。だが、メヒシバやヤブカラシは、同じように繁殖力が強く、根絶が難しいだけでなく、ドクダミ以上にわさわさと生い茂り、花壇の植物を枯らしてしまう。園芸家からの嫌われ具合は、むしろドクダミ以上の植物なのである。
だが。
「他の草はいいんだ。なんやかんや役に立つし、生きてるもんをむやみやたらにむしるのはよくないでな」
老婆はきっぱりとそう断言する。
「ははあ……。ドクダミだけは別ですか」
「ああ、コイツはダメだ。全部引っこ抜かないとならねえんだ」
そこまで話を聞いたところで、向こうからやってくる黒沢さんが目に入ったので、時間をとらせたことにお礼を述べ、老婆の元から離れたのだが……。
「なんだってそこまでドクダミだけを目の敵にするのか、どうにも納得できなくてな。単に、婆さんがドクダミ嫌いなだけかとはじめは思ったんだが、公園の木陰とか、北側の塀の根元とか、それと意識して薄暗い、湿った場所をいろいろ見ても、全然生えてないんだ。どうやらこの集落は、住民全員がドクダミを憎み、ものすごい執念でもって、その根絶に挑んでいるようなんだ……」
そこまで話したところで、青沼さんは難しい顔でゆっくりと腕を組んだ。
私は、といえば、全て話を聞いた後でも、集落の人間がなぜそこまでドクダミにこだわるのか、さっぱり分からなかったばかりか、青沼さんがどうしてそんな「ドクダミの不在」なんてことを気にするのかすら、さっぱり分からなかった。
ドクダミはドクダミ。生えてようが生えてなかろうが、大して問題ないだろうに。なんだってそんなつまらないものにこだわるんだろう?
「こう言ってはなんですけど……なんだってドクダミとか、つまらないものにこだわってるんでしょうね」
そんなこと気にしても仕方ないだろうに、といわんばかりの口調だったはずなのだが……私のそんな皮肉など、一切意に介していないかのように、青沼さんは大きくうなずいた。
「そうなんだよな。なんだって他のものは目もくれず、ドクダミだけを目の敵にするのか。そこが問題なんだよな……」
「……というように、このグラフを見ていただければおわかりになるかと思うのですが、当診療所での抗生物質の使用は全国的に見ても最低レベルになっております。これはすなわち、この集落での生活がいかに健康によいかという目安であり、実際当診療所を作業中のけが以外の病気で訪れる患者さんは、ごくごくわずか。アレルギーなどに冒される方もほとんどおらず、住民はほぼ例外なく、心身ともに健やかな生活を営んでいるのです……」
ディスプレイに映し出された映像を指し示しつつ、いかにもうれしそうに集落の健康状態に説明してくれているのは、こちらに移住して10年目という、古株の移住者の一人である医師だ。
元は都会の大病院で外科医としてならし、いったん仕事を離れれば車に女に酒にと派手に遊び歩いていることでも有名だった男が、今では小さな診療所で住民の健康状態を保つことに喜びを見出し、医療のかたわら裏の家庭菜園で野菜作りに精を出す毎日らしい。
茶谷さんといい、変われば変わるものだ……。
車内での会話などすっかり忘れて、この集落の魅力は、健康と自然と人のおだやかさ、ということになるか、じゃあ、どういう切り口で見せたらそれが一番伝わるかな、などと考えつつ、メモをとっていると、
「灰川さん。少し質問してよろしいでしょうか?」
おもむろに青沼さんが、手を上げた。
にっこり笑顔のままうなずく医師に向かい、ゆっくりと口を開く。
「今あなたは、この集落においては抗生物質の使用量が全国最低レベルだと説明してくださいました」
「ええ、その通り」
「さらに加えて、作業中のけが以外で診療所を訪れる住民は、ほとんどいないのだと」
「はい、そう言いました」
「だとすると、おかしくないですか?集落の全住民は、せいぜい2千人程度ですよね?しかも病気知らずときてる。ならば、抗生物質使用量は、もっと少なくていいはずだ。全国最低レベルどころじゃない、ほとんどゼロでならないといけない。にもかかわらず、年間必ず一定量が使われている。これは一体、どういうことなんでしょう?」
「ああ……それはその、どれだけ量を減らしても、薬剤使用量はゼロにはならないのが現状でして……」
「いえ、そういうことではなくて。住民の健康度から見て、この抗生物質の使用量は多すぎるのではないか、とお聞きしているのです」
「ええ、あの、それは……」
笑顔のまま眉尻が下がり、医師は、困ったような顔になった。それを見届けた上で、青沼さんが再び口を開く。
「これだけ健康な人ばかりが揃った集落で、抗生物質などそうそう必要なはずがない。にもかかわらず、かなりな量が使われている。とすると……ひょっとして、この薬剤、住民ではない人に使われているのではないですか?例えば、そう……我々のような、外部からこの集落を訪ねてくるような人とか」
急に茶谷さんが、大仰な笑い声を上げた。
「あ、ははははは!青沼さん!一体なにを馬鹿な!そんなこと,一体なんの根拠があってそんなことを……」
「茶谷さん、おっしゃってましたよね。この集落を訪ねる方は、どういうわけか、はじめは下痢しやすいと。あれは、実は仕組まれたことなのではないですか?そう……例えば、我々が初日、昼食にいただいた親子丼です。あれについていたみそ汁が、妙に塩辛いように感じていたのですが、ひょっとしてあれに、下剤が仕込まれていたのではありませんか?あの親子丼をいただいた施設の外には、見事なアサガオの生け垣があった。アサガオといえば、そのタネは強力な下剤として有名だ。それを、あの味噌汁に混入すれば、あっという間に下痢になる。そこへ、医師であるあなたが登場し、「治療」と称して、大量の抗生物質を処方する――こういう段取りになっているのではないですか?」
「そんなことをして、一体私たちにどのようなメリットがあるんです?青沼さん、お願いですから、憶測でものをおっしゃるのは……」
「そこなんですよ。我々に抗生物質を飲ませて、一体なんの得があるのか。そこだけを取り出すと、さっぱりわけが分かりません。でもね、「結果」から逆に考えていくと、これがすんなり理解できるんです」
「結果?それは……」
黒沢さんが怪訝な顔になる。青沼さんは、その顔に向かって、大きくうなずいた。
「ええ、結果です。「治療」の後、こちらで採れた食材を材料にした酒と料理をいただいた「結果」、我々はどうなりました?黒沢さんはたばこ依存がすっかり影をひそめ、私は、長年なにをどうしてもうまくなだめられなかった食欲が、すうっと人並みにまで落ちた。なんでこんな、あり得ないことが起こったのか?原因として考えられることはなんなのか?そう考えたとき、ふっと、頭にハリガネムシが浮かんできたんですよ」
「ハリガネムシって……あのハリガネムシですか?」
と、今度は私が、黒沢さんと同じく、怪訝な顔で尋ねる。
「そう。カマキリに寄生する、うねうねうごめく固い真っ黒な棒のような、あのハリガネムシだ。あいつらは、幼虫の頃にカマキリに寄生し、その腹の中で成長する。そして、成虫になると、体からある種のタンパク質を、宿主の脳に向かって分泌する。そうすると、宿主のカマキリは、そのタンパク質の効果で「水辺にいきたい、水に浸かりたい」というどうしようもなく強い衝動を覚え、一目散に水場へと向かう。ハリガネムシは、宿主が水場に到着したことを察知すると、おもむろに腹膜を食い破り、外界へと脱出、残りの生と水中で過ごすんだ」
その話は、私も学生時代に聞いたことがあった。宿主の行動を支配し、自由に操るとは、なんと無気味で恐ろしい寄生虫なのだと、ふるえおののいた覚えがある。
けど……そのハリガネムシと、今回の抗生物質と、一体なんの関係が?
「最近、人体の研究が大いに進んでな。人間は、個体のみで生きているのではなく、皮膚や消化管に多数付着した、無数の細菌やウイルスと共生して生きる存在だ、ということが分かってきたんだ。特に、腸に生きる細菌は、自分たちの生存に必要な栄養素をとるよう、ある種の物質を分泌し、人間の食生活を左右しているのではないか、ともいわれている。ちょうどカマキリに対してハリガネムシが行っているように、タンパク質が好みの細菌は、肉を大量に食べるように脳に働きかけ、食物繊維が好みの細菌は、野菜をたくさん食べるよう促しているのでないか、というわけだ。この種の研究はまだ始まったばかりでな、なんの役に立っているのか、全く分からない細菌も多い。だがもし、これらの細菌を死滅させ、もっと強力に脳に働きかける細菌を植えつけたら、どうなる?」
「人は、好むと好まざるとに関わらず、細菌の導くとおりの行動をするようになる……」
「そういうことだ。たばこを吸うのを止めさせ、食欲をおだやかなものに変え、朝は早くすっきりと目覚めさせ、適度な運動を促す。そうやって生きている人間の腸内を、最も住みやすく感じる細菌がいるとしたら……」
「そんな!それじゃあ、私たちの意志は!感情は!個性は!好みはどうなってしまうんですか!」
そう叫んだところで、私はようやく気がついた。この集落の無気味さの根底にあるのは、住民皆が揃って、どこか似たような雰囲気を漂わせているのだ、ということに。
「……健康で、朗らかに、長生きできるんですよ。これはむしろ、福音なんです」
「個性だって、なくなるわけではありませんよ。ただ、無茶な行動をしなくなるだけなんです」
相変わらず笑顔のまま、医師――灰川さんと茶谷さんの口調から個性が消え、平板なものへと変わる。
「毎日の生活に満足し、労働の喜びを味わいながら、おだやかに一生を過ごす。これ以上の幸福がありますか?」
「与えられた人生を精一杯生き、おいしいものを心から満足しつつ腹におさめ、毎晩気持ちよく眠る。これ以上の幸福がありますか?」
二人の問いかけに、黒川さんも青沼さんも、うっと言葉に詰まる。
頭の中のなにかが、激しく賛意を示し、私も黙り込みそうになったが……必死でその安寧を振り払い、言葉を絞り出した。
「……幸福でなくてもいい!私は、今まで生きてきた私でいいんだ!」
と、その叫びを耳にした灰川さんと茶谷さんは、大きくため息をついた。
「おやおや。まだ十分に細菌が増殖していないようですね」
「仕方がありません。もうしばらく、宿舎に滞在していただきましょうか」
「大丈夫ですよ、もう後2,3日も経てば、反抗的な気持ちなど、すっかりなくなりますから」
「心地よい人生を希求するようになりますから」
「さあ、こちらへいらっしゃい」
「さあ、こちらへいらっしゃい!」
ゆっくりと迫る二人の手を思い切り振り払い、怯んだ二人が後ずさりしたところで、私は黒沢さんと青沼さんの襟首をひっつかんで、診療所の外へと転がり出た。
入り口近くの駐車場に止めてあった車にあわてて乗り込むと、そのままエンジンをかけ、やけに動きがのろい黒沢さんたちを叱咤激励して車に積みこむと、思い切りアクセルを踏み込む。
はじけるように車は道へと飛び出し、遅れて診療所から出てきた茶谷さんと灰川医師の二人は、道の真ん中にじっと立ち尽くしたまま、妙な笑顔を浮かべ……後部ガラスの遙か彼方、点のようにその姿が小さくなるまで、じっとこちらを凝視していた。
なんだったんだ、あの笑顔は?獲物を逃して悔しがるどころか、むしろ余裕まで感じさせるような……。
その理由は、すぐに分かった。
今すぐあの集落に帰りたい、戻って二人に謝罪し、もう一度あのおいしい食事を楽しみたい、という欲求が、いきなり、耐えがたいほど強い圧力となって、脳を責め立ててきたのである。
はう、と声を上げ、思わずブレーキを踏みそうになる。
決死の思いで踏みとどまり、ひたすらアクセルを踏むのだが、それとて少しでも気を抜くと、途端に力が抜けそうになる。
こんなの……無理だ、いつまでも耐えられそうにない……。
目に涙を浮かべながら、それでも耐えに耐えていた、その時。
「村は、抜けたか?……それなら、どこか、どこでもいい、湿って、じめじめしたところを、探して、車を、止めろ……」
やはりこちらも必死で耐えているのか、食いしばった歯の隙間から絞り出すようにして、青沼さんがささやく。
じめじめした、土地?そんなところに,一体……。
そこでようやく、全てがつながった。
ちょうどその時、目の前に放棄されて久しいパチンコ屋らしき廃屋が目に入り、あわてて私は、そちらにハンドルを切った。
ドアを開け、外へと這いずり出ると、膝に小石が食い込むのも気にせず、そのまま建物の陰、最も日当たりが悪そうなところへと進む。
あった!
案の定、そこにはドクダミが群れをなして生え、白い花を開いている。
倒れ込むようにその草むらへ顔をつっこむと、私は、思い切り息を吸い込んだ。
ツンとして生臭い、なんともいえない悪臭が脳天を突き抜け……それから、頭を覆いつくしていた「帰りたい」という妄念が、徐々に、徐々に消えていく。
助かった……。
はは、はははは、と自然に口から漏れ出す笑い声を、どこか遠くから聞こえてくるかのように聞きながら、私は、ドクダミの悪臭ばかりか、かすかに小便臭まで漂うその不潔な草むらに、ぐったりと横たわったのだった。
前半部分投稿。後半部分は来週11月3日投稿予定。




