親になる夜
チューブを抜いて笑顔で振り回している侑也を見て、すぐさま病院で習った通り再挿入の準備に取り掛かる事にした。
まずは侑也からチューブを取り返さねば!これが意外と苦労した。まるで「これ僕の!」と言わんばかりに強い力で握りしめて離さないのだ。 こちょこちょくすぐったり、トントンとお腹を叩いて落ち着かせたりしてようやく取り返した。
ここからが本番だ。
夫婦で顔を見合わせ、最初は僕が挿入係、妻が侑也を抑える係と分担して取り掛かる。当然嫌がる侑也は大泣きの大暴れ。なんとか抑えている間に入れようと鼻へグリグリとチューブを入れる。 病院では上手くいったのだ。家に帰ってもできるはず。その自信はもろくも崩れ去った。
何度やっても上手くいかないのだ。
「上手く入ったと思ったらシリンジで空気を入れてお腹の音を聴診器で聞いて下さい。ちゃんと入っていたら、空気の音がお腹から聞こえるはずです」
GCUで習った通りに確認しようとしても、お腹から音が聞こえない。上手く入ってないのだろうと抜き直して入れ直す。何度繰り返した事だろう。 妻と役割を交代しながら気づけば真夜中、11時を回っている。
始めてから2時間程も経っている事に気づいた僕達はとうとう諦めて病院へ電話する事にした。
「困ったらいつでもかけてきてね。繋いでもらえるように言っておくから」
退院の時かけてもらった言葉だけが僕らの唯一の希望のように感じた。
病院へ電話をかけて事情を説明し、GCUへ繋いでもらうようお願いすると
「規則なのでそれはできません」
「いや、困ったらかけるようにと言われてるんです」
「規則なので」
何を言っても無駄だった。
僕達の希望は一瞬にして崩れ落ちた。せめてコツだけでも聞けたらと思っていたが、話すら通してもらえない。仕方ないので連れて行くから挿れてくれとお願いすると
「夜間なので別料金かかりますよ?良いんですか?」
と、他人事のような返事(実際他人事なのだが)が帰ってくる。 それでもいいから挿れてくれと再度念を押し、侑也を連れて隣町迄の深夜のドライブ。
親としてただ侑也を苦しめただけで何もしてやれなかった悔しさ、虚しさ、力不足が心の底から湧き立ってくる。
夜間救急の今日の担当医はたまたま小児科の若い先生だった。これなら大丈夫かと少し安心して事情を説明する。
「鼻から挿れてたチューブが抜けてしまったんです。この子は少し難しいらしくコツがいるとGCUの看護師さんも言われてました。GCUの人達なら慣れてると思うです。どうかお願いします」
先生は
「大丈夫です。管が抜けただけならすぐですよ」
そう自信たっぷりに言われ診察室にあったベッドの上で侑也の鼻にチューブを入れ始める。 しばらくして、
「入りましたので、ちゃんと入っているかレントゲンで確認しましょう」
そう言われた瞬間ホッと安心し張り詰めていた気持ちと全身の力が抜けた気がした。
レントゲン室に移動し、お腹の部分を撮影する。
「あれ?上手く胃に入ってないな。」
おや?雲行きが怪しくなってきた。 その後も挿れては撮影、やり直し。何度も何度も繰り返す。何度も何度でも…。
途中で
「先生、GCUの皆さんなら慣れてるはずなんです。頼んでみては?」
そう声をかけてみたが
「大丈夫。もう上手くいきますから。挿れるだけなんですぐです。すぐ」
その後も何度も挿れては撮影、やり直し。 気づいたら夜中の3時を回っている。3時間経ってもまだ入っていない。 侑也はというと、抵抗して暴れ疲れたのか暴れる力が相当弱まっている。
侑也、頑張れ。もうすぐだからね。
そう心の中で何度も念じた。
とうとう先生も根負けしたのか、ついにGCUへと連絡してくれた。 降りて来てくれたのは、退院の時声をかけてくれたあのベテランの看護師さんだった。
「この子はね、穴が小さくちょっとしたコツがあるんですよ」
そういいながら慣れた手つきでスッスッと挿れていく看護師さん。
「はい!入りましたよ。」
たった1度のチャレンジで上手く挿れてしまった。
先生の指示でレントゲン撮影して見たところ、上手く胃の内部まで挿入されている。
だから最初からGCUに連絡してくれと言ったんだ!
心の底から叫びたかったが、心の内で留めておいた。
僕達親が最初からできていれば済んだ話なのだから…
その後、診察室で先生は何かを言っていたが耳に入って来なかった。 正直、診察代も払いたく無かったがそれはそれ。ちゃんと支払いを済まして帰路につく。
うちの駐車場について、寝ていたはずの侑也を車から降ろそうとした瞬間、絶望が襲って来た。
目覚めた侑也が
「なんか取れた!!」
と言わんばかりにチューブを振り回していたのだ。 もう2度と病院は頼らん!と腹をくくり自宅で再度チャレンジ!看護師さんの手技を見せていただいたおかげもあったのか、わずか15分程で挿入に成功した。
その時に身に着けた覚悟とやり遂げたという自信は今後の侑也との生活に大きく影響していく。
空が白み始め、僅かな朝の光が窓から差し込む。疲労でぼんやりする頭のまま、僕は侑也をベビーベッドに寝かせたまま、窓の外を見つめる。夜を越えてようやく訪れた朝。
「これから毎日、この子と向き合っていくんだな…」
心に覚悟を刻みつつ、眠気をこらえて仕事へ向かう準備をする。妻も同じように、静かに寝室で目をこすりながら、侑也の寝顔を見守っていた。
親になることは、喜びだけでなく責任と苦労の連続だ。だが、この夜を経て、僕たちは少しだけ大人になった。侑也との毎日は、まだ始まったばかりだ。
もう5時、明け方だ。寝る時間は無いな。
徹夜で本日も仕事に出かけた。




