第六章:愛という名の潜降
翡翠がリブリーザーを装着するのは初めてだった。
カルロスが必死に基本操作を教えてくれたが、本来なら数ヶ月の訓練が必要な装備を数時間で使いこなすなど、常識的には不可能だった。
「セニョーラ、これは無茶すぎる。俺一人で行くから、あんたは地上で待ってくれ」
カルロスは翡翠の技術を心配していた。
「いいえ、私が行く」
翡翠の意志は固かった。
「彼は私のために生きている。私が迎えに行かなければ」
リブリーザーの操作は複雑だった。呼気の流れ、ソーダライムの交換、酸素分圧の監視。一つでも間違えれば命に関わる。
しかし翡翠には、夫から学んだダイビングの基礎知識と、何より凪への想いがあった。
「大和、私に力をちょうだい」
彼女は亡き夫に祈った。そして、水中で苦しんでいる凪の姿を想像し、決意を新たにした。
潜降開始。翡翠とカルロスは慎重にセノーテの深部へと降りていく。
水深30メートル、40メートル、50メートル。翡翠のリブリーザーは順調に作動していた。カルロスも彼女の技術の高さに驚いていた。
翡翠は凪から教わった技術を思い出していた。修正フラッターキック、中性浮力の調整、機材の操作。愛する人から学んだすべてが、今この瞬間に生かされている。
水深60メートルで、彼らは崩落現場に到着した。
巨大な岩盤が通路を完全に塞いでいる。しかし、カルロスは岩の隙間から微かな水流を感じ取った。
「向こう側に空間がある。この隙間を広げれば...」
二人は岩を動かし始めた。水中での作業は困難を極めたが、翡翠は諦めなかった。
彼女の脳裏には、凪の声が響いていた。『俺は必ず帰ってくる。君が待っているから』
その約束を果たさせるために、彼女は全力を尽くした。
一方、地下に閉じ込められた凪は、酸素残量がわずかになっていた。
残り30分。
彼は翡翠にモールス信号を送り続けていた。もう返事はないかもしれない。だが、最後まで彼女に愛を伝え続けたかった。
『THANK.YOU.』(ありがとう)
『FOREVER.』(永遠に)
その信号を受け取った翡翠は、作業の手を止めて応答した。
『COMING.』(向かってる)
『HOLD.ON.』(頑張って)
ついに岩の隙間が人間一人が通れる大きさまで広がった。
「俺が先に行く」
「いいえ、私が」
翡翠はカルロスを制止し、その隙間に体を滑り込ませた。
狭い通路を抜けると、そこには奇跡的に無事な凪がいた。しかし、彼の顔色は青白く、意識も朦朧としていた。低体温症の症状が現れている。
翡翠は彼を抱きしめた。水中でのハグ。それは二人にとって初めての真の愛の表現だった。
凪は翡翠の姿を見て、自分が夢を見ているのではないかと思った。
「翡翠...本当に君なのか?」
彼の声は弱々しかったが、確かに生きていた。
翡翠は凪にエマージェンシー用の酸素ボンベを渡した。彼女は全てを計算して、救助に必要な装備を持参していたのだ。
「大丈夫よ。もう大丈夫」
彼女は凪の手を握り、その温もりで彼の意識を繋ぎ止めた。
三人はゆっくりと浮上を開始した。テクニカルダイビングでは、深度に応じた厳密な減圧停止が必要だった。一つでも段階を飛ばせば減圧症で死に至る。
水深50メートルで5分、40メートルで8分、30メートルで12分...翡翠は凪から学んだ減圧理論を正確に実行していた。
凪は浮上しながら、翡翠の横顔を見つめていた。彼女の集中した表情、的確な判断、そして自分への愛。すべてが美しく、すべてが奇跡的だった。
ついに三人は水面に到達した。
「凪さん!」
「翡翠...君が、君が来てくれたのか」
凪は信じられない思いだった。彼女が、彼のために命を懸けて助けに来てくれたのだ。
水辺で、二人は長い間抱き合っていた。
「もう離さない」
翡翠が呟いた。
「ああ、俺も君を離さない」
凪は応えた。
それは誓いだった。互いの命を預け合う、永遠の契りだった。
「翡翠、俺が水中で君に送った信号...」
「聞こえてたわ」
翡翠は微笑んだ。
「私も同じ気持ち」
カルロスは二人を見て、静かに微笑んだ。
「あんたたちは本物だな」
その夜、三人はCASA DEL MARで祝杯を上げた。それは生への感謝と、愛への祝福の夜だった。