第五章:絶望と希望の境界線
暗闇。
それが凪が意識を取り戻した時に最初に認識した全てだった。
メインライトが消えている。岩に叩きつけられて粉砕されてしまったのだ。予備ライト1も反応しない。予備ライト2は微かに点灯するが、明らかに電力が不足している。
ほぼ完全な闇。そして完全な静寂。
自分の呼吸の音さえも聞こえない。リブリーザーの表示だけが緑色の光で、残された酸素の量を無慈悲に示していた。
残り時間、3時間。
何が起きたのか。水中地震により洞窟の構造が変化し、彼が通ってきたスクイズが完全に崩落したのだ。数十トンの岩盤が彼の帰路を完全に塞いでいた。
彼は閉じ込められたのだ。絶対的な暗闇と静寂と冷たい水の中に、たった一人で。
死。その言葉が脳裏をよぎる。
これまで何度も死の可能性と向き合ってきた。だが、こんなにも死が現実的で身近に感じられたことはなかった。酸素は残り3時間。助けは来ない。脱出ルートはない。
絶望的な状況。
しかし今、彼の心を支配しているのは恐怖だけではなかった。それは後悔だった。
翡翠の顔が浮かんでくる。彼女のあの翡翠の瞳。彼女が握ってくれた温かいおにぎり。そして彼女の声。
『おかえりなさい』
俺はまだ死ねない。あの声が聞こえるあの場所へ帰らなければならない。俺はまだ彼女に何も伝えていない。
昨夜、彼女に伝えると約束した言葉。それは彼女への愛の告白だった。
地上の人間関係のしがらみを嫌っていたはずの俺が、今必死に求めているのは、たった一人との繋がりだった。
その時、彼の指先に何かが触れた。
それは一本の細い糸。ガイドラインだ。
奇跡的に岩盤に切断されずに残っていた。それは地上の翡翠へと繋がる唯一の生命線。
凪は閃いた。水という媒体は空気よりもずっと効率的に振動を伝える。この微細な振動が、もしかしたら地上の彼女まで届くかもしれない。
彼の自作の通信装置は崩落の衝撃で損傷していた。だが、原始的な方法ならまだ可能かもしれない。
彼は必死にラインを弾き続けた。それはかつてバディと水中で交わしていたモールス信号のリズム。
『S.O.S. S.O.S.』
短短短、長長長、短短短。国際的な救難信号。
返事はない。だが彼は諦めなかった。
そして彼は彼女の名前を打った。
『H.I.S.U.I.』
短短長短、短短、短短短、短短短、短長。
翡翠。俺の愛する人の名前。
彼の指は既に感覚を失いかけていた。水温は摂氏20度。長時間の暴露により、体温が急速に失われている。
だが彼は信号を送り続けた。生きている限り、諦めるつもりはなかった。
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一方地上では、翡翠が絶望的な状況の中で一人戦っていた。
地震の瞬間、彼女の受信機は完全に沈黙した。ガイドラインからの信号が途絶えたのだ。
それは午後2時のことだった。凪の潜水開始から6時間が経過していた。
翡翠はすぐに現地のレスキューチームに救助を要請した。だが彼らの反応は冷たかった。
「ミセス・チカゲ、気持ちはわかる。だが、これは自殺行為だ。水中地震で洞窟の内部構造は完全に変わってしまった。今誰かが潜れば、二次災害が起きるだけだ」
レスキューチーフのフアンは、翡翠に同情的だったが現実的でもあった。
「でも彼は生きているかもしれない!」
「可能性はゼロだ。あの規模の地震で、洞窟内にいた人間が生存することは不可能だ。諦めてくれ」
「諦めろって言うの? 人の命よ!」
翡翠は怒りと絶望で震えていた。
「わかる。俺にも家族がいる。だが、無駄死にを増やすわけにはいかない」
レスキューチームが去っていった後、翡翠は一人セノーテの水辺に立ち尽くしていた。
諦める? そんなこと、できるはずがない。
彼女は水面に固定されたガイドラインのリールを見つめた。その時、彼女の指先がリールから伝わってくる本当に本当に微細な振動を感じ取った。
他の誰にもわからないその僅かな震え。だが彼女にはそれが何を意味するのかはっきりとわかった。
それは凪からの必死のメッセージ。彼が生きているという鼓動そのものだった。
しかも、その振動のパターンには規則性があった。短い振動と長い振動の組み合わせ。
モールス信号だ。
翡翠は夫・大和から教わったモールス信号の知識を必死に思い出した。
短短短、長長長、短短短。これは『S.O.S.』
そして次に来たのは...
短短長短、短短、短短短、短短短、短長。
『H.I.S.U.I.』
彼女の名前だった。
「凪さん!」
翡翠は水面に向かって叫んだ。
「聞こえてる! あなたの声、聞こえてる!」
彼女は急いでモールス信号で応答した。ガイドラインを規則的に弾く。
『OK. WAIT.』(了解。待って)
地下深くで、凪は希望の光を見た。彼女に届いた。彼女が応答してくれた。
俺は一人じゃない。翡翠がいる。
彼は続けて信号を送った。
『LOVE.YOU.』(愛してる)
その信号を受け取った翡翠は、涙が止まらなくなった。彼もまた、自分と同じ気持ちでいてくれたのだ。
『LOVE.YOU.TOO.』(私も愛してる)
死の淵で交わされる愛の告白。それは二人にとって、最も美しく、最も切ない瞬間だった。
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翡翠は再びレスキューチームに連絡した。
「彼は生きています! モールス信号で交信しています!」
しかし、彼らは信じなかった。
「そんなばかな。水中地震の後で生存は不可能だ」
「でも事実です! 彼は私の名前を信号で送ってきました。それも何度も!」
「錯覚だろう。ガイドラインの振動なんて、水流でも起こる」
フアンは頭を振った。
「ミセス・チカゲ、現実を受け入れてくれ」
翡翠の必死の訴えは届かなかった。彼らは完全に救助を諦めていた。
翡翠は決断した。自分が助けに行く。
彼女はダイビング機材を準備し始めた。だが彼女の装備は通常のレクリエーショナルダイビング用。水深80メートルの救助など不可能だった。
その時、一人の男性が現れた。
「手伝おう」
それはリカルドの息子、カルロスだった。彼は地元の漁師でありながら、テクニカルダイビングの資格を持っていた。
「カルロス!」
「あんたの気持ちはわかる。俺にも救助経験がある。一緒に行こう」
カルロスは30代前半の逞しい男性で、地元のダイビングガイドとしても活動していた。彼はトリミックスダイビングの認定を持ち、水深70メートルまでの経験がある。
しかし、カルロスの装備でも水深80メートルは限界だった。
その時、翡翠は凪の予備機材のことを思い出した。彼は万が一に備え、予備のリブリーザーを店に保管していたのだ。
「これを使えば...」
翡翠は決意した。彼女がリブリーザーを装着し、カルロスがサポートダイバーとして同行する。
無謀な計画だった。リブリーザーは通常、数ヶ月の訓練を要する高度な機材。それを数時間の練習で実戦投入するなど、常識的には狂気の沙汰。
しかし、それが唯一の希望だった。
愛する人を失うくらいなら、自分の命を賭ける価値がある。翡翠はそう信じていた。