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第四章:深淵への降下

 潜水当日の朝、翡翠は凪のために特別な朝食を用意していた。


「高エネルギーで消化の良いもの」


 テーブルの上には、バナナとナッツのオートミール、エネルギーバー、そして温かいコーヒーが並んでいた。さらに、彼女の手作りの握り飯も。彼が好きな梅干しと昆布の組み合わせ。


「長時間の潜水では、体温保持が最重要課題になる。特にヘリウムは体温を奪いやすい」


 翡翠は凪から学んだ知識を口にしながら、彼の身支度を手伝った。


 ドライスーツの防水ジッパーを確認し、リブリーザーのソーダライムキャニスターを新品に交換し、各種ガスボンベの残圧をチェックする。その手つきは完全にプロフェッショナルだった。


 だが、彼女の手が微かに震えていることを、凪は見逃さなかった。


「翡翠さん」


「何?」


「ありがとう」


 翡翠は微笑んだ。しかし、その笑顔の奥に深い不安があることを、凪も感じ取っていた。


「お互い様よ。私こそ、生きる意味をくれてありがとう」


 セノーテ・サイレンスブルーの水辺で、凪は最終準備を整えていた。


 水中ライトを3つ装着(メイン1つ、バックアップ2つ)、ガイドラインリールを腰にセット、そして彼の自作通信装置をラインに接続する。予備の酸素ボンベ、緊急時のシグナルデバイス、そして万が一の時のための緊急浮上用のリフトバッグ。


 総重量は50キロを超える装備。通常のレクリエーショナルダイビングの3倍の重量だった。


 翡翠は地上の受信機を確認していた。


「信号、クリアよ」


 彼女の声は努めて明るかったが、手の震えは止まらなかった。


 凪は翡翠を見つめた。朝日を浴びて、彼女の黒い髪が金色に輝いている。その美しさに、改めて彼は帰ってくる理由を確認した。


「万が一の時は...」


「言わないで」


 翡翠は彼の言葉を遮った。


「あなたは必ず帰ってくる。それだけを信じてる」


 彼女は彼に近づき、そっと額にキスをした。


「これは、お守り」


 凪はその温もりを記憶に刻み、ゆっくりと水中に沈んでいく。


 透明度は50メートル以上。セノーテの水は雨水由来の淡水で、海水よりも浮力が小さいため、より多くのウエイトが必要だった。凪のドライスーツは、内部に断熱性の高いアンダーガーメントを装着し、長時間の低温環境に対応している。


 水深10メートル、20メートル、30メートル。凪は規則正しく減圧を調整しながら降下していく。リブリーザーの最大の利点は、呼気泡が出ないため水中生物を驚かせず、またガス効率が極めて高いことだった。


 水深40メートルで、凪は初回のサーフェイスコールを送った。地上の翡翠に、自分が予定通り降下していることを知らせるためだ。


 ガイドラインを短く二回弾く。


 地上の翡翠の受信機が、ピッピッと音を立てた。


「信号良好」


 翡翠は安堵の息を漏らした。


 水深50メートル。ここで凪は窒素酔いの兆候をチェックした。簡単な暗算問題を頭の中で解き、自分の判断力が正常であることを確認する。トリミックスガスの効果で、通常よりも明瞭な意識を保てている。


 水深60メートル。いよいよ未踏領域の入り口だった。ここからは、彼だけが知る秘密の世界。


 水深65メートル。ここからが本当の未踏領域だった。ライトの光芒が、前方に狭い通路を照らし出す。高さ1メートル、幅50センチの「スクイズ」。機材を背負ったまま通り抜けるには、極めて高度な技術が要求される。


 凪は慎重に体勢を調整し、そのスクイズに挑んだ。


 ドライスーツが岩壁に擦れる音。リブリーザーのハーネスが引っかからないよう細心の注意を払いながら、少しずつ前進する。この狭い通路で機材が岩に挟まれば、脱出は不可能になる。


 息を殺し、身体をくねらせながら、彼は岩の隙間を縫って進む。まるで生まれ変わるための試練のように。


 そして、ついに彼はスクイズを突破した。


 その先に広がっていたのは、信じられない光景だった。


 巨大な水中ドーム。直径100メートルはあろうかという円形の空間が、水面下に隠されていたのだ。天井は水面上30メートルほどの高さにあり、そこには鍾乳石が無数に垂れ下がっている。まるで地底の大聖堂のような荘厳な空間。


 そして、その中央には...


 古代マヤのピラミッドに酷似した石造建造物が、荘厳にそびえ立っていた。


 凪は息を呑んだ。これは歴史を覆す大発見だった。マヤ文明の水中遺跡。学術的価値は計り知れない。


 建造物は明らかに人工的で、精緻な石組みが施されている。高さは約20メートル、基部の一辺は約40メートル。ピラミッドの頂上には、神殿のような構造物が建てられている。


 何より驚くべきは、その保存状態の良さだった。水中という環境が、千年以上の時を経ても建造物を完璧に保護していたのだ。


 彼は興奮を抑え、慎重に撮影を開始した。防水カメラのストロボが、古代の石造物を幻想的に照らし出す。


 壁面には象形文字のような彫刻が刻まれていた。それはマヤ文字に似ているが、より古い形式のようだった。ある部分には、明らかに天体を表す図形が描かれている。太陽、月、そして星座。古代マヤ人の高度な天文学の知識を示している。


 凪は夢中になって探査を続けた。ピラミッドの周囲を回遊し、あらゆる角度から記録を取る。その過程で、彼は建造物の入り口と思われる開口部を発見した。


 そこは水で満たされているが、奥へと続く通路があるようだった。迷ったが、好奇心が勝った。彼は慎重にその入り口に向かった。


 内部は想像以上に広い空間だった。複数の部屋に分かれており、それぞれに異なる彫刻や装飾が施されている。まるで古代の博物館のようだ。


 一つの部屋で、彼は人工的な音を聞いた。かすかな振動音。それは機械的でありながら、どこか生物的でもある不思議な響きだった。


 気がつくと、予定していた時間を大幅に超過していた。


 慌てて帰路につく。だが、その時だった。


 ゴゴゴゴゴ...


 大地の底から響く不吉な音。水中にいても明確に感じ取れる地鳴り。


 水中地震だった。


 ピラミッド周辺の岩盤が崩れ始める。巨大な石が水中に落下し、濁流を巻き起こす。


 凪は必死にスクイズの方向へ向かった。だが、崩落は彼の予想を遥かに上回る規模だった。


 通ってきた狭い通路が、数十トンの岩石によって完全に塞がれる。


 脱出ルートの消失。


 彼は完全に閉じ込められた。



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