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第三章:シバルバーの門

 何ヶ月にもわたる地道な調査と測量の末、凪はついに一つの結論に達していた。


 彼が探査を続けていたセノーテ「サイレンス・ブルー」は単独の洞窟ではない。その最深部は、ユカタン半島に網の目のように広がる巨大な水中洞窟系の、まだ誰にも知られていない入り口になっている可能性が極めて高い。


 そして、その先には伝説に謳われるマヤの失われた聖地が眠っているかもしれない。


 ユカタン半島の地下は、石灰岩が地下水によって浸食されてできた巨大な洞窟群で構成されている。これは「カルスト地形」と呼ばれ、世界最大級の地下河川システムを形成していた。セノーテはその一部が陥没してできた天然の泉で、古代マヤ人にとっては神聖な場所だった。


 彼らは死者の魂がこのセノーテを通って冥界「シバルバー」へ旅立つと信じていた。そして最も深い場所には、死と再生を司る神々の神殿があるとされていた。


 その仮説を裏付けるように、彼は洞窟の壁の奥から微かな人工的な振動を検知していた。それは水の流れとは明らかに違う周期的なリズム。まるで古代の儀式で使われた太鼓の音のようだった。


 さらに、水質分析の結果も興味深いものだった。通常のセノーテの水は純粋な雨水由来の淡水だが、深部の水には微量の鉱物が含まれていた。これは、より深い地層との繋がりを示唆している。


 彼はこの前人未到の領域を仮に「アンダーワールド」と名付けた。そして、そのアンダーワールドへの最後の壁となっている狭い通路スクイズを突破するための最終的な潜水計画を立てていた。


 その計画は前代未聞の危険性を伴っていた。水深80メートル、潜水時間12時間、使用ガスはトリミックス(酸素・窒素・ヘリウムの混合ガス)21/35。通常のスポーツダイビングの常識を遥かに超えた、テクニカルダイビングの極限だった。


 トリミックス21/35とは、酸素21%、ヘリウム35%、残り44%が窒素の混合ガスを意味する。ヘリウムの添加により、深い水深での窒素酔いを軽減できるが、同時に体温を奪いやすく、より複雑な減圧手順が必要になる。


---


 その計画を翡翠に打ち明けた時、初めて彼女の静かな瞳が大きく揺らいだ。


「凪さん、それはあまりにも危険すぎる。もし何かあったら、誰も助けに行けない」


 翡翠は机に広げられた詳細な潜水計画表を見つめていた。減圧停止時間、ガス消費量、緊急時のコンティンジェンシープラン。全てが完璧に計算されていたが、それは同時に一歩間違えれば死に直結することを意味していた。


 特に彼女が恐れたのは、一人での長時間潜水による「窒素酔い」と「酸素中毒」のリスクだった。深い水深では、通常の空気に含まれる窒素が麻酔作用を示し、判断力を著しく低下させる。また、高い酸素分圧は細胞レベルでの中毒症状を引き起こす可能性がある。


「わかってる。だが行かなければならない。何かが俺を呼んでいるんだ」


 凪の瞳には、翡翠が初めて見る炎が燃えていた。それは探究心を超えた、もっと原始的で衝動的な何かだった。まるで運命に導かれているような、抗いがたい使命感。


「何かって?」


「説明できない。でも、あの奥に俺が見つけなければならないものがある。それが何かはわからないが、俺はそのために生きているような気がする」


 翡翠は不安になった。彼の言葉には、理性を超えた危険な響きがあった。


「お願い」


 翡翠は彼の手を握った。


「私を一人にしないで」


 その言葉に、凪は動揺した。自分の行動が他の誰かの人生に影響を与えるということを、彼は真剣に考えたことがなかった。


「翡翠さん...」


「あなたが帰ってこなかったら、私はどうすればいいの? またひとりぼっちになって、ここで誰かの帰りを待ち続けるの?」


 翡翠の目から涙がこぼれた。


「私、あなたがいない世界なんて考えられない。でも、止める権利もない。あなたの人生は、あなたのものだから」


 その時、凪は初めて理解した。自分がこの世界で本当に大切にすべきものが何なのかを。


 凪は翡翠を抱きしめた。それは二人にとって初めての身体的な接触だった。彼女の身体は温かく、小刻みに震えていた。


「俺は必ず帰ってくる。君が待っているから」


 それは誓いだった。そして、凪にとって初めて他人のためにした約束だった。


「でも、君にも約束してほしい」


 凪は翡翠の顔を見つめた。


「もし俺に何かあっても、君は君の人生を生きてくれ。俺のことで君の人生を台無しにしないでくれ」


「そんなこと約束できない」


 翡翠は首を振った。


「あなたは私の人生そのものになってしまったから」


 その夜、二人は言葉以上に多くのことを語り合った。抱き合ったまま、互いの鼓動を感じながら、来る別れの時間を惜しむように。


---


 決行の前夜、CASA DEL MARのポーチで二人は遅くまで話していた。


 凪は自分の水中通信装置の最終調整をしながら、翡翠にその詳細を説明していた。


「この装置は、ガイドライン越しに電気信号を送る仕組みになっている。地上の受信機で、俺の状況をリアルタイムで把握できる」


 翡翠は真剣に聞いていた。この装置が、明日の彼の命を左右するかもしれないからだ。


「信号の種類は5つに分類した。単発の短い信号は『正常』、2回連続は『小休止』、3回連続は『大休止』、長い信号は『問題発生』、そして連続音は『緊急事態』だ」


「もし何かあったら、すぐに救助を呼ぶから」


「いや」


 凪は首を振った。


「プロのレスキューダイバーでも、あの深度は危険すぎる。俺に何かあっても、君は自分の身を守ることを優先してくれ」


「そんなこと言わないで」


 翡翠は涙声になった。


「私、あなたを失いたくない。本当に、本当に失いたくない」


 凪は翡翠の頬に触れた。月光の下で、彼女の涙が銀色に光っていた。


「俺も君を失いたくない。だから必ず帰ってくる」


 彼は声を落として続けた。


「実は、君に伝えたいことがある。この潜水から帰ってきたら、絶対に言おうと決めていたことが」


 翡翠の心臓が高鳴った。


「何?」


「それは...帰ってきてからのお楽しみだ」


 凪は初めて、本当に幸せそうな笑顔を見せた。


 その夜、二人は初めて互いの本当の想いを確認した。言葉にはしなかったが、それは間違いなく愛だった。そして、明日という日が、その愛の運命を決める日になることを、二人とも知っていた。



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