第一章:CASA DEL MAR(海の家)
千景翡翠がこのユカタン半島の果てのような小さな村に流れ着いたのは三年前のことだった。
夫・大和と二人で世界中の海を旅していた。彼は水中写真家で、彼女はその最高のバディだった。PADI インストラクターの資格を持ち、ニトロックスやディープダイビングの専門コースも修了していた。二人は完璧なチームだった。
翡翠にとって、大和は世界そのものだった。彼の情熱的な瞳、カメラを構える時の集中した横顔、水中で彼女を見つめる優しい眼差し。すべてが愛おしく、すべてが永遠に続くと信じていた。
あの日も二人はカリブの青い海に潜っていた。
目標は、カリブ海に生息する幻の魚「カリビアン・パラダイス・フィッシュ」の撮影。この魚は水深60メートル以深の洞窟にのみ生息し、その美しい虹色の鱗は一生に一度見られるかどうかという伝説の存在だった。実際、海洋生物学者の間でも目撃例は数えるほどしかなく、写真に収められた例は皆無に等しかった。
大和の水中写真に対する情熱は狂気に近かった。「写真は瞬間を永遠にする魔法だ」が彼の口癖だった。そして翡翠は、彼のその情熱を誰よりも理解し、支えていた。
潜水当日の朝、二人はいつものように機材をチェックしていた。
「翡翠、今日は特別な日になりそうだ」
大和は興奮を隠せずにいた。
「昨日現地のガイドから聞いた情報によると、パラダイスフィッシュの群れが洞窟の奥で確認されたらしい」
「でも大和、水深60メートルよ。安全停止を含めると、かなり長時間の潜水になる」
翡翠は少し不安だった。彼の興奮度と危険度は比例することを、長年のパートナーとして知っていた。
「大丈夫だ。君がいれば怖いものなんてない」
大和は翡翠の頬にキスをした。
「君は僕の守護天使だから」
その時の彼の笑顔が、翡翠の脳裏に永遠に焼き付いている。
だが彼は帰ってこなかった。
急な潮の流れの変化。機材の不調。原因は今もわからない。翡翠が海上で待っていたボートから、彼のガイドラインが急に弛んだのを見たのが最後だった。彼女は即座に水中に入ろうとしたが、船長に止められた。一人で深い洞窟に入ることは自殺行為だったからだ。
捜索は三日間続けられたが、彼の遺体は遂に発見されなかった。
最後に残されたのは、彼のカメラだけ。海底で発見されたそのカメラの最後の一枚に写っていたのは、確かに幻のパラダイスフィッシュだった。虹色に輝く美しい魚が、まるで天使のように水中に舞っていた。
大和は最後まで写真家だった。命と引き換えに、伝説の一瞬を永遠に封じ込めたのだ。
一人日本に帰る気にはなれなかった。夫が愛したこの海のそばにいたい。その一心で彼女は、彼が生前建てたこの小さなダイビングショップを一人で守り続けていた。
『CASA DEL MAR』。海の家。
そこはいつしか世界中からやってくる少し変わり者のダイバーたちの心の拠り所のような場所になっていた。
翡翠は彼らに最高のサービスを提供した。完璧な機材のメンテナンス。正確な海の情報。そして決して客のプライベートには踏み込まない絶妙な距離感。それは大和から学んだホスピタリティの精神でもあった。
だが誰よりも客の安全を願っていた。夫を失った痛みを知っているからこそ、二度と同じ悲劇を起こしたくなかった。そのため、彼女の安全基準は業界でも有名なほど厳格だった。機材に少しでも異常があれば容赦なく潜水を中止させ、天候に不安があれば頑として潜水許可を出さない。
そんな彼女が、なぜ凪の一人でのケーブダイビングを黙認しているのか。それは彼女自身にも説明できない複雑な感情があった。
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黒瀬凪が初めてこの店に現れたのは一年前のことだった。
彼はまるで亡霊のようだった。感情の抜け落ちた瞳。必要最低限の言葉。そして彼の背負う機材は尋常ではなかった。通常のオープンサーキット(開放式)のスキューバではなく、テクニカルダイビングで使われる閉鎖式のリブリーザー。
翡翠は一目で彼がただの観光ダイバーではないことを理解した。彼の装備は軍用レベルだった。APD社製の最新型リブリーザー、水深200メートルまで対応するゲージ、そして特注のドライスーツ。総額で数百万円はする機材だった。
「ここのセノーテの未踏査エリアの調査をしている」
彼は最初にそう言った。
翡翠はその時、彼の瞳の奥にかつての夫と同じ光を見た。それは未知なる世界への純粋な探究心。そして死の危険さえも厭わない狂気にも似た情熱。
だが同時に、大和にはなかった深い絶望も感じ取った。まるで自分自身を罰しているような、痛々しいほどの孤独感。
だから彼女は彼の専属のサポートを引き受けた。
最初は単純に、同じ痛みを知る者として彼を放っておけなかったからだ。だが次第に、彼の存在が彼女の生活に新しい意味をもたらしていることに気づいた。
彼が潜る日、彼女は朝早くから彼の機材を点検する。一つ一つの部品を丁寧に確認し、完璧な状態に整える。それは技術者としての仕事を超えた、まるで愛する人を送り出す準備のようだった。
そして気づいてしまったのだ。自分が凪の帰りを待つことが、いつしか生きる意味になっているということに。
夫を失った自分が、再び誰かを愛するなど許されるのだろうか。そんな罪悪感と、それでも抑えきれない感情の間で、翡翠は毎日葛藤していた。
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彼が潜る日。翡翠は必ずセノーテの入り口まで彼の古いピックアップトラックを運転していく。
そして凪が潜る前に必ず行う儀式を見守る。
凪は水面に一本の細いガイドラインのリールを固定する。ケーブダイビングにおいて、このラインは生死を分ける最重要の装備だった。洞窟内で迷子になることは即座に死を意味する。ガイドラインは文字通りの生命線だった。
そして凪はそのラインを指でそっと弾く。ポーン、という微かな音が水面に広がる。
それはこれから自分が入っていく冥界への挨拶のようでもあり、あるいは地上に残る唯一の繋がりを確かめる行為のようでもあった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
その短い言葉を交わした後、彼は水の中へと消えていく。
翡翠は彼が戻るまでその場を動かない。ただじっとガイドラインのリールを見つめている。そのラインが微かに揺れるだけで、彼女は彼がまだ生きていることを感じ取ることができた。
それは二人だけの言葉にならない対話だった。
ラインの振動には意味があった。短く二回弾くのは「問題なし」、長く一回は「休憩中」、激しく連続で弾くのは「緊急事態」。これは凪が独自に開発したコミュニケーション方法だった。
翡翠は時間を忘れて、その微細な振動に集中する。まるで彼の鼓動を直接感じているような錯覚に陥ることもあった。この細いラインだけが、愛する人と自分を繋ぐ唯一の絆。それはかつて夫を失った時に感じた、完全な断絶への恐怖を蘇らせる。
だからこそ、このラインを通じた交流が、翡翠にとってどれほど大切なものか。それは生きていることの確認であり、愛していることの証明でもあった。
地元のマヤの末裔の老人、リカルドだけが二人のそんな奇妙な関係を理解していた。
「ヒスイや。あの男はシバルバーに魅入られておる」
シバルバー。マヤの神話で冥界を意味する言葉だ。
「セノーテは聖なる場所。生者の世界と死者の世界を繋ぐ門じゃ。あまり深入りさせてはならんぞ」
リカルドの警告に翡翠はただ静かに微笑むだけだった。
「大丈夫よ、リカルド。彼は必ず帰ってくる。私が待ってるから」
彼女のその根拠のない確信。それは祈りそのものだった。
だが、その祈りが試される運命の日が刻一刻と近づいていることを、彼女はまだ知らなかった。