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序章:サイレンス・ブルー

 呼吸の音だけが、自分の世界を定義する。


 吸って、吐いて。リブリーザーのカウンターラングを通して響く、規則正しくそしてどこまでも機械的な生命活動の残響。水深35メートル。周囲の水圧は4.5気圧。体内の窒素が血中に蓄積される時間を計算しながら、俺は暗闇を進む。


 ここは、メキシコ・ユカタン半島。ジャングルの奥深くに口を開ける聖なる泉「セノーテ」。そして、その水面下数十メートルに広がる水中洞窟ケーブの、まだ誰も地図に描いたことのない領域。


 俺、黒瀬凪にとって、この光の届かない青い迷宮だけが、唯一心から安らげる場所だった。


 地上の世界はノイズに満ちている。他人の感情、期待、欺瞞、そして同情。それらは俺にとって耐え難い不協和音だった。五年前、地中海の青い海の底で俺のたった一人のバディを失って以来、俺は他人と深く関わることをやめた。特に水の中では、二度と誰の命も背負わないと誓った。


 だから俺は常に一人で潜る。


 それは死と最も近い場所に身を置く危険な行為。ケーブダイビングにおける「鉄の掟」――常にバディと潜り、必ずガイドラインを設置し、1/3ルール(持参したガスの1/3で進入、1/3で帰還、1/3は緊急用)を厳守する――をことごとく破る行為でもあった。だが、その極限の孤独の中でのみ、俺は自分が確かに「生きている」と実感できるのだ。


 ゆっくりとフィンキックで前進する。修正フラッターキックで水を後方に押し出し、洞窟の堆積物を巻き上げないよう細心の注意を払う。手にした12000ルーメンの水中ライトが、前方のさらに狭い通路を照らし出す。石灰岩の壁に刻まれた無数の溝は、数百万年前の地下水の流れが削り出した自然の芸術作品だった。


 セノーテとは、マヤ語で「ツォノト(聖なる洞窟)」を意味する。古代マヤ人は、ここを死者の世界「シバルバー」への入り口と信じていた。確かに、この蒼い静寂の世界は、生者の世界とは明らかに異なる法則で支配されている。


 その先には、まだ誰も見たことのない景色が待っている。その誘惑だけが俺を、この青い迷宮のさらに奥深くへと駆り立てる。


 俺は求道者だ。そして、ここは俺だけの魂の聖域だった。


---


 数時間の潜水を終え、重い潜水機材を背負ったまま俺が向かう場所はいつも決まっている。


 セノーテから数キロ離れた小さな村の外れに、ぽつんと建つ一軒のダイビングショップ。色褪せた看板には『CASA DEL MAR』と書かれている。スペイン語で「海の家」。


 そこが俺の唯一の地上との接点だった。


 店のポーチで俺が機材を降ろしていると、中から一人の女性が出てきた。


「おかえりなさい、凪さん」


 彼女がこの店のオーナー、千景翡翠だ。


 陽に焼けてはいるが透き通るような白い肌。黒く長い髪を無造作に一つに束ねている。その名の通り、翡翠のような深く静かな瞳をした女性だった。そして俺が初めてここを訪れた日から、彼女はいつもその同じ言葉で俺を迎えてくれる。


「おかえりなさい」


 まるで俺が本当にここに帰ってくる家族であるかのように。


「ああ」


 俺は短く答える。


 彼女もそれ以上は何も聞いてこない。俺がどこで何を見てきたのか。危険な目に遭わなかったか。そんな野暮な質問は一度もされたことがない。だが、彼女の瞳は俺の身体を静かに観察している。機材に損傷はないか、俺自体に怪我はないか。その細やかな気遣いが、言葉以上に俺の心を温めた。


「トリミックスの充填を頼む。ヘリウムの比率を2%だけ上げてくれ。次の潜水深度をもう少し下げる」


「わかった。シリンダー、ここに置いといて」


 彼女もまたプロフェッショナルだった。彼女の機材メンテナンスの腕は確かだ。俺が使うリブリーザー(循環式呼吸装置)のような特殊で複雑な機材を完璧に整備できる技術者は、この辺りでは彼女だけだった。


 リブリーザーは、通常のスキューバとは全く異なる仕組みを持つ。呼気に含まれる二酸化炭素をソーダライムで除去し、消費された酸素だけを補充して再び呼吸する。これにより、気泡を出さず、ガス効率を格段に向上させることができる。しかし、一歩間違えれば一酸化炭素中毒や窒素酔い、酸素中毒といった致命的なリスクを抱える諸刃の剣でもあった。


 俺たちの間に言葉は少ない。だが、そこには互いの仕事に対する絶対的な信頼関係が存在していた。


 俺はふと気づく。翡翠が俺のリブリーザーを点検する手つきに、ただの技術者を超えた何かがあることに。彼女の指先は、俺の命を預かる機材を愛おしむように丁寧に撫でている。まるで、その機材の向こうにいる俺の存在を確かめるように。


---


 俺がシャワーを浴びて着替えている間に、翡翠は俺が好きな日本のおにぎりと温かいコーヒーを用意してくれている。それがいつもの習慣だった。


 俺はポーチの古びた木の椅子に腰掛け、黙々とそれを食べる。ジャングルの匂いと潮の香りが混じり合った風が頬を撫でる。遠くで鳥の鳴き声がした。


 ここは地上だ。俺が唯一帰ってくる場所。


 翡翠は俺の斜め向かいに座り、何も言わずに俺が食事を終えるのを待っている。時折、コーヒーカップを持つ俺の手が微かに震えているのを見て、心配そうな表情を浮かべることがある。深い水深で長時間過ごした後は、体温調節機能が乱れることがあるのだ。


 彼女はそんな時、無言で俺の手にそっと自分の手を重ねる。温かい。生きている人間の体温。それだけで俺の震えは止まる。


「うまかった」


 食べ終えた俺が呟くと、翡翠はただ静かに微笑んだ。


 俺は彼女のその微笑みの奥に、俺と同じ種類の深い喪失の影があることを知っていた。彼女もまた数年前に夫をこのメキシコの青い海で亡くしていたのだ。


 だから彼女は俺を止めない。そして俺も彼女の過去を聞かない。


 私たちは互いの傷口に触れないという暗黙のルールの上で成り立っている、脆くそして奇妙な共生関係だった。


 だが、最近俺は気づき始めていた。彼女の微笑みが、以前よりもわずかに明るくなっていることに。俺が無事に帰ってくることが、彼女にとって単なる仕事を超えた意味を持ち始めているのではないかということに。


 そして俺自身も、この暖かい時間が一日の中で最も大切な瞬間になっていることを、認めざるを得なくなっていた。


 俺は立ち上がると、週に一度の報告をする。


「明後日、潜る。予定では十二時間。それを過ぎても戻らなければ、後は頼む」


「わかった」


 彼女はただ頷くだけだった。だが、その頷きの中に、俺が気づかないふりをしている何かがあった。それは不安。そして、もう一つは...


 祈り。


 俺は背を向け、自分の安宿へと帰っていく。一度も振り返らなかった。


 もし振り返ってしまえば、彼女のあの翡翠の瞳の奥にある悲しみに飲み込まれてしまいそうで怖かったからだ。そして、それ以上に恐ろしいのは、俺自身が彼女に対して抱き始めている感情に気づいてしまうことだった。




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