五
五
「はい、鷭三郎の野郎はといえば、その場で気絶していやした。地引きの船の見回りが、夜中にカンテラを点けて磯を歩いてたところ、相撲取りに投げられて突っ伏したような鷭三郎を見つけたでね、わしの家へ担ぎこんだんでがすよ。
その夜のうちに一度、正気づいた。そのときに事の顛末をしゃべっただが、明け方の雀が鳴きだすと、例のすみません、謝りますっていうお辞儀をはじめた。三日にもなるが、今もってそんな様子だで、お前さま」
私は半信半疑でした。とはいえ、この場所で毒龍のような黒い海を眺めて、砂粒が足の裏を削ぎ取りそうな砂浜にたたずんで……しかもどうやら、すぐ斜め先にあるのが、その鷭三郎という男が、魔物だとは気づかずに、首のない妖艶な裸体の死骸に人工呼吸を施した傍にあった更衣室らしい。……そう思うと、信じがたい話だとはいえ、どうやら私もまた、いつの間にかその魔物に引きつけられているのだという気がしてきました。
まったく人気のない、例の更衣室を囲うよしずは破れた御簾のようで、そこからは、その昔、平安京の清涼殿にあったという荒海の障子――そこに手長足長の怪物がいる浜辺が描かれていた、あれです――のような恐ろしいものが覗き見えそうで、その障子の隙間から、漆のような黒髪をサッとさばいて、白い顔が顕れるのではないかという気がしてなりません。
さらに私は、うねりながら渚に砕ける真っ黒な波の裾が、怪しくゾッとするように稲妻を寝かしたような光をたたえているのが、なぜか巨大な「黒い提灯」を眺めているようにも思われて……たとえ嘘の話であったとしても、そんな風景が治平に、意識下の暗示を与えたのではないか、とふと思いました。
(筆者記。実際のところ、底知れぬ水の怪異に怖れを感じた間宮は、やがて黒い海から光る波を一枚剥がして、真っ白な片手にかかげ持ち、夜咲く花の幻のような美しい裳裾を照らす、不思議な女の強靱な心にめぐり会う運命にあったのだが、それは後の話である。)
とはいえ私は、渇きに喘ぐ人間のため息に応じるように、爛れた星や生臭い風が姿を現すような、そんな浜辺にずっと身を置くことには耐えられませんでした。
「この蒸し暑さの敵になるやら、味方になるやら、頼りになりそうもない稲妻が光らないうちに……」
と、塩で湿って硫黄のようになった、むっとする砂を踏みながら、よろよろと引き返しはじめたのです。ところが、その足が、なんとなく糸で操られるように、更衣室のほうへと引き寄せられます。
いや、嘘ではありません。
蟹が番をしていそうな、五燭の電灯がぶらさがる、潮煙にぼんやりとかすんだ、開けっぱなしの、その秘密の見世物小屋をそっと覗きかけて、ようやく身をかわすと、すたすたと逃げるように立ち去りました。そこには何もないことがわかっているはずなのに。……
渚へ入って来た場所から、小走りに海岸通りへと出ると、両側は西洋館です。道を挟んで高くそびえた石垣に、海月が砂を巻き上げながら追いかけてきたかのような、青白く燃え立つ波が一つ、見えたのです。まるで馬が前脚を掻き込むように、ドンとうねって、サッと打ち寄せてきた……と思って、ハッとしたそのとき……。
「ほほほ、ほほほ」
と、女のものらしい、艶めかしくもゾッとする声が、暗夜の浜に響いたと思ったのですが……それっきり波の音さえ聞こえませんでした。
私はあごひもで背中にぶら下げた麦わら帽子を、今にも背後の海から伸びてきた黒い腕が引き離すのではないかと首をちぢめて、先ほど渡ってきた橋へと急ぎました。そこにはもう、両側に人家があります。別荘の四角い灯も目に映ります。
墨を流したような汐入りの小川にも、もうにぎやかな光の援軍がやってきたかのようで、蘆の葉も光り、木の根も光り、川を洗う石垣も、流れる泡も光りをたたえています。
空に星が輝いているわけでもないのに。
私は手のひらで目をこすりました。知らないうちに浴びてしまった海水の飛沫が、目をチカチカとさせているのではないかと思ったからです。
すると、黒く濁った水のなかをきらめきながら、橋を支える杭のあたりを群がりながら潜っていく何かが見えました。壽の字を走り書きしたような波紋を流した水がはためくと、ひらりと乱れて串の字を崩しながら、川柳の根もとをサッと洗うと、上げ潮に乗って、逆波を立てる一つ一つが、川を泳いで噛みつこうとする毒蛇の牙や鱗のように沈んで輝くのです。
「なんだ小魚か。どうせ丸田魚だろう」
そう気づいた私は苦笑いしました。
「ほら、そうだった」
ちょっと離れたところで、一匹の魚がひらりと跳ね上がって、水を離れて光ったかと思うと、バチャンと消えました。続いて、ぬらぬらと水をうねらす影も見えます。
「ああ、鰻もいるのか」