三
三
「あの波打ちぎわをね……旦那の前で言うのもナンだが……」
百姓を兼ねた植木屋で、石屋も大工もやってのける治平というおやじが、縁側に出て煙草を吹かしながら、話してくれました。
「鷭の三郎ってのがそいつの名だが、三浦の大助の第一の子分といやあ聞こえがいいが、この土地のやくざ者でがす。博打なんぞにも手を出して、しみじみ鼻唄を唄いながら戸塚の遊廓通いをするような野郎だがね。普段は漁師をやっていて、そいつが網を打つ磯に海藻がなかろうと、波際には決まって鷭の鳥がたたずんでいて、それが渾名の元になった。
博打を打って、鼻唄まじりで、網を打つって言えば、でっぷり肥った逞しい男に思えそうだが、これがまたそうではねえ。青瓢箪のようにひょろりとした、痩せっぽっちで背の高いしなびた野郎で、小学校の教員様が未亡人に恋わずらいをしてるみたいな様子だでね。旦那の前で言うのもナンだが、ヘッヘッヘッ。木の枝みたいな鷭の脚にそっくりだ――やつの姿はよ。
その鷭三郎がだな、お前さま、昨日……いや、今日からすれば一昨日だね。その晩に限ってやつは、鵜の鳥が行水する姿だ。なぜかと言えば、湿気続きの土用波だで、膝まで波が打ちよせるもんだで、ばしゃりばしゃりと一本足で縄跳びする恰好で、暗闇の磯を狙って網を打つんだあね。腰にゃあ腹をピカピカさせたちっちゃな黒鯛が四、五匹入った魚籠をぶら下げて、真っ黒な網を尻尾みてえにおっ立ててね、旦那の前で言うのもナンだが。
そうすると、ひゃあ、すぐ目の先のあたりに、何か、ひゃあ、でっけえ魚の腹みてえなものが、ふにゃりと横になって、ふわふわと浮きつ沈みつしているだ。
やっ、波頭へ打ち上げたかと思うと、そいつの胴体がまるごと持ち上がって、ぶるぶると震える手足が見える。わっと見たとたんに、どっと波が砕けて、真っ青になって潮の広がるなかへ吐き出されたようになって、七転八倒して転がってるだ。そりゃ背中だ、腹だと思う間もねえ。じゃじゃっと波が引いて水の底へ引きこまれて、また沈もうとしているところを、鷭三郎は網も何も放り出して、引いていく波にしがみついて、その白いものを海からもぎ離した。そうして抱えこんだまま、じゃばじゃばと岸に逃げ上がって、ほっとなって砂浜へ両膝を支くと、その身投げしたのだか溺れたのだかの身体が転がり落ちたってわけだ。
目の前に、ふっくり、むっちりとした、ひゃあ、玉を洗ったような、なんとも言えねえ乳房があった。肩から胸、両脚と、すんなり伸びた女だね。その、水を滴らせた美しさ。
……宵闇のなかでそこまではわかったけんど、旦那の前で言うのもナンだが、布きれ一つ身につけていねえ。事故にせよ身投げにせよ、爪の先まで雪のような肌をさらけだすこともあるめえが。
魔物だってことは、最初から明白だでねえか。
それをだな、はい。鷭三郎の野郎、竹法螺を吹くなりして人を呼ぶまでもねえ、浜に人っ子一人いねえとしても、大声でわめいたら、近くの異人館のコックや馬丁も駆けつけて来るべいものを、なぜだかね、ひゃい。いつも恋わずらいしてるみてえな顔つきそのまんまで、慌てた目玉ばかりきょろつかせて、逆さに担いで水を吐かせるんならともかく、どこで見たんだか聞いたんだか、はい、病院の医者様の真似事をして、ふっくらした胴体にまたがった。新粉細工をのばす要領で親指の腹を当てて、折り鶴の羽へ呼吸を吹きこむ人工呼吸というやつさ、旦那の前で言うのもナンだが、ヘッヘッヘッ。
何、冗談どころではねえ。
そのうちに鷭三郎の野郎、ちっとは心が落ちついて、闇夜と潮煙にくらんだ眼球も少しは見えるようになってきた。――そんなに遠くでもねえ、すぐその浜の口の海水小屋の明かりが、うっすりぼうっと照らしてるだ、その明かりで見ると――へい」
そのときおやじは、鼻の下を横撫でして、息を呑んで声をひそめて、
「その真っ白な女が仰向けになった喉もとから脇の下へかけて、紅糸がにじんだように、赤い筋が細くべったりと流れているだ。若い叔母も別嬪の従姉妹もいねえ鷭三郎のこと、呼吸もしないものが鼻血を垂らすのかと、目をこらしてその女の顔を見つめると、どうでえ」
治平はポンと項を叩いて、
「首がなかっただ」
私は呆れて聞いていました。