十三
十三
草をかき分けながら、足もともたどたどしく、燈籠の灯りに青く、また白く照らされる、壮絶に美しい波が逆巻くような黒い草地の海を踏んでいると、私たちは二人きりで、深夜の沖海を進んでいるような気がしました。とはいえ肩先で触れあいながら、なよなよとしたしどけない姿を意識しつつ歩いていると、離れの寝屋に導かれて、月光の庭の桔梗、女郎花、築山をめぐるような胸のときめきも感じていたのです。
蛍が灯す松の木陰の窓か……。
と陶酔に身を任せる一方で、ここで化かされたら一直線にあの世へ墜落だと、内なる声が叫んでいます。
「裾をお捲りなさって、濡れますから」
「あなたこそ」
「わたしの脚は鉄のようですから」
と言った傍から、女は棒のように立ちすくみました。
「どうなさいました?」
「こんなときに、急に所帯じみたことを言うようですが、草の深いあたりに、蛇、蛇が、じつは……」
と、ことばが途絶える。
「ああ、蛇がお嫌いなんですか……大丈夫、私がいますから」
と、言いながら私の頭には、黒い提灯の正体は蛇の精だと言った蛙鳴の権次のことばが唐突に想い浮かんでいました。
はるか右手には、屏風をめぐらせたような山の陰から、立木を越えて守宮が寝屋を覗くように、
「くわっ、くわっ、くわっ、くわっ、くわっ、くわっ」
と蛙の声が、高らかに冴えて響いてきます。
「ああ、なるべく燈籠の灯りを覆い隠しなさい。これを目印にしてあなたにつきまとう者がおります」
「はっ、亭主ですか」
「えっ……?」
「肥った疣蛙のことでしょう」
澄ました様子で、そんなことを言う。灯籠の灯りに白い顔が照らされ、唇の紅はゾッとするほど紅いのです。
「あなた……」
と、呼びかけた私は、そこでことばを切りました。
「……なぜそんなことを言うんです。こんなときに、私にご主人のことを話すのは、何が何でもひどい」
「まあ、あなたは、わたしに連れだって、わたしの旦那に、新しい亭主になられるつもりなの? それはおよしなさいまし。世の中の亭主なんてものは、自分のほうから熱烈に求婚した恋女房でも、その女房が不幸にも人と接触できないような病気になると、面倒だけは見てやるぞと言わんばかりに牢屋のような片田舎の別荘に押しこめてしまうのです。そのまま波風立てずに一生を送れとでも言うんでしょうか!
適当な貸家をあてがって、わざと男を近づけさせて、人間の裸の姿の、情けない、浅ましい情欲を餌に道ならぬことをさせるように仕向けて、不倫、不品行の罠に落ちれば、それを言い訳に離婚をするつもりです。野にも、山にも、夫の家のほかには行くところのない、明日をも知れないような女を、青竹の筒にすがりつかせるようなことをしてでも追い出そうという計略をしているんです。そんなのが亭主なんですって。
そんな亭主なんてものにはならずに、愛人になりなさいませ。ほほほほほ」
花やかに笑いながらも、目尻を吊り上げていました。
と、彼女は草につまずいてよろめいたのですが、そのとき私は見ました。彼女が紅い鼻緒を結いつけた草履に、踊り子が身につけるような、白い三ッ留めの足袋を深く履いているのを。
私はこの、針に呪われた美しい毒蛇を憐れに思いました。
「危ない、お手を」
「いいえ、愛する人として、真実の恋人として思う方なら、お守りしなければなりません。わたしは悪いことをたくさんしました。罪を作りました。腐った女郎のすることです。爛れた鱗には毒があります。触ってはいけません。
これが、女が本当に愛するということです。
ああ、わたしが口をつけたこの煙草を、喫おうと言ってくださいました。わたしはとっても嬉しゅうございました」
と涙ぐんで身を起こすと振り向いて、
「お煙草は、わたしが、あなたの吸い口まで噛みました」
とにっこりと笑いました。その蕾のような唇が、薄闇に開こうとする表情を見て、私は我を忘れてうっとりとしました。
私は今、先ほどは田圃を隔てて、そこから向こうは魔界か仙境かと思っていた池の傍で、この女と、艶やかな恋人同士として立っているのです。
「あの松の木のところまで来ました。――けれどもこんなわたしですから、お借りしたお煙草は、もうお返しすることはできません。わざとお返しいたしません。
お帰りなさいますか――あなた、どうなさいますか? いえ、いえ、ああ、いけません」
「せめて胸と胸を合わせて、抱きしめさせてください!」
「いいえ、いいえ」
女はハッと片裾を引き上げると、身を翻しました。……幅の狭い、五尺ほどの流れが用水を池に注いでいて、彼女はその川面に覆いかかるようにすっくと立ちました。その向こうには松が叢がり生えていて、とりわけ高い樹の梢に、はっきりとあの蛍が光っています。
「毎晩、毎晩、あの蛍といっしょに、わたしは夜を明かしてここにいます。己の魂のもとに帰る夢路をたどるような、空っぽのこの身体は、宙に浮いているのとおんなじで、小さなこの川などは、あるとも気づかずに渡っていました。けれども……わたしの病気にお気づきになっても、慌てて逃げ出しもしないで抱きしめようと言ってくださいましたあなたの前では、こんな姿をお目にかけることになっても、着物を乱すことが恥ずかしくって、裾を広げて川を渡れません。……
不憫だと思ってくださいまし。……女とはそういうものなんですから!……」
そう言うと、引き絞った矢を取り落としたように、フッと消えたかのようにかがみこみ、裳裾を地につけ、白い手を下草に置いて身を支え、蛍の数ほど涙を散らしました。蝋燭の灯も蒼ざめて感じられます。
私は拳を握って足摺をしました。気休めのことばなどをかけても、彼女はそれを受け入れるような境遇にはないのです。
「夜が明けまして、ご縁があったら、またお目にかかりましょう。……私は中洲の松のところへ参ります。魂に帰ります。あなたのような優しい方がいらっしゃると、この小川を飛び越せませんから」
さあ、と私の帰る路を照らすように、手に取って低くかざした燈籠は、彼女と私の境界を示す黒い波のように、かすかに輝きました。
不思議なことに、私が後ずさるに従って、その灯りは朦朧として次第に高くなり……松を伝って蛍の近くに上っていくように見えました。まるで怪火であるかのように。
眠れぬ夜を過ごして、空が明らんで明けの明星が消えるとともに、再び私は、中洲の松を訪れました。
そこで見たのです!
彼女は高い松の幹に膝をもたせかけるように身体を斜めにして、薄い着物の裾も乱さず、内着の浅葱縮緬も秋の水のように静まりかえり、松葉の数より豊かに思える黒髪をそよそよと風にそよがせ、小枝の股に爪先を反らして乗せ、太い枝に頬杖をついて、この世を呪う両眼を閉じていました。鬢のほつれをなびかせた面は梢よりも高らかに掲げられ、瞼は葉よりも青く思われました。そして足もとの土には、五、六尺ほどの大きく太い青い蛇が、鎌首をピンともたげて、女の爪先をぺろぺろと舐めていたのです。
ふと見ると、中洲に茂った濡れ色の蘆の根方から、二列、三列の隊列を作って、紅の鋏をいっせいに揚げたたくさんの蟹が、朝靄に虹がにじむように、サッと音を立ててひしひしと進んできています。蛇が、女の足を舐めていた舌をくるりと返して、鎌首を宙にねじり、蟹たちを睨みつけると、蟹はずずっと後ずさりをします。蟹が下がると、また足を舐める。そんな一進一退を繰り返しています。
もっとも、そこにたどり着くまでの間、畦道を踏むと、大粒の雨が降りそそぐように何百ともしれない蛙が、群生する蝗よりも数多いほど、飛んで逃げては騒いだことに、私はすでに大いに驚かされていたのでした。
松に近い水のなかに尻を沈めて、腸のように洟を長く垂らしながら、腹をむきだしにして、しゃがんだ大蝦蟇のようなかたちで死んでいたのは、蛙鳴の権次郎でした。この男が両腕に抱えこんでいたのは、首のない全裸の女体です。それは精巧に縫われた、まるで滑らかな鋳物のような、また美しく細工された蝋で作られたようなゴム製の肌着で、いつも彼女が身を鎧っていたものでした。足にはつま先も作られていましたが、癩病に爛れた女の足に、指はなかったのです。三ッ留めの足袋は、それを隠したものでした。また、ゴムの肌着の身を合わせる部分には、紅いかがり糸が縫いつけられていました。
村じゅうの人が駆けつけたとき、彼らがその松の木に近づこうとして、蛇に驚いて退いた様子は、まるで灰色の蟹のようでした。――でも、誰も女が死んでいるとは思っていません。あれあれ、若奥さまが松にもたれてうたた寝をしているよ、と言っていました。
(坂東三十三観音札所第二番、三浦郡久能谷、岩殿寺観世音、四万六千日の縁日の夜、筆者は聞き書きにてこれを記す。)
(了)




