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泉鏡花『懸香』 現代語リライト  作者: らいどん


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 (やま)(すそ)から(たん)()を隔てて、例の用水の池があるあたりまで戻ったときです。そのときの姿ほど綺麗な色と、ゾッとするまでの美しさを見たことはありませんでした。

 とはいえ、そのとき目にしたのは、着物の(すそ)だけでした。その裾は、薄い灯りに照らされて、濡れ色の草の緑に淡い浅葱色をはらはらと重ねながら、雪のような(すそ)(さき)をちらつかせているのでした。

 ああ、私はついに見たのです。

 それは「黒い提灯(ちょうちん)」ではなく、濃い紫の(とう)(ろう)とでも言うべきものでした。ふっくらとした菱形に組まれて、上のほうは濃紺の()()(がみ)で包んだように暗い色ですが、底のほうはやや明るい色で、大きな()(きょう)の花の(つぼみ)のようです。私が遠くから見て、小船の(ふなばた)を思い浮かべた灯りは、まさにこれだったのです。

 この燈籠の光は、暗くかすかなために、蛍の青い光を打ち消しません。その灯りの持ち主がまとう薄い着物は(そで)()れに(あし)の葉をなびかせ、(すすき)の葉になびく裾先は、草の緑を映し、露を散らし、また蛍の青い光に照らされています。

 葉ごとの露に濡れてしっとりとした(すそ)を白い(すね)にからませながら、小道を進むにしたがって、片手で数えるほどの蛍が、薄へ、蘆へ、スッと光りながら散っていきます。散った先では下にも落ちず、高くも飛ばす、白露がこぼれるように水ぎわで戯れています。ひらひらとたなびく裾は、蘆の水辺に寄せる渚の波のようです。

 低く足もとを照らす燈籠が影と光をあやつるさまを見ていると、まるで海そのものが小さく丸められて、手に提げられているかのよう。

 そう感じた私は、一種の(れい)()に打たれて、かぶっていた麦藁帽を脇に挟むと、敬意を表さずにはいられませんでした。

 その燈籠は(みな)()に映って、光で蘆を打ちながら、草の小道を進みます。いったん近くまで迫ったとき、池の(おもて)がサッと照らされ、輪型の波紋を周囲に浮かべた(くい)が見えました。すると松の木が茂ったなかに、照らされた()(すそ)ごと、灯りがフッと消えてしまったのです。


 遠くに聞こえる蛙の声。

 燈籠を持つ人が引いていく余波のように、山裾を一つ、二つ、三つ、四つ、不思議なことに一尺ほどの等間隔で、ふらふらと街道のほうへ蛍が飛んでいきます。――行列をなして、青い光を点しながら、ふわりふわりと漂うのです。

 私は風もないのにふらふらと揺れる()()()のようになって、先ほどは(いろ)(ざと)のことを思い浮かべた(かざ)(はや)(ばし)の上に急いで戻りました。

 そこから眺めても、四匹が連なった山裾の蛍は、まだその列を崩さないばかりか、逆に大きく光って見えるようでした。

「姫様のお()()の行列か。――いや、吉原通いの提灯か――あるいは人形の人魂――」

 そんなことを思ったとたん、その行列の先頭にいた一匹が(やま)()を越えると、(なか)(ぞら)に弧を描いてスッと飛んで、ふわりと私の頭の上にやって来たのです。

 (まゆ)に星がくっついたような気がして頭を振って、足をもたつかせながら仰向いているうちに、その蛍は、麦わら帽子の編み目にしっとり濡れた(はく)を置くように、つばの裏にひらりと留まりました。

 私は帽子を持ち直して、蛍をじっと見つめました。

 この小さな(くさ)()の遊女たちは、青い()()しをひらひらと、あちらこちらに姿を見せていましたが、そのなかの一匹がスイスイと優しく飛んで来て、麦わら帽子のつばにスッと留まったというわけです。蛍は四、五寸ほど、するりと()っていましたが、そのうちに別の蛍のもとに飛んでいって、もつれて一つになって、まっすぐに昇って行きました。一呼吸ののち、どの蛍もハッと光を消して、周囲には一面に水の匂いが充ちたのです。

 ぶくぶくと空気を(よど)ませるような潮風が吹いてきて、遥か遠くの松風が、かすかにサッと鳴っています。池のあたりの(こずえ)が一揺れ、揺れたかと思うと、くしゃくしゃと黒髪を解いたような枝の高いところを透かして、あたかも葉の向こうに明星がちらつくように輝く光を掲げたのは、一匹のその蛍でした。

「あそこへ行ったのか、誘い合って」

 うっかり落とした麦わら帽子が、足もとに転がっていることに気づいた私は、視線を地面に向けてうつむきました。――

「誘いに来たんですわね」

 氷で背筋を()でるかのような、沈んだ、しかし涼しげな声がしました。

 それを聞いた私は、汗も魂も、いっせいに引っ込んでしまったのです。

 見上げた先には、身を預けるにはおあつらえ向きの低い(らん)(かん)に、足先を揃えたほっそりした腰つきで腰かけた姿があって、足もとの橋板の上には、あの「黒い提灯」が置かれていました。


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