十
十
山裾から田圃を隔てて、例の用水の池があるあたりまで戻ったときです。そのときの姿ほど綺麗な色と、ゾッとするまでの美しさを見たことはありませんでした。
とはいえ、そのとき目にしたのは、着物の裾だけでした。その裾は、薄い灯りに照らされて、濡れ色の草の緑に淡い浅葱色をはらはらと重ねながら、雪のような裾先をちらつかせているのでした。
ああ、私はついに見たのです。
それは「黒い提灯」ではなく、濃い紫の燈籠とでも言うべきものでした。ふっくらとした菱形に組まれて、上のほうは濃紺の土佐紙で包んだように暗い色ですが、底のほうはやや明るい色で、大きな桔梗の花の蕾のようです。私が遠くから見て、小船の舷を思い浮かべた灯りは、まさにこれだったのです。
この燈籠の光は、暗くかすかなために、蛍の青い光を打ち消しません。その灯りの持ち主がまとう薄い着物は袖摺れに蘆の葉をなびかせ、薄の葉になびく裾先は、草の緑を映し、露を散らし、また蛍の青い光に照らされています。
葉ごとの露に濡れてしっとりとした裾を白い臑にからませながら、小道を進むにしたがって、片手で数えるほどの蛍が、薄へ、蘆へ、スッと光りながら散っていきます。散った先では下にも落ちず、高くも飛ばす、白露がこぼれるように水ぎわで戯れています。ひらひらとたなびく裾は、蘆の水辺に寄せる渚の波のようです。
低く足もとを照らす燈籠が影と光をあやつるさまを見ていると、まるで海そのものが小さく丸められて、手に提げられているかのよう。
そう感じた私は、一種の霊威に打たれて、かぶっていた麦藁帽を脇に挟むと、敬意を表さずにはいられませんでした。
その燈籠は水面に映って、光で蘆を打ちながら、草の小道を進みます。いったん近くまで迫ったとき、池の面がサッと照らされ、輪型の波紋を周囲に浮かべた杭が見えました。すると松の木が茂ったなかに、照らされた裳裾ごと、灯りがフッと消えてしまったのです。
遠くに聞こえる蛙の声。
燈籠を持つ人が引いていく余波のように、山裾を一つ、二つ、三つ、四つ、不思議なことに一尺ほどの等間隔で、ふらふらと街道のほうへ蛍が飛んでいきます。――行列をなして、青い光を点しながら、ふわりふわりと漂うのです。
私は風もないのにふらふらと揺れる案山子のようになって、先ほどは遊里のことを思い浮かべた風早橋の上に急いで戻りました。
そこから眺めても、四匹が連なった山裾の蛍は、まだその列を崩さないばかりか、逆に大きく光って見えるようでした。
「姫様のお駕籠の行列か。――いや、吉原通いの提灯か――あるいは人形の人魂――」
そんなことを思ったとたん、その行列の先頭にいた一匹が山の端を越えると、中空に弧を描いてスッと飛んで、ふわりと私の頭の上にやって来たのです。
眉に星がくっついたような気がして頭を振って、足をもたつかせながら仰向いているうちに、その蛍は、麦わら帽子の編み目にしっとり濡れた箔を置くように、つばの裏にひらりと留まりました。
私は帽子を持ち直して、蛍をじっと見つめました。
この小さな草の家の遊女たちは、青い蹴出しをひらひらと、あちらこちらに姿を見せていましたが、そのなかの一匹がスイスイと優しく飛んで来て、麦わら帽子のつばにスッと留まったというわけです。蛍は四、五寸ほど、するりと這っていましたが、そのうちに別の蛍のもとに飛んでいって、もつれて一つになって、まっすぐに昇って行きました。一呼吸ののち、どの蛍もハッと光を消して、周囲には一面に水の匂いが充ちたのです。
ぶくぶくと空気を淀ませるような潮風が吹いてきて、遥か遠くの松風が、かすかにサッと鳴っています。池のあたりの梢が一揺れ、揺れたかと思うと、くしゃくしゃと黒髪を解いたような枝の高いところを透かして、あたかも葉の向こうに明星がちらつくように輝く光を掲げたのは、一匹のその蛍でした。
「あそこへ行ったのか、誘い合って」
うっかり落とした麦わら帽子が、足もとに転がっていることに気づいた私は、視線を地面に向けてうつむきました。――
「誘いに来たんですわね」
氷で背筋を撫でるかのような、沈んだ、しかし涼しげな声がしました。
それを聞いた私は、汗も魂も、いっせいに引っ込んでしまったのです。
見上げた先には、身を預けるにはおあつらえ向きの低い欄干に、足先を揃えたほっそりした腰つきで腰かけた姿があって、足もとの橋板の上には、あの「黒い提灯」が置かれていました。




