夜明けの明星②
恐る恐る自室のドアを開けて廊下へと出た。
寒くもなく暑くもなく、案外普通の寝台列車って感じがした。今さっき見た胡乃葉の真っ黒い服装と、自分の服装を見て思ったのは、一見案外普通には見えるものの、この少し埃っぽくお世辞にも長く暮らすのではあれば快適とは言えなさそうなこの列車内は、季節としては春辺りを過ごしている、という事だ。
廊下は自分のような細身の人間同士でなければ横を通り抜けることができない程に狭く、腰ほどの高さから天井付近までの大きな窓の上部は申し訳程度にだけ空いている。そこから入り込む微風がもたらす居心地の良さなどたかがしれていた。
自分はこんな服を好む人間なのだろうか……? そのような感触を覚えると、途端に居心地の良さが自分の元に訪れた。黒いズボンに灰色のTシャツというラフな格好にパーカーが申し訳程度に添えてあるだけの服装、確かに……嫌いじゃない。恐らく季節は春だろうから、おかしい格好なわけでもない。
でもどうしてだろう? 押しつけられたものを仕方なく着ているようなこの感覚は、自分を酷い気持ち悪さに引き込んだ。なんせ記憶がないのだ。この服装は自分が〝この場所〟に来る前にもしかしたら自分で選んだものかもしれないけれど、もしそうだとしてもこの服装は今の自分にとってはびしょ濡れの服を纏っているように気持ちが悪い。
まぁいい、とりあえず十号車に行ってみることにしよう。自分は部屋を出てから右手側、十号車へと向かった。ここで生活をしていくにあたって嬉しい事に一つ気がついた(別にここで生活をしていく事に納得しているわけではないが)。それはこの列車内は結構スピードを出しているのにも関わらず揺れが少ない、というか殆ど体感できないことだ。
十号車への扉をゆっくりと開けると、十号車は胡乃葉の言っていた通り食堂車だった。けれど時間外なのか、食堂車には人ひとり存在していなかった。食堂車は別に至って普通の食堂車で、車窓風景が楽しめる食堂車、真ん中が通路になっていて左右両方に四人掛けのテーブルが存在する食堂車、うん、誰もが想像する普通の食堂車だ。
自分はふと奥に、位置としては隣の号車へと続く扉の手前にある、あれは……なんだろうか。自分はそれに近づいてよく見てみると、それは食堂車の二階へと続く階段だった。どの階段は、一目見ただけでそのボロさと脆さがハッキリと分かった。階段が食堂車の二階部分へと繋がっているのは分かるが、その奥は何も見えなかった。存在しないものを存在しないと証明する事が難しいように、自分の目にはハッキリと奥が見えなかった。暗くて見えないような感じもするが、ただそれだけではな〝何か〟を、自分は感じ取った。自分はその階段に右足を掛けると、左足がそれに連なって着いてくるのに時間は多少も要さなかった。
一段一段上がる度に脆く朽ち果てる寸前の階段は金切り声を上げた。
「温かい」
階段を一番上まで上ると、頭に何かが当たった。それは少し分厚い黒い布だった。
それを手でどけて布が隠してた奥の空間に入った。自分は一瞬、こんなところ入ってもいいのだろうかという疑問を感じた。だが好奇心には勝てなかった。自分の目には真っ暗闇の空間が飛び込んできた。真っ暗闇の空間の中に微かに感じ取ることのできる生の火の香り。
「ここにいる人間は強い光りが嫌いなのだよ。その布を元に戻してくれるかな?」
突然の言葉に自分の心臓は高鳴り、変な声が漏れそうになった。
「は、はい」
独り言でもないような小さな声でそう返すと、言われた通りに布を戻して階段を隠した。この布は食堂車から光りが入り込まないようにするための布のようだった。
自分は埃っぽい真っ暗闇の空間に、息苦しさではないけれど喉に違和感を感じて咳き込んだ。
ここ埃っぽ過ぎだろ……。長らく相手をしていなかった過去の愛憎を相手にしてしまったみたいな、できることならば開けない方が良かったのではないかとさえ思うパンドラの箱のような密室は、人間の原始的な感情で溢れているように感じた。咳が止まらない……なんなんだよこの場所……。
「見ない顔だね。新入りかい?」
目が暗闇に慣れると声の主の姿をハッキリと捉えることができた、その出で立ちからここがBARである事が分かった。そして、声をかけてきたのはBARのマスターのようだった。
新入り? 自分はその言葉に疑問を覚え立ち止まっていると、マスターから目の前のカウンター席に座るようにと案内された。更に目が慣れると、最初は暗闇で気がつかなかったが、思っていた以上に大勢の人間が思い思いに酒を飲んでいる事に気がついた。ここは、様々な人種が入り混じっているBARのようだった。カウンター席に案内された自分は、マスターの顔を近くで見てみると、彼は白人だった。マスターは日本語を喋ったのか? それとも自分の耳が英語を自動で翻訳できるようになったのか?
「よく来てくれました。こんな近くで見るとやっぱりお兄さん新入りさんじゃないか。その顔だと……何か凄く訊きたい事があるようだ。疑問も沢山ある。そうだろ? でも安心しなさい、みんなそうだから。でもじきに人間はそれを忘れ、目の前の現実に忙殺されてしまう事になる。そう、それはまるで人生と一緒だ。生まれたときに備わっていた疑問やそれを紐解く直感などは、目の前のつまらない現実に終始していくあまりに消え失せてしまう。そう、それはまるで人生と一緒だ」
いきなり何を喋りだすのかと思えば、自分が抱えている疑問いっぱいの心情は〝みんなそうだ〟と言い、それはまるで人生と同じだ、と言い放った。マスターはあまり意味が分かるような分からないようなことを、グラスを拭きながら一方的に喋ってきた。
自分は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「まぁそう怖がることはない。お兄さんが気になっているのはこういうことだろう? ――何で自分がこんな訳も分からない列車の中で目を醒ましたのか、意味が分からないから教えてくれ、と。そういうことだろう? ならば安心しなさい、今の君は過度に興奮している。興奮状態で会話を続けたって互いにとって良いことは何もない。お兄さん二十代前半だね?」
分かってるなら最初からそう言えよ!
「は、はい。恐らくですけど……二十二歳だと思います……。でも確証はありません、なんせほとんど全ての事を忘れてしまっているので」
「なあに、安心しなさい。それについてもお兄さんが落ち着いたらちゃんと説明してあげるから」
言っていることは正しいし頼もしいのに、その喋り方か、それともBARのマスターらしい端正でロイヤルな服装とのギャップに戸惑っているのか分からないが、自分は目の前の男の事を疑っていた。何を? 全てをだ。この列車がどこに向かっているのか胡乃葉に訊いたとき、胡乃葉は〝さぁ……どこだろう? そんな事、考えもしなかった。これからも考える事は無いと思う〟と答えた。その質問をこの男に投げかけてみたら一体どういう返答が返ってくるのだろうか。
なんとなくだけは想像はつく。恐らく〝みんな普通はそのようなことは考えないよ〟だろう。そして、彼がことあるごとに言う〝みんな〟というのは、恐らく自分みたいな人間を除いた胡乃葉達の事を指すのだろう。胡乃葉はこの列車がどこに向かうのか考えた事もなかったが、この男は確実に知っている。この列車がどこに向かっているのかだけではなく、何故自分がこの列車内で目を覚ましたのかという事も。ただの直感に過ぎないけど自分はそう思った。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
そんな事を考えているうちに、マスターは自分の為に一杯作ってくれていたようだった。目の前に出された赤い飲み物、匂いとしてはカクテルだろうか。アルコールが混じっているのが匂いで分かる。
「落ち着きなさい」
落ち着けと言いながら普通アルコール出すか……? 出さないだろ。
目の前に男へ対する疑念が更に高まった。
目の前の男は、何人も自分のような〝疑問を感じている事を自覚している人間〟を見てきたのだろうか。これは本当にただの憶測に過ぎないが、多分恐らくこの列車内で生活をしている人間の大半はこの列車内で目醒めても疑問など抱かない。それが当たり前のこととして、この列車内で生きているはずだ。でも、自分は違う。この列車内はどこか非現実的な感じがする。まるで、超リアルな夢でも見ているような……そんな心の浮遊感がある。
自分は疑念を抱きながらも、一応出されたカクテルのような赤い飲み物を飲んだ。味はまぁなんとも言えない妙な味だ。
「あの……一つ訊いてもいいですか?」
「落ち着いたらならどうぞ」
「マスターが言っていた〝新入り〟という言葉の意味を教えてください」
「……そのままの意味だよ。〝補充〟された来たんだろう? お兄さんもここに。少なくとも私はそういう呼び方をしている。他の人間はそのような呼び方というか表現そのものに、理解ができないらしい。私の名前はノイジー・パーキンソン、見ての通りイギリス人だ。お兄さんがアジア系だというのは分かるのだが、アジアのどこ出身なんだい?」
「日本です。日本人がここに来るのは珍しいですか?」
日本、という言葉、無意識的に勝手に口から溢れたが、日本という言葉が示す場所が自分には分からなかった。
「ああ凄く珍しい。アジア人自体がこの場所に補充されることも珍しいが、その中でも日本人がここに補充されることなんて私の人生の中で三度目だ。それも、胡乃葉と同じ部屋になったそうじゃないか。アジア系の人間以外は数も多いから同じ部屋になるだなんてよくあるが、極めて珍しい日本人がまさか同じ部屋に……。良かったじゃないか、同じ日本人同士同じ部屋に補充されることになって」
「そのことなんですけど……」
「質問に対する答えになっていないかい?」
「はい。その言葉の〝真の意味〟について、知りたいんです」
誤魔化そうとして失敗したのだろう。歯切れの悪い表情が窺えた。流れ作業でカクテルを作るその手も止まり、時間としては恐らく二十秒ほど会話が止まった後、マスターは話し始めた。
「それを今ここで話しても無駄だ。そんな表情をするんじゃない、今私が言ったことは嘘じゃない。今の君には理解出来ないんだ。今の君に理解出来るかは分からないが、脳にロックのようなものが掛かっているからね。勿論それは別に物理的に脳をいじくられたわけじゃない。記憶の忘却の後遺症みたいなものさ。私はそれを〝レビウス〟と呼んでいる。記憶の忘却されたその後遺症として、君みたいな〝特異性〟を持っている人間でも、しばらくはその特異性をフルには活かし切れはしないだろう。記憶が無い理由は、その記憶の忘却のせいでもある。記憶の忘却の後遺症があろうと、勿論微々たる範囲であれば、今の君でも理解できるでしょうが。それならば試してみますか? 世界を瓦解させる数々の言葉によって意識が朦朧としていくのを」
自分はこの時、はい、と言ったのだろう。
それから確かにマスターが様々な〝世界を瓦解させる言葉〟を言ったような気がしたが、その話が進むと共に自分の意識は混濁の渦に巻き込まれ、意識が朦朧としていった。実体が消え失せていく感覚はまるで他人に自分自身の主体性の主導権を手放すような感覚だった。操縦桿を他人に握られ、右に左に揺られいつしか気がつけば自分が自分じゃないみたいな感覚に陥った。操縦桿を自分から奪った〝誰か〟から、髪の毛を引っ張られる感覚を覚えた。
そして自分は、ひとつのイメージを受け取った。
そのイメージは、雪よりも白い取調室の中で、恐らく容疑者と思わしき女が、何者か幽霊のような見えない存在によって髪の毛を引っ張られ、それを見ていた恐らく取り調べでもしていたのだろう男達からしたら、容疑者と思わしき女は自分で自分の頭を机に叩き付けていているようにしか見えなかった。
ふと、朦朧とする意識の中で、自分はある一言の呟きを受け取った。
〝やっと見つけた〟