夜明けの明星
「やっと目が醒めた? 新入りさん」
暗く深い真っ暗闇の深海に落ちていたような感覚から目醒めた自分は、そんな女の声に急激なスピードで意識が浅瀬へと引き戻された。
引き戻されたと言っても自分が深海に沈んだであろうポイントにではなく、それは明らかに〝遭難〟と呼べそうな遠い遠い場所に来てしまったような、そんな感覚を覚える。だけど女の声が自分の意識を浅瀬へと引き戻してくれた。
自分は目を醒ますと、さっきまで深海も深海、海底に落ちていたはずなのに身体が火照る様に熱かった。それはまるで、一度死んだ人間が蘇ったとしたらこんな感じなのだろうなと思える程だった。
自分はぼんやりとする頭で感じる現実の中で、身を起こしてみた。
「痛てっ」
頭を天井にぶつけた。よくよく見てみると、自分は二段ベットの二階で眠っていたようだった。だがそれはただの二段ベットの二階ではなかった。寝台列車の二段ベットの二階で眠っていたようだった。何が何だか分からなかった。理解ができないという類いのものではない。自分からしたら理解をする必要そのものを疑ってしまうような、非現実的な現実が目の前に広がっていた。記憶がなかった。何があってここでさっきまで眠っていて。何があってここで目醒め、何があって今こうして自分の事をジロジロとまじまじと見てくる女に醜態を晒さなければならないのか……何から何までさっぱりだった。
「みんないつもそうしてしまうの。私だってそう」
なんでそんなに冷静でいられるんだ?
全身黒色で固めたその服装がお似合いだと思えるほどに固い口調でそう言った女は、自分にそう言ってくると自身の二段ベットへと戻っていった。戻ったと言っても、感覚を研ぎ澄まさなくとも匂いが伝わってくるほどの近さだ。女は二階部分ではなく二段ベットの一階部分で寝ているようだった。自分の二段ベットに腰掛けた女は、何が何だか混乱をしている自分の顔を見つめながら言ってきた。「みんなそうなる」と。
自分は大きく呼吸をした。すると、逆にやけに気持ちの悪い冷静さがやってきた。自分は改めて、落ち着いて周囲を確認してみた。やけに音は静かだけど窓を覗くとそこには車窓風景が流れていて、時々感じる揺れも〝寝台列車〟そのものだ。部屋は狭くもなく広くもなく……いや、人間二人が生活するには明らかに狭すぎるな。互いの二段ベットの間には折りたたみ可能で壁に収納されるタイプのある程度の大きさのテーブルが存在している。
自分が寝台列車内で目を醒ましたのは疑いようが残されていなかった。だが自分は不思議に思った。一体この列車はどこから出発したのだろう? と。そして、この列車はどこに向かっているのだろう? と。二段ベットに落下防止の柵なんてないから、自分はベッドの縁に腰を掛けて女に向かって言った。
「この列車はどこに向かっているんです?」
「さぁ……どこだろう? そんな事、考えもしなかった。これからも考える事は無いと思う」
意味が分からなかった。どこに向かっているのか分からないのではなく、どこに向かっているか考えた事がない? だと? ……言っている意味が分からなかった。自分よりも年上に見える女は、驚いているであろう自分の表情を、きょとんとした表情で見つめていた。自分が変になってしまったのか、それとも自分の思っている通りにこの女の頭が可笑しいのか、今は分からなかった。自分は考える事に疲れてしまって、とりあえず女の小さな声を聞き漏らさぬよう、二段ベットの一階のベットを使うことにした。女がそうしてるように、二階部分は物置にでも使うとしよう。二段ベットの一階部分に移動した自分は女に訊いた。
「改めて訊きますけど……ここは、本当にどこなんですか?」
「どこって……ここは見ての通り列車の中。あなた何も憶えていないの?」
「何も憶えていないですけど……あなたは?」
「何かを憶えているも何も……気がついたらここで生活してたし、何かを忘れていたりするんじゃなくて私はここで生まれたと思っているけど。例えるなら、子供が大きくなって物心がついて、両親が本当に自分と血が繋がっている両親なのかとふとした瞬間に疑問を浮かべるのと同じよ。つまり、考えたところで本当のことは分からないってこと」
いいやそれとはちょっと違うと思うが……。
「それはそうとして、あなた名前は? もしかしてそれも分からない?」
「いいや……それは分かります……。キビト、キビトです。今パッと浮かんできたのがそれでした。多分……本名だと思う」
「変ね、日本人なのにキビトって」
「でも、多分本名だと思う。その響きに何故か安心する」
「そう、ところで年齢は?」
「多分二十二歳……あなたとも年齢が近いと思うし、でもその年齢だって本当にそうかは分からない」
自分は、名前と性別と年齢以外は、自分のことが全く分からなかった。憶えていないのだ。でもそれは消え失せてしまったわけではなく、ただ〝忘れてしまった〟ものだと思う。そのような感覚を胸に感じるし、ある種そのような忘れているという事実が自分の心にぽっかりと穴を空けている。大事なものなら失わないはずなのに……なのに、忘れてしまっている。自分がどこから来て、どこへ向かうべき人間なのかも――。
「ところで、あなたは?」
「私は胡乃葉、それ以上でも以下でもない。でも不思議ね、あなた殆ど何も憶えていないじゃない。でも大丈夫、私はあなたより長くここにいるの。何か分からない事があったら言ってちょうだい」
「ありがとう。ねぇ胡乃葉さん」
「呼び捨てでいいよ」
「分かった。ありがとう。あのさ、この列車は何号車あるの?」
「二十号車あるよ。そしてここは十一号車。十号車から八号車までは色々な施設が入っている。シャワールームだとかBARだとか食堂だとかね。ここに長く住んでいる人は多いけど、あまり他人と関わりすぎるのはやめておいた方がいいよ。あまり愛想のいい人達じゃないから」
「そっか、ありがと」
胡乃葉が自分より年齢が上である事もあるだろうが(恐らく二十代後半だろう)、幼少期から育ってきたかは分からないが少なくとも本人の中では〝長く〟ここで生きてきたという人間の言葉には凄く説得力があった。そして自分はこの後見ることになる様々な各車両の現状を見て改めて思うのだ――これから自分はここで生きていかなくちゃならないんだ、と。