スピーゲル
*****
夜の街、肩同士がぶつかったらしい。どちらかが一歩以上外に出ればそうはならないわけだから、私の相棒は馬鹿だと言える。見たところ、相手はまだまだ子どもだ。相棒よ、ここは引いてやるべきだぞ? なにせ相手はこの国の行く末を担うことになるかもしれないガキなんだから。だけど、「おい、オッサン、謝れよ」とか言われたら、向こうさんがいくらガキと言えども相棒は腹を立てるだろう。お連れの一人が「謝ってその女、置いていけよ、すげーパイオツ、挟めよ挟んでくれよ、ふへへへへ」とか言われたところで、私は自分自身でいくらでもなんとでもするんだぞ? それがわからんわけはないよね、んんん?
相棒、大人になった。無視するだけの度量が備わった。けれど、ダメだよ、ガキんちょよ、後ろから肩なんて掴んだ日には……ほら。
相棒は右肩に手をかけられたものだからその手を振り払おうとしたにすぎないのだろうけれど、運悪くガキんちょは右の裏拳をもろに食らう格好になってしまった。ガキんちょは信じられないくらいパワフルにぶっ飛んだ。この場合、暴行罪が成立してしまうのではないのか。否、ガキんちょが肩を掴んだ時点でそうなるか。すっかりのびてしまったガキんちょの容態を見極めるべくそばにしゃがむ。おつきの一人はすでに泣きべそをかいている。こんなことで簡単に心が折れるようなら喧嘩を売る相手は吟味しろと言いたい。
*****
裏路地。ジッポライターの大きな火。相棒と私はそれに顔を寄せ、煙草の先端に熱を灯した。22時。普段ならもういい加減帰ってセックスをしまくっている時間だ。だから「私のこと、嫌いになった?」と率直に訊いた。「私の身体、嫌になった?」と続け、「どうでもいいから私のこと、あんたがもっと気持ちよくしてみせなよ」と上から目線で畳みかけた。そしたら相棒は至極つまらなそうに「ちげーよ」と言い、煙草を指で叩いて灰を落とし。私もそれに倣ってから、「だったらなに?」と問いかけた。
「劇場前広場で待ち合わせだ」
「そうなの? 誰と?」
「おまえ、もう帰れよ」
「やだ」
「なんでだよ」
「相手、女でしょ?」
相棒は目線を上にやり、難しい顔をした――煙を盛大に吐き出し、煙草をぷっと吹いて捨てた。吸い殻は右足で踏みにじり、そしたらどこかで猫が雄叫びをあげるようにして鳴いた。ポイ捨てはよくないと喚起したのかもしれない。だとしたら敬うべき猫ちゃんだ。
「うるせー猫だ。んなこたどうだっていいんだけど」相棒は面倒そうに前髪を掻き上げた。「にしても、女って生き物はどうしたって面倒だ。だったらおまえ一人でいい」
おぉ、たまには気の利いたことを言うではないか。そう思い、私は少なからず感動し、相棒に抱きついた。いますぐここでバックから突っ込んで――などと提案した次第だけれど、断られた。「つーかおまえ、そんな軽々しいキャラだったか?」、「あんたが相手だからこうなっちゃったんだよ」、「残念だ」、「どうして?」、「クールな先輩でいてほしかったからだよ」、「基本、クールじゃない」、「ま、そりゃそうなんだけど」、「だったら文句言うな」、「はいはい」。
いいよ、ついてこい。
結局、そういう話になって、劇場前広場に赴いた。目当ての女性らしい人物はナンパされていた。相棒は苦虫を噛み潰したような顔をして、「だから、目立たねーとこで会おうっつったんだよ」と言った。「助けないの?」と訊ねると、相棒は無言でのっしのっしと現場に向かった。酔客であろう若者三人の頭を順繰りに引っぱたき退散させた。すると助けられた女――すなわち待ち合わせの相手であろう女は相棒の太い首に両腕を巻きつけ、こっちにも聞こえてくるくらいの大きな声で「カッコいい!」と言った。それくらいで嫉妬を覚えるような私ではないのだけれど、ただ、「いったい、誰?」くらいには思った。
*****
ああ、今日は金曜日だったなと思い出す。この界隈にチェーン店の居酒屋はなく、だからちょいとばかり値の張る店に入った、入らざるを得なかった。四人席。私は相棒と並んで座り、テーブルを挟んだ向こうには女の姿――女のコと称したほうが差支えがないかもしれない。とにかく幼く映るのだ。だけど、もう23だと言う。大学を卒業して職に就き、だいぶん慣れてきた段らしい。芋焼酎のお湯割りを飲んで刺身をつまみ、ころころと笑う姿にはずいぶんと好感が持てる。女のコは真由と名乗った。だから私も名乗っておいた。「すごくお綺麗ですね」と褒められた。「まあね」と肩をすくめてみせると、「否定なさらないんですね」ともっと感心された。やっぱり悪いコではなさそうだ。むしろよく出来の娘っ子だと言える。
いきなり真由ちゃんが「おにいちゃん!」と言った、大きな声で、我が相棒のことをそう指した。
「真由、だからなぁ、俺はおまえのにいちゃんじゃあ――」
「やだっ! おにいちゃんはおにいちゃんだもんっ!」
「声がでけーよ。つーか言ったろ? 俺は女のデカい声が嫌いだって」
「わたしはただの女じゃないもん。おにいちゃんの女なんだもん」
「だからな、おまえ、俺はそういうんじゃ――」
「だったらどうして今夜、会ってくれたの? どうして待ち合わせ場所に来てくれたの? どうしてどうして?」
「真由、おまえ、酔ってんだろ? 部署の飲みだっつってたよな?」
「そんなの関係ない。おにいちゃんの前だから酔ってるの」
後頭部をがりがり掻いた相棒である。それからジョッキのビールを一息で空けた。たこわさも小鉢ごと傾ける。エイヒレもがーっと一気に食べた。真由ちゃんはうっとりしたような顔を浮かべ、「素敵……」と呟いた。恍惚の表情で「おにいちゃん、やっぱりカッコいい。ほんとうに素敵……」と続けた。たしかにまあそうだ。言ってみればブルドーザーみたいなこの男を見れば女の評価は真っ二つに分かれる。「すごい、男らしい」って思うか、「やだ、もう、野蛮」と思うかの二通りだ。真由ちゃんは前者らしい。にしても、おにいちゃんとはこれいかに? 相棒はきょうだいはいないと話していたように思うけれど。
「いとこだよ。ああ、いとこだ。それ以上でも以下でもねーよ」
ああ、なるほど、そういうことか、と合点がいった。そうでもなければ付き合ってやったりはしないだろう。相棒はそうだ。私だってそうだ。仕事柄、誰ともあまり懇意にすべきではない。それでも相棒がいとことやらと会うのを良しとするのは、奴さんが非情になりきれないせいだろう。
私は「真由ちゃんはこいつのことが好きなんだね?」とド正面から訊いてやっった。
「好きです!」真由ちゃんは臆するところなんて微塵も見せずに答えた。「むかしからずっと好きです。なにか困ったことがあれば、おにいちゃんはなんでも解決してくれました。わたしの両親の離婚騒ぎにおいても調停者を買って出てくれたくらいです」
私は相棒を横目で見上げ、くすっと笑った。相棒はうざったそうな顔。そこがまた可愛いんだな。
「いとこ同士なら結婚できるって聞きました」
「相棒、そうなの?」
「知るかよ、馬鹿野郎」
「仮にできるとしたら――」
「もちろん、わたしはおにいちゃんの奥さんになりたいです」
この夢見がちなお嬢さんになんと説明すればいいのか。相棒はそのことで迷い、気を揉み、困っていることだろう。説明する場を設けるのが嫌なんだったら、そもそも会わなければよかったという結論に至る。会うくらいはよかったということだろうか。それとも、会いたかった? まっすぐな目をして「やっぱりあなたは美人ですね美女ですね」などと褒め称えてくれる真由ちゃんが相手だと、話し合いは前向きに進みそうな気がしないでもない。
「わたしは第二の妻でいいです。おねえさんの次でいいです」
「一夫多妻制が認められたって話は聞いたことがねーよ」
「なんだったら身体だけの関係でもいいです」
「だから、真由、おまえなぁ――」
真由ちゃんはにこりと笑み、穏やかな声で「おにいちゃんはスーパーヒーローです」と言った。
「おにいちゃんが警察官になるって聞いたとき、わたしはとっても素敵なことだなって思いました。おにいちゃん、すごいな、って。多くのヒトを助けたいんだなって思うと、泣きそうになりました」真由ちゃんがぽろぽろと涙をこぼした。「変だよね、おにいちゃん。泣きそうになるだなんて変だよね。でも、なんて素敵なヒトなんだろうって思ったのはほんとうなの」
まあ、こんなことを言い出す女もやがて現れるだろうとは予測していた。しかし、ここまでまっすぐな言葉を一列に並べてくれるとは。おにいちゃんおにいちゃんと呼ぶ様からは可愛げしか窺えないけれど、そのじつ、抱かれたいと切に願っていることも事実なのだろう。
一通り飲んで食べて、表通りに出た。いきなり生身の一万円札を寄越してきた相棒である。「先に帰ってろ。俺はこいつのこと、送ってかなきゃだから」ということらしい。「わりぃ」と謝るあたりがらしくない。だってさ相棒、あんたはなんにも悪いことしてないじゃない。「うふふふふ」と含み笑いをしながら、相棒のごつい身体にしなだれかかる真由ちゃん。
「真由、マジで、送ってくだけだかんな」
「わかってまーす。おにいちゃんのその優しさでご飯を三杯食べれまーす」
まったく、目まいがするよ。そう言いながら、相棒は真由ちゃんのことをタクシーに押し込んだ。真由ちゃんの「きゃははっ」という笑い声。
「こういうのも、しがらみっていうのかね」
「失礼だよ、さすがに、それは」
「誰に対して?」
「もちろん、真由ちゃんに対して」
「だな。先に寝てろ」
「やだ。起きててあげる」
「テメーは馬鹿だよ」
「知ってる」
私も後続のタクシーに乗った。
*****
びっくりするくらいの急転直下の事態が起こった。真由ちゃんがどこぞの誰か――きっと末端も末端のヤクザ野郎どもにさらわれ、それを聞きつけた相棒が彼女を助けるべく奔走し――だけど真由ちゃんは複数の男に乱暴されてしまったらしくって、だから相棒は私の制止の声も聞かずにその場にいた全員を銃やら拳やらでぶち殺した。信じられないくらい残忍な方法を犯したのちにそれぞれをまんべんなく殺した。爪と肉とのあいだに針をぶっ刺された連中は問答無用で「やめてくれ!」と鳴いて泣いた。だけど相棒はやめなかった。「苦しんだうえでテメーに待ってんのは死だ」なんて大仰な台詞を吐きつつ、相手をとことんまで苦しめた挙句、後頭部に銃弾をくれてやって殺した。「もうやめなよ」とは言えなかった。相棒の怒りのほどがわかったから、わかりすぎたから。
「俺のせいだ、俺の……っ」
相棒はそう言い、頭を抱えた。珍しいことだ。シャワールームに入っても出てこない。これも珍しいこと。ずっと冷たいシャワーを浴びていたらしい。相棒の身体には鳥肌の一つも立っていなかった。私は水を止め、「身体、拭いて出てきな」とともすれば厳しい言葉を吐いた。へたに慣れ合うのは嫌だ。無暗に慰め合うばかりの関係も望まない。だから自分でなんとかしろ、自分の気持ちには自分で整理をつけろ。
ベッドの上で、全裸の相棒が仰向けになった。奴さんはどうして「俺のせいだ」とくどいくらいにのたまうのか、だからそんなのあたりまえだ、しつこく述べるだけの理由がある。私らの仕事がそれだけ危険でえげつないということだ。親類であろうとその縁を切るくらいの気概がなければやっていけないということだ。大切なものなんて抱えてはいけないということだ。掃いて捨てちまえってことだ。それがわかっていて、それでもなんとかギリの線で振る舞って、その結果が今回のことなのだから――ああ、ほんと、相棒のことは責め立てることはできないなぁ……。
前に飲んだ居酒屋で、私たちと真由ちゃんはあらためて対面した。「汚されてしまいました」と真由ちゃんは笑い、それを聞いた相棒はすぐに口元を右手で覆った。涙もろいんだ、こいつは、ほんとうに。嗚咽が漏れそうになるところを耐えている。だからって、相棒は私の相棒だ。誰にも渡すつもりはないし、だからこそ、どんな感情に駆られようが手放すつもりもない。
「真由、マジ悪かった。俺はなんで、なにもしてやれなかったんだろうな」
「わたしはね、おにいちゃん。さらわれた時点で、もう殺されてもしかたがないなって思ったんだよ?」
「どうして、そんなふうに……?」
「おにいちゃんはただのおまわりさんじゃないんでしょう? だからだよ、だからわたしは――」
「悪い、真由。それ以上は言ってくれんな」
「わたしは後悔しない。おにいちゃんが好きなわたしを、これからも続行します。結婚できなくたっていいの。おにいちゃんよりカッコいい男のヒトなんていない。それは忘れないでね?」
よくわかってるじゃん。そう感心し、私は微笑んだ。それに気づいたらしく、真由ちゃんもにっこりと笑った。いっぽうで相棒は口を右手で塞いだまま、いまにも泣きだしそうな目をしていて。
「でも、真由、マジでわりぃ。だから――だけど、俺はおまえと結婚は――」
「だからそれはわかってるって言ったの。おにいちゃんはこれからも悪者と戦わなくちゃ、なんでしょう?」
なんて理解のある女のコだろう。
なんて健気な女子だろう。
相棒がテーブルを下から蹴り上げた――テーブルはたしかに浮いた。わりぃ、わりぃ、わりぃ。その言葉だけで、生きていけるはずだ。真由ちゃんは涙を流していたけれど、「うん、うん……」とうなずいてみせたのだった。
*****
朝、私はシャワーを浴びたのち、下着姿になり、洗面所の鏡と対峙していた。すると後ろから相棒が抱き締めてきて、そんなのほんとうに珍しいことで。
「どした、相棒、なにかあった?」
相棒はなにも言わない。私の背に胸を預け、ただただ首に両腕を巻きつけてくる。甘美な感覚が得られ、私は少し喘いだ。
「どう思う?」
「なんの話?」
「いまの職になかったら、真由が不幸な目に遭うことはなかった」
「退職届、出したいの?」
「ダメか?」
「ダメ。あんたには一生そばにいてほしいから」
「……つらい職場だ」
「足を突っ込んだのはあんた自身の意思だよ」
相棒は私の右肩に顎を置いて、鏡を見つめた。
「鏡はこえーよ。自分の姿をあからさまに示しやがる」
「それって悪いこと?」
「俺はたぶん、俺のことが嫌いだ」
「そのぶん、私が好きだから、安心しなよ」
相棒は肩を揺らしてやっと泣きだした。