第1話 対面
「八代さんがいいと思いまーす」
甘ったるい粘る声。どこか嘲笑が混じった推薦の声が教室に響いた。
夏が過ぎ、少しだけ空が高くなり秋の訪れを感じる頃。九月の初めの教室でそれは始まった。
文化祭が11月に行われるため、そのクラスの責任者を決める話し合いが繰り広げられている。
話し合いという名の押し付け合い。
誰だって面倒ごとは嫌いだ。互いに様子を窺い、静かに沈黙のみが教室に漂う。
そんな沈黙を割くように、その声は上がったのだ。
呼ばれた八代凛は一瞬だけ目を丸くして、それから発信者に視線を向ける。宝石のような澄んだ綺麗な瞳が動いた。
凛のどこか警戒するような双眸を受けて、神楽坂舞は困った表情を浮かべる。
「八代さんなら真面目だし、頭も良いから上手にやってくれると思って言ったんだけど、ダメだった? それならごめんね。嫌なら断って大丈夫だから」
色の抜けた金色の髪を揺らして気遣う様子を見せる舞。彼女は周りの女子達に「八代さんなら完璧だし、絶対上手く出来るよねー」と問いかけ、周りも肯定するように頷く。
凛は僅かに眉を寄せる。だがすぐに表情を戻して前を向いた。
「……分かりました。私がやります」
その声にクラス中が弛緩する。解れた緊張はざわめきとなってクラスに広がった。
「ほんと? やってくれる?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、八代さんお願いします」
進行を進めていた委員長もどこか嬉しそうに、口元を緩めて安堵していた。
そりゃ、そうか。このまま誰も名乗りでなければ、いつまでも進まず、クラスの雰囲気はさらに悪くなっていただろう。
それを正面から受け止めていたのだから、委員長の気苦労も窺い知れる。
委員長に限らず、同じクラスの人達の顔は明るい。
だが、ほとんど明るい表情で話している中で、八代凛だけは口元を結び、表情は暗い。
当然か。八代さんは別に望んで受けたわけではない。
一連の流れは全て舞によって作られたもの。推薦されて断ればさらにクラスの雰囲気が悪化するし、周りからの批判の視線も集まる。断れるはずがない。
こうして文化祭実行委員は八代凛に押し付けられた。
話し合いも終わり、帰りの用意を進める。いつものように机の中の教科書達をリュックに詰めていると、さっき推薦をした神楽坂舞とその幼馴染、榊悠真がこっちに寄ってきた。
「八代さんが引き受けてくれてよかったー」
「ほんと、あんなめんどくさいことやってられないっての。ナイス舞」
「八代さんなら完璧だし、絶対上手くいくと思ってたから。やっぱり推薦してよかったー」
ツンツン頭の榊悠真と神楽坂舞が互いに笑い合う。その笑い声にそちらを向くと、悠真と目が合った。
「お、蓮。蓮は話し合いの間、またいつものように寝てたのか?」
「寝てない。流石にあの時間を寝る度胸はない。気付いたら委員長になってる可能性もあるからな」
「あー、そうか。蓮を油断させて寝かせたところで、蓮を推薦すれば良かったかも」
「危な。寝なくてほんとよかった」
可笑しそうに笑う舞に、思わず息を吐く。それを見て、悠真まで笑う。
なぜ八代さんに押し付けておいて、そんなに楽しそうにしていられるのか。
いや、それなら見て見ぬふりをしている俺も同じか。自嘲するように俺も合わせて笑みを浮かべた。
八代凛。クラスでも彼女ほど浮いている人はいない。
色素の薄い黒髪は肩まで伸び、白く陶磁のような綺麗な肌は眩しくきめ細かい。ぱっちりとした二重の瞳に、整った鼻筋、赤い果実のような瑞々しい唇。
優れた容姿とその儚い雰囲気は幻想的に思え、彼女の魅力さらに引き立てる。
そんな優れた容姿に加えて、学力は優秀で入学してから常に一位。部活に所属していないが、体力テストでもかなり上位にいるらしい。
『天は二物を与えず』というが、それは彼女にだけは当てはまらない。まさに完璧を体現した女の子、それが八代凛である。
そんな彼女は誰とも絡まず、いつも一人でいる。学校で話しているところは数えるほどしか見たことがない。
異性なら言うに及ばす、同性でさえも親しくする気はないようで、クラスではいつもひたすら勉強をしている。
何を考えているか分からない。そもそもに話したことさえほとんどない。話しても愛想は悪く、親しみは感じ取れない。
そんな人に好感を抱く方が難しい。正直、彼女のことが苦手だった。
八代凛。その名前は学校で知らない人はいないほどの有名人な彼女であるわけだが、正直彼女のことはよく知らない。
周りの人と関わりを持たないということは、他の人からも彼女の話は聞けないということ。
せいぜいのその美貌と冷徹な性格しか耳にしたことはない。
舞達と別れ一人で歩いていた放課後の帰り道、そんな八代さんが歩道でしゃがみこんでいた。
風に揺れるその薄い黒髪は、煌めきながら風痕を示す。見えた横顔はやはり端正で誰もが見惚れるほどに美しい。
もし柔らかく微笑むようなことがあれば、今以上に多くの異性を惹きつけることだろう。
儚く幻想的で、ただしゃがんでいるだけなのに、絵になるような美しさがそこにはあった。
明らかに目を惹くその容姿は遠目からもよく目立つ。
何をしているのかと思っていたが、近づいてみるとどうやら猫と戯れているらしい。
家の庭に猫がいたようで、八代さんは歩道にしゃがみ、柵を隔てて猫と向き合っている。
赤い革の首輪に鈍い金色の鈴をつけた猫が白い柵の向こう側にいた。
どこから取ってきたのか、猫じゃらしを使い、右に動かし、左に動かし、時たまに上に動かす。
それに釣られて、茶色の猫のココアは楽しそうに追いかける。
ふと、八代さんが猫じゃらしを動かす手を止めた。そっとこちらを向く。
「なんですか?」
俺の足音に気付いたのだろう。八代さんは吸い込まれるような澄んだ瞳に警戒心を滲ませ、眉を寄せる。
整った顔の女子が凄むと、それだけで怖い。
----やっぱり苦手だ。
これまでに八代さんほど誰かに警戒されたことはない。好意的な態度で接してくれる人がほとんどだった。
その一因は自分の容姿にある。幸か不幸か見目が良いようで、そのおかげで初対面であっても、ある程度好意的な態度で接してくれる人が多かった。特に異性は。
もちろん、その分だけ周りからの注目は浴びるので面倒ごともある。そちらに気を遣わなければいけないし。
そんなわけで、八代さんの態度は非常に慣れない。少女漫画なんかだとそれが新鮮で、面白いやつ、とかなるらしいが、普通に不快なだけだ。
誰だって自分に好意的な人の方が居心地が良いし、話しやすい。そして扱いやすい。好き好んで嫌われにいく奴はいない。
久しぶりに話した彼女の言動に、愛想笑いは耐えられず、思わず眉を顰めてしまった。
八代さんはしゃがんだままこちらを見上げ、首を傾げる。
「なんですか? ナンパですか?」
「見ていただけでナンパ扱いするんじゃない」
勘違いも甚だしい。少し見ていただけなのに酷い言われようだ。
大体ナンパするならもう少し愛想が良いだろ。どう考えても今の俺の表情でナンパする奴はいない。
訳の分からん言い草に、なんなんだ、こいつ、と見返す。八代さんは、ぽんと、右手の握り拳で左手の掌を叩いた。
「なるほど。では、告白ですか? ごめんなさい。お付き合いする気はありません」
「え、まだ何も言ってないのになんで俺、振られてる?」
人生で初めて振られてしまった。まだ告白もしたことないのに。謎すぎる。
もはや意味が分からなさすぎて、不快を通り越して、気が抜けた。
もうどうでも良くなってきたが、それでも告白の勘違いだけは嫌なので、そこは否定しておこう。
「告白じゃないから。変な勘違いをするな」
「では、なんですか? あまり人のことを勝手に見るのは失礼だと思いますが。不快なのでじろじろ見るのはやめてください」
顔を顰めて目を細める。鋭く見つめるその瞳には、さっきよりもさらに警戒が強く光っていた。
八代さんの言い分は理解できる。大して親しくもないクラスメイトがこんなところで自分のことを見てきたら警戒するのは頷ける。
立ち止まった以上に何かの用事があるのかと思うのも分かる。
もちろん、俺だってただの通り道だったら見て見ぬふりをしただろう。わざわざ苦手な奴と関わる気はない。
知らぬ存ぜぬと、しゃがむ彼女の脇を通り過ぎていた。
それをしなかったのには理由がある。
「ここ、俺の家だから。じゃあ」
「……え?」
さっきまで彼女が戯れていた猫がいる庭付きの家を指差して、玄関へと向かう。何か言われる前に退散するとしよう。
そそくさと足早に逃げて、家の中へと入る。扉を閉めて、その扉に体重を預けた。
まさか、あんな顔をするとは。素っ気ない表情以外の初めて見た表情。
別れ際のぽかんと目を丸くして固まる八代さんの姿を思い返す。それは少しだけ面白く、抱えていた溜飲は下がった。