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西門豹  作者: 野鶴善明
8/9

エピローグ

 五年後、西門豹は中止していた河伯祭を復活させた。

 もちろん、民から費用を徴収せず、規模も縮小させ、人身御供も取りやめさせた。だが、会場の賑わいは五年前と変わらない。西門豹は、屋台と人ごみの中をそぞろ歩きした。五年前は大事を前に控えて祭りを楽しむどころではなかったが、今回はその雰囲気を存分に味わった。なにより、人々のたのし気な姿が心地良かった。

 あの後、大々的な治水工事を行ない、堅牢けんろうな堤が完成した。民を苦しめた洪水はここ二年起きていない。十二本の灌漑かんがい用水を整備して黄河から水を引き入れ、死んだ荒地は郁々《いくいく》と緑なす小麦畑へ生まれ変わった。民の生活は大幅に向上し、都へ上納した税も増えて国庫に貢献した。抜擢してくれた文侯の期待に、見事に応えた。

 彩を忘れたことは一日もない。

 自宅に彩を祀り、朝と夕べに祈りを捧げた。

 時折、同じ夢を見る。

 黄河の底の龍宮を訪れ、庭先のちんで彩と世間話をして帰る。そんなたわいもない夢だ。彩が見せる微笑みは、まろやかな幸せを手に入れた若妻のそれだった。満ち足りて欠けるところがない。

 夢を見るたび、西門豹はただ嬉しかった。それがおそらく真実だろうと思った。その「真実」が長い治水事業の中で困難に直面した時、心の支えになった。

 人波を縫って李駿がやってくる。李駿は以前この町へ連れてきた彼女と婚礼を挙げ、一児の父になっていた。もうすぐ二人目が生まれる。

 久闊きゅうかつじょした後、

「お前の父君の言付けを預かってきたよ」

 と、李駿が切り出した。休暇を取って都へ戻り、結納を上げろという。

 許嫁は三年前に親が決めた。会ったことはないが美人との評判は聞いている。相手の家は宰相の親戚だ。悪くない。だが、西門豹は仕事を口実に春節しゅんせつ(中国の正月)にも都へ帰らず、避けていた。

「そうだな。いい区切りかもしれない。結婚するか」

 西門豹は、昔より一層、精悍せいかんに見える頬に掌を当てて頷いた。

「区切りってなんだよ」

「ここでの仕事も一通り目処がついた。そろそろ踏ん切りをつけて、人生の次の段階へ進む時かもしれない」

 西門豹は会場を見渡し、ふっと優し気な微笑みを浮かべる。

「河伯祭も始めたことだしな」

 彩にしてあげられることはすべてした。なにもかもが終わったような気さえもした。

 ――断ち切れない想いも、思い出に変える潮時なのだろう。

 腕を組んで下を向き、子供が遊ぶようにして足元の小石を転がした。

「あれだけ苦労してやめさせたのに、どうしてまたやるんだよ」

 西門豹の想いを知らない李駿は不思議そうに言う。彩との件は李駿にも誰にも告げていない。自分だけのものにしておきたかった。

「民は龍神を信じている」

「だからといって迷信を認めるなんて、俺にはわからないよ」

「龍神をまつって民の気持ちが落ち着くなら、結構なことではないか」

「もしかして、お前も河伯を信じているのか」

「信じている」

 西門豹は、あの夜巫女の村で出会った龍神を想い起こした。今も黄河の中から厳しい視線で見られている気がする。

「人間は神々を信じて、その神々に見つめられていたほうがいい。心が安らぐうえに、謙虚な気持ちになって己の限界を考えるようになるからな。この世に人間しかいないと思えば、人は思い上がって自分が神になったつもりになり、勝手放題をやりだす。正しいことと誤ったことの区別がつかなくなって、愚かさに歯止めがかからなくなる」

 滔々《とうとう》と流れる黄河を見つめた。

 黄色い濁流は、夏の光を浴びてひたすらにほとばしる。

 水辺で餌を探していた白鷺の群れが、一斉に宙へ羽ばたいた。


 了



この小説は中国の歴史書である『史記』列伝に題材をとりました。

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