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西門豹  作者: 野鶴善明
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第五章2

 いよいよ、河伯祭の当日を迎えた。

 よく晴れた朝だった。

 西門豹も賓客として招かれている。

 礼装した西門豹は、黄河のほとりの式場へ早めに入った。

 木目も真新しい小さな斎宮には橘黄色たちばなきいろ深紅色ふかべにいろとばりを張りめぐらし、その前の祭壇には牛肉の塊や酒などを供えてあった。斎宮の脇に、色とりどりの花やのぼりで美しく飾りつけたいかだが置いてある。新婦は筏の椅子に腰掛け、嫁入り道具とともに河へ流される。初めは浮かんでいるが、数十里行くうちに沈んでしまうという。

 三々五々と人が集まり、西門豹は徐粛や他の有力者たちと挨拶を交わした。誰もが、西門豹が河伯祭の開催に尽力したことの謝辞を口にする。心の中で唾を吐きながらも、うわべは愉快そうに振舞った。

 西門豹の瞳が揺らいだ。なにかに耐えるよう鈍く光る。まぎれもない彩の香りが西門豹の胸をくすぐった。

「久し振りだな」

 抑えきれそうもない想いをかろうじて抑え、声をかけた。彩は、なにも言わず会釈する。銀の髪飾りに吊るした翡翠がくるくる回転し、止まったかと思うとまた逆に回り始める。

 ――きれいになった。

 西門豹は素直にそう感じた。彩の顔がまぶしかった。

 大事な儀式を控えた緊張感と大巫女として大切な任務をこなすという責任感が、巫女ゆえの宗教的確信とあいまって内面から分泌する輝きをより強いものにしていた。初夏の陽射しが頬の柔らかい産毛に照り返る。

 初めて出会った時のように、彩は深く澄んだまなざしで西門豹を見た。西門豹の脳裏にあの夜の彩が浮かぶ。粟粒のような乳輪の感触も、汗に濡れた肌の質感も、男の野性を激しく揺さぶった吐息も、まざまざと想い起こした。さらってどこかへ連れ去りたい。永遠に自分のものにしてしまいたい。だが、それはできない。たわいない世間話でよいから一言二言声を交わしたかったが、そうすれば己が崩れてしまいそうでできなかった。彩の瞳を見つめ返し、ただ力強く頷いた。必ず約束を果たすので任せて欲しい、と伝えたかった。

 彩は二度頷く。計画の全貌を打ち明けてはいなかったが、女の勘で西門豹の言いたいことを悟ったようだった。丁寧に辞儀をして西門豹の傍らを通り過ぎる。

 西門豹は振り返り、ぴんと背筋を伸ばした白絹の後姿を見つめた。すべてを失う切なさに心が軋む。思わず目のふちをしかめ、どこまでも晴れ渡った空を見上げた。

 もう儀式が始まろうかという頃、約三千人の観衆が集まった。

 縁日の賑わいだった。

 河原には串焼きや菓子を売る屋台が出て、物売りの陽気な声が飛び交う。人々の晴れやかなざわめきが鞠玉のように青い空へこだまする。

 ――頃合いだな。

 西門豹は、土手の上を見遣った。

 矛と盾を持った完全武装の兵が次々と現れ、空色を背景にして一直線に並ぶ。美しい整列だった。指先からつま先まで神経を張りつめた一挙手一投足から、遠目にも訓練と規律の行き届いた部隊だとわかる。隊伍を整えた五十人ばかりの兵隊はリズムよく甲冑の音を響かせながら土手の斜面をくだる。人海を割り、会場まで行進してきた。

 先頭には李駿が立っていた。伊達者の李駿らしく、磨き上げた瀟洒しょうしゃよろいに身を包んでいる。おそらく、代々の家宝の品だろう。兵は、都から連れてくるように頼んでおいた文侯の親衛隊だ。体格に優れ、面魂のよい者を揃えた精鋭だった。李駿は、得意気な顔で西門豹へ向かって頷いてみせる。意外な闖入者ちんにゅうしゃに会場がどよめいた。

 西門豹は、さっと裾を払って立ち上がり、

「彼らは文侯閣下の直属部隊の者だ。閣下直々のご命令で参列する。このように閣下から祝いの品も預かっている」

 と、足元に置いてあった壺を高く掲げ、銀塊を取り出した。熱波のような歓声が沸く。

 すかさず徐粛が立ち、兵に向かってそつなく労をねぎらった。徐粛の顔は満足そうだった。文侯から河伯祭のお墨付きをもらったと思ったようだ。親衛隊は、誰に邪魔されることもなく貴賓席のすぐ後ろに立ち並んだ。

 風が軍旗を殴る。予兆を孕み、ばたばた鳴る。

 ――時が来た。

 西門豹はにこやかな仮面を脱ぎ捨て、式場に集った人々を睥睨へいげいした。別の生き物がうように頬の筋肉が痙攣する。

「新婦が美しいかどうか、確かめさせてもらおう」

 渾身の力をこめ、険しい声を張り上げた。

 会場の後ろでどっと哄笑が沸く。民はやんやの喝采だった。口笛と掛け声が飛び交う。新しい県令が場を盛り上げるために冗談を言ったとしか思っていないらしい。だが、貴賓席に並んだ有力者たちは互いに顔を見合わせ、不審と不平が入り混じったささやきを口々に漏らした。あからさまな軽蔑のまなざしを西門豹へ向ける者もいた。

「いまさら、そのようなことをなさらずともよいでしょう」

 苦笑いした徐粛がおよしなさいと手で抑え、

「どうも県令様は、仕事がこまかすぎるようだ」

 と、周囲を見渡す。余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》だった。貴賓席で失笑が漏れる。

 西門豹はさっと手を振った。

 精兵が隣同士でほこを合わせる。死神の怒号にも似た物々しい金属音が人々を打つ。思わず後退った徐粛はうろたえて周囲を見回す。

「い、いけませんぞ。河伯様のばちが当たります」

 徐粛のうわずった声を無視して西門豹は短いきざはしをのぼり、斎宮の扉を開けた。

 削りたての材木の清新な香りが満ちていた。麦藁むぎわらで編んだむしろの上に、白粉おしろいを塗って紅い花嫁衣裳を着た十六七の娘が坐っている。打ち合わせ通り、器量の落ちる女だった。

「安心しろ。今助ける」

 西門豹は娘の肩を叩いた。だが、娘は魂を抜かれたように、口を半開きにしたままほうけ顔で壁を見つめるだけだった。恐怖の日々を送り、なにも考えられないようだ。

 斎宮を出た西門豹は後ろ手に扉を閉め、仁王立ちになった。

「この娘は美貌とは言えない。これでは河伯様を怒らせてしまうだろう。河伯様のめがねにかなう娘を選び直し、儀式は後日執り行ないたい」

 会場がざわめく。何人かの有力者が立ち上がり、西門豹を糾弾きゅうだんする。

「西門様、しきたりを守ると誓われたではありませんか。困りますな。本当にばちが当たりますぞ」

 徐粛は、おさまりがつかない風にわめき立てる。

 ――ばちが当たるのは貴様だ。

 西門豹は、李駿へ目で合図を送った。兵が貴賓席へ分け入り、罵声を浴びせる有力者を取り押さえた。

 突然、乱暴な喊声かんせいが上がる。剣を振りかざしたならず者の一団が式場の脇から乱入してきた。徐粛の手なずけていた者たちだった。

 親衛隊が一列に並び彼らの前へ立ちはだかる。ならず者たちとぶつかった、と思った瞬間、両翼の兵はさっと移動して彼らを取り囲む。さすが精鋭部隊だけあって水際立った動きだった。兵は左手に持った盾で防ぎ、右手の矛を上から打ち下ろす。肉を打つ鈍い音とうめき声が響く。親衛隊は、あっという間に彼らを袋叩きにしてしまった。六人の有力者とならず者たちは西門豹の前へ引き出された。

「私は河伯様をあつく敬い、またこの町の行く末を深く思うからこそ、美しい嫁を河伯様へ差し上げたいと申したのだ。本来であれば、逆らった者はこの場で打ち首にいたすところだが、河伯様の御前で殺すのは無礼というもの。よって後日沙汰いたす。引っ立てよ」

 一個分隊が彼らに縄をかけ、会場を後にする。

「三老殿、ご足労だがこのことを河伯様へ伝えに行っていただきたい」

 西門豹は地面にへたりこんだ徐粛の腕を掴んで引き起こし、人々によく聞こえるよう会場を見渡しながら言い放った。糞尿の匂いがする。徐粛の股間が濡れていた。

「どのようにしてですかな」

 徐粛は売られる子豚のように脅えた目であらぬ方を見ながらも、おもねった笑みを忘れずに首をかしげた。突然、徐粛は凄まじい力を振りしぼって西門豹の腕から逃れようとする。徐粛の肩のあたりで絹の裂ける音が鳴る。着物の袖が外れる。ぎりっと異様な音がして徐粛の肩が脱臼した。西門豹はとっさに徐粛のもう片方の腕を握り、軽くひねって徐粛を地面へ転がし、

「参られよ」

 と、鋭く叫んだ。

 徐粛は両手を前へつき、拍子木を続け様に打つような高く乾いた音を立てながら歯を鳴らす。狂ったように額を地面へ叩きつける。叩頭を繰り返すうちに徐粛の額が裂け、どろりとした血が垂れた。血は流れ落ち、老人の目が赤黒く染まる。

 西門豹は徐粛を見下ろした。まぶたが怒りに打ち震える。そのまなざしは、悪魔の化身のような気魄とどこか哀し気な憤りがない交ぜになっていた。

 屈強な兵士が二人、徐粛の両脇を抱えた。

 河は増水期を迎え、黄色い濁流が小気味よくうねりながら走っている。

 兵は徐粛を波打ち際まで引きずり、高々と濁流へ放り投げた。ざぶんと虚しい音がする。手足をばかつかせる姿がしばらく見えていたが、やがて波間に沈んだ。

「三老殿が帰ってくるまで、待つことにしよう」

 西門豹は、黄河へ向かって慇懃いんぎんゆうをした。会場は震撼しんかんを通り越した静寂に包まれ、物音一つしない。帰ろうとする者もいない。西門豹は組んだ両手を前に掲げ、四十五度腰をかがめ、龍神に敬意を表した姿勢のまま動かなかった。

 不意に、西門豹は巨躯を震わせた。

 閉じたまぶたの裏に黄河の濁流が映る。巫女の村の社殿で龍神と一体になった時と同じ感覚が甦る。水の冷たさも、泥水の肌触りもあの時のものだ。西門豹は意識の中で己が龍になり、流れをさかのぼっていた。

 木の葉のようにもまれる徐粛の体が前から流れてくる。

 口を大きく開け、強く噛む。骨ばった食感が口に広がった。

 赤黒い液体が目の前に噴き出し、河水に溶ける。

 視界の下の縁に揺れる老人の四肢が見え隠れし、骨の砕ける音が頭蓋骨いっぱいに反響する。腐った肉腫にくしゅのようななまぐささが鼻を衝く。骨入りのすり身が食道の壁にぶつかりながらおりてゆく。口の中に、粘つく体液と肉のかすが残った。

 西門豹は獅子鼻の鼻孔をせわしなく広げ、大きく息を吸った。

 すっとした。

 胸のつかえが取れた。

 初夏の空気には、これまでに味わったことのない快感が混じっている。それは己が無限の力を得たようなつきぬける爽やかさだった。だが、その一方で西門豹は突き刺さるような痛みを喉に覚えた。後味の悪さが胸に残る。見えない手に握られるように心臓が圧された。

 ――やむを得ない。他に方法がないのだから。思い切ったことをしなければ、いつまでも与えられた状況を打ち破ることはできない。閉塞感の中で右往左往するだけだ。新しい状況を作り出すのは、己しかいない。

 心の内でつぶやき、ひりつく後悔を打ち消そうとした。

 三十分経った。当然、徐粛は帰ってこない。

「どうも三老殿は河伯様と話しこんでおられるらしい。催促をお願いしたい」

 西門豹は、ぎょうで一番の大店の主人を指差した。この町の商業界を牛耳る人物だ。彼は死灰のように顔を蒼褪あおざめさせ、椅子から崩れ落ちる。強気で鳴らした豪商も情けないものだった。兵が黄河へ投げ入れた。

 西門豹は、再び最敬礼の姿勢を執り続けた。

 沈黙の三十分が経過した。

 できれば、ここで切り上げてしまいたかった。

 なすべきことはすべてやり遂げた。そう思いたかった。実際、文侯から命ぜられた治水と開発を実行するためにはもう充分だった。地元の有力者を二人処して県令の権力と権威は確立できた。今後の施策は比較的円滑に運ぶはずだ。助けてくれと泣いた寒村の老人の期待にも、応えられるはずだ。

 だが、約束がある。片想いとはいえ、愛する人との約束がある。

 西門豹は、彩の横顔を見た。

 彩はわずかばかり背伸びして、遠く河面を見つめている。おくれ毛が風になびき、頬骨の上で目まぐるしく揺れながら風の模様を描く。今にも龍神が黄河から飛び出してくるのを待ち望んでいるようだ。

 ――さっき自分が見たのと同じように、彼女にはなにかが見えているのだろうか。

 西門豹は、ふとそんなことを思い、

 ――ここで送り出さなかったらどうなるのだろう。

 とも考えた。

 もし彩を妻に迎え、二人で幸せに暮らせるのならそれに越したことはない。二人の子を育て、平凡な家庭生活の幸福を得られるのなら、満足すぎるほどだ。だが、そんなことをすれば彩の輝きは消えてしまうだろう。この世にたった一つしかない宝石のような輝きは、いくばくも経たないうちにただの石ころへ変わってしまうだろう。彩は、どんな彩であるかを選べない。大巫女となるべくして生まれ、大巫女となるべくして育った。それが彩の宿命で、その宿命が十九歳の彩を形作った。そんな彩から巫女の使命と言葉を奪ってしまえば、彩は彩でなくなってしまう。西門豹が好きになったのは、神々と人間を取り結ぶ巫女としての彩であり、巫女として世俗の人々とともに生きる彩だ。

「誰であれ、人へ嫁ぐことはできません」

 あの夜の彩の言葉が耳の底で響く。

 ――進むべきは光の射す方角だ。その人の理想とする方向だ。彩が彩であるためには、あくまでも巫女でなくてはならない。河伯に寄り添わなくてはならない。そうさせてあげるのが自分の責任というものだろう。

 視線に気づいた彩がふと西門豹へ向く。好きな人だけをただ想い、心ここにあらずといった様子で、あどけなさすら目許に漂っている。彩は西門豹の強いまなざしに驚いたようで、少しばかり首を傾げた。西門豹は彩へ歩み寄り、

「世俗の者は河伯様と話ができないのかもしれない。大巫女殿、すまないが行ってきてくれ」

 と、厳かに彩を見つめた。彩の潤んだ目に、息を凝らした西門豹の顔が映る。瞬間、西門豹の姿が水面を乱すように揺れた。ふっと、彩の瞳が燃え上がる。

 彩の全身から、あの夜と同じ、なにもかもを忘れさせるくるおしい色香が立ち上る。月の光を浴びた紅蓮ぐれんの香りに似ていた。妖しく激しいその香りは神だけが放つ香気なのだと、西門豹はようやく気づいた。彩は間違って人間に生まれた神なのだと、ようやく悟った。

「行って参ります」

 一揖した彩は龍の棲む河へ歩む。白絹の長い袖を風にはためかせ、ただ穏やかに、ただ静かに、ひっそりとした喜びに満たされた花嫁のように。

 西門豹は、ほとんど閉じたように目を細めた。まぶたの端に幾筋もの厳しい皺が寄る。くぼんだ眼窩の底に涙がにじんだ。

 取り澄ました彩。熱っぽく語る彩。あどけなく笑う彩。怒る彩。思い出が西門豹の脳裏を駆けめぐる。西門豹は、神が神々の世界へ戻るだけだと自分を諭した。

 黄土色の波が彩の足元を洗う。裳裾もすそが濡れる。

 彩は、きらめく波間へ分け入った。

 長い黒髪が浮き草のように広がったかと思うと、体がふわっと流れに浮く。濡れた絹越しに、横へ広がったたわわな乳房と朱鷺色ときいろの乳首が透ける。波が白い顔を洗う。

 彩はへその下あたりで両手を組み、柔らかく目を閉じた。微笑んでいるようだ。

 不意に、河面が泡立ち、大きく渦を巻く。

 女神が消えた。



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