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西門豹  作者: 野鶴善明
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第五章1

 西門豹は、人が変わったように愛想よくなった。

 とりわけ、賄賂を贈りにきた有力者を迎える時は上機嫌に振舞った。

 張敏は西門豹の演技がわざとらしいのでもっと自然にふるまったほうがいいと助言したが、有力者たちは誰も疑わない。目先の利害だけで付和雷同する俗物は、人の本心よりも得られる利益しか目に入らないのだろう。受け取った金品は厳重に封をして、いつでも送り返せるよう蔵へしまった。

 賄賂を取り、便宜を図れば図るほど、市場での西門豹の評判は高まった。西門豹が睨んだ通り、三老の配下が世論を操作していた。つまり、なあなあでうまく付き合うなら居心地よくいさせてあげますよ、ということだ。西門豹は虫酸の走る思いだったが、しばらくの辛抱だと自分をなだめた。

 毎日申さるの刻(午後四時)に仕事を切り上げ、一切の面会を謝絶して県庁の裏庭で弓を引いた。息を整え、なにも考えず、的も見ないで弓を引く。一日の中で唯一息を抜ける時間だった。日が暮れる頃にはたっぷり汗をかき、気持ちも発散して傾いだ心の平衡がいくらか元へ戻った。

 だが、それで気持ちがすべてまとまるわけではない。

 彩とは距離を置き、会わなかった。

 一度、彩のほうから会いたいと使いの者をよこしてきたが、西門豹は断った。会えば決心が鈍る。未練に引きずられる。それを恐れた。用件のある時は張敏に竹簡を持たせて連絡を取った。近頃、彩が日毎城内へきては人身御供にする娘を探しているとの消息が耳に入り、一目でよいから姿を見たいと心がうずいたが、西門豹は己を抑えて見に行かなかった。

 李駿からの書簡が届いた。

 文侯の裁可が下り、万事滞りなく極秘裏に準備を進めているという。文侯は全面的に西門豹を支持し、すべて西門豹の計画通り実行するようお墨付きを与えてくれたとも書いてある。

 喜ぶべきことだが、西門豹はなんの感慨も湧かなかった。ただ事実を確認したにすぎない。

 なにかが思考をとめていた。そして、桎梏しっこくとなっているなにかを西門豹は明瞭に把握していた。恐ろしい考えが胸をしめつける。だが、わざと自分の心の動きを無視し、あえて考えないよう努めた。

 河伯祭の費用を例年通り徴収した。

 徐粛に求められるまま慣例に従って県庁の役人を派遣した。徐粛は前年より多めに集めたいと言ってきたが、西門豹は三老殿の専管事項なのでこちらが口を挟むことではない、好きなようにされればよいと返事した。市場での西門豹の評判は一層高まった。

 ほどなく人身御供が決まり、その翌日、早速結納式を執り行なうことになった。河伯祭の十二日前だった。徐粛がやってきて、大事な儀式なのでぜひ出席して欲しいと請う。西門豹は、業務の多忙を理由に固辞し続けた。押し問答を繰り返してやっと追い返したと思ったら、徐粛はすぐに催促の使者を寄越してくる。使者は、西門豹が参列しなければ徐粛の面子が立たないと泣き口上を並べ、ついには、西門豹がと言わなければ自分は首にされ、家族が路頭に迷うなどと泣き落としにかかる。徐粛が彼にそう言わせているのはわかっていたが、仕方なく参列することにした。

 人身御供は、土間一間、部屋一間の長屋に住む貧しい家の娘だった。

 西門豹は徐粛の配下に案内され、下町の路地へ入った。

 路上に張った天幕に賓客が並んでいる。人をそらさない愛想笑いを浮かべた徐粛が西門豹を迎え入れる。二人の関係は表向き良好だった。少なくとも、徐粛はそう思いこんでいるようだ。西門豹が巫女の村から帰った後、徐粛はすぐに県庁に現れ、「雨降って地固まると申します。これからは仲良くやろうではありませんか」と西門豹の手を握ったものだった。

「西門様、何度も催促して申し訳ありませんでしたな。ですが、我々は仲間です。これからは些細な行事に思われても、どうか面倒くさがらずにぜひ参列していただきたい。儀式に参加すれば、それだけきずなが深まります。それでこそ、我々は本当の仲間になれるのですよ」

 徐粛は目尻に皺を寄せ、人懐っこく目配せする。西門豹は軽い微笑みを作り、

「ええ、これからはそういたしましょう。ご忠告感謝します」

 と、頭を下げた。

「そう固くならずともよいではありませんか。今日はめでたい日ですぞ」

 徐粛は、西門豹の肩を叩く。

「ところで、龍神の許嫁はどのような娘なのでしょうか」

 西門豹は訊いた。

「さあ、わかりませんな。人選は彩様にお任せしております。私も今日初めて見るのですよ。どうしてまた」

「なんとなく興味を持ったものですから」

 西門豹は、彩が選んだと聞いて安心した。徐粛が邪魔しないのであれば、彩は打ち合わせ通りことを進められたはずだ。

「毎年、見目良い娘を選ぶことになっております。彩様はしきたりを熟知しておられますから、間違いないでしょう。――なるほど、西門様もそちらに興味があるのですな。いくらでもご紹介しますぞ。そうだ、ちょうどいいお相手がおります。大店の娘で、それは都人形のような雅な顔立ちをしておりましてな、この町で一番の器量良しと評判なのですよ。おまけにしつ(琴の一種)がことのほか上手でして、合奏会があるたびに若い衆が押しかけます。彼女を追いかけている者は多いとか。河伯祭が終われば一つ話をしてみましょう。所帯を持ってもいい頃ではありませんかな」

「結構なお話ですが、私はまだ未熟でして妻を娶れるほどではありませんので」

「またまた。なんでしたら、私が都へ行って西門様のご両親を説得しましょう。ご両親もきっと喜んでくださるはずだ。この町の者を娶れば、それだけ結びつきも深くなるというものです。お互いにとっていい話ではありませんか」

 西門豹の渋い顔を知ってから知らずか、徐粛は高笑いする。

「じいじい」

 三つくらいの男の子が走ってきた。徐粛は相好そうごうを崩し、立ち上がる。徐粛の孫だった。退屈で迷惑な話から逃れられ、西門豹はほっと胸をなでおろした。徐粛は、高く抱き上げて孫をあやす。男の子ははしゃぎ、

「おひげ」

 と、徐粛のあごひげを軽く引っ張り、無邪気にじゃれる。

「じいじいのおひげが好きか」

 徐粛は目尻を下げ、子供のように笑う。その姿はどこにでもいる好々爺だった。市井しせいの老人となんら変わるところがない。この老人はこうして晩年の最後を楽しんでいるのだと、西門豹はふっと感じた。

 のびやかな囃子はやしが聞こえる。笛と二胡にこの音が鳴り、かねが景気よく響く。

 路地向こうに紅い儀礼服で揃えた楽隊が現れた。楽隊は門を行き過ぎたところで止まり、向きを変えて隊列を整え直す。

 彩が伏し目がちに歩いてきた。

 西門豹は、他の賓客と同じように頭を垂れた。小花模様を散らした白絹のくつが通り過ぎる。小さな履だった。着物の裾がはだけ、白いくるぶしが陽光を照り返す。あの夜、西門豹がいたわるようにさすったあのくるぶしだった。履は西門豹の前でふと歩みを緩め、ほとんど止まりそうになったかと思うと、意を決したようにまた歩み始めた。

「どうなされました。顔が赤いですぞ。具合でも悪いのですかな」

 徐粛にささやかれ、西門豹はどきりとした。陽に焼けた頬にさした赤味が一層増す。頭が痛み、そっとこめかみを押さえた。

「いささか暑いものですから」

 苦し紛れにそう答えた。

「暑い? 確かに暑いかもしませんな。ですが、大切な儀式の途中ですぞ。辛抱なさっていただきたい。じきに終わります」

「わかっております」

 西門豹は脂汗を垂らした。握りしめた拳が震えていた。

 小巫女の列を追って、四人がかりで舞う龍の灯籠とうろうが門をくぐる。荷車を牽いたこぶ牛が止まった。

 牛車は狭い路地いっぱいに連なっている。二十台ほどあるだろうか。どの荷台にも山盛りの荷物を載せ、紅い幕をかけてある。結納の品々だった。名工が制作した家具一式、えつの国から取り寄せた珊瑚細工などの装飾品、楚の国で産する最上級の絹の反物、青銅貨幣でふくれた麻袋、この町のどんな金持ちでも用意できそうにない様々な品が詰まっている。

 結納が終わり、喜びを祝う囃子が高らかに鳴った。思わず踊りだしたくなるような軽快な拍子だった。

 河伯の許嫁が現れる。

 人身御供はおろしたての紅い綾絹の衣裳を身にまとい、薄い絹布を頭から被っていた。顔も表情もよく見えない。ぎゅっと張りつめた絹の太股あたりに、雨の降るようなしみが浮かぶ。涙が落ちていた。

 西門豹は頬を苦味走らせ、憤慨とも溜息ともつかない息を漏らした。紅いベールの向こうに、彩の白い顔が見え隠れする。心なしか彩の頬はやせたようだ。それがいくぶん、彩を大人びて見せた。西門豹は再び息をついた。

「どうなされました」

 徐粛はうるさく訊いてくる。

「あの年端としはも行かない娘が龍神に嫁ぐのかと思うと、空恐ろしい気がします」

 西門豹は、本心を気取られないようとっさに言い繕った。

「恐ろしいと言えば恐ろしいことです。しかしですな、あの娘が嫁がなければ、もっと恐ろしいことが起こるのですぞ」

「重々承知しております。ですから、私もこうして参列しているのです」

「――そういうことですか。水臭い」

 徐粛ははっとした顔をして、西門豹に耳打ちする。

「彩様をご所望なのですな」

 西門豹は、面差しを硬くした。

「まさか」

「お声が高い」

 徐粛は、口に人差し指を当てる。

「我々の仲ですぞ。遠慮なさらずともよいではありませんか」

「そのようなことはありません」

「おせっかいなじじいと思われるかもしれませんが、西門様の嫁探しとあってはおせっかいを焼かずにはおられませんよ。――そうですな。大巫女様を娶るというのは、なにぶん前例のないことですので多少手間がかかるかもしれませんが、やってできないことではございません。なに、彩様を俗人に戻せばいいだけの話ですよ」

「徐粛殿、勘違いなさらないでいただきたい」

 西門豹は、吐き捨てるようにきつく言った。

 徐粛の提案に心が揺れないわけではなかった。彩を手に入れるためなら手段を選んではいられないとも、ふと思った。徐粛と手を結べば、この町でできないことはないだろう。だが、それは自分が許さなかった。ただ、己が許さなかった。

 徐粛に促され、西門豹は立ち上がった。

 不憫な娘はこれから黄河のほとりに建てた斎宮さいぐう(斎戒する家)へ移り、彩が毎日通って許嫁の身を祓い清める。西門豹は、徐粛と並んで行列の後についた。徐粛は、しきりに彩を娶らないかと勧める。是が非でも西門豹と地元の女を結び付けたがっているようだ。西門豹はろくに返事もせず、くぼんだ眼窩の底の目を半ば閉じ、瞑想にでもふけるような面持ちでゆっくり歩いた。

「しょうがありませんな。河伯祭の後でまた酒でも飲みましょう」

 徐粛は、機嫌を損ねたのではないかと気懸きがかりな風に西門豹の顔を覗きこむ。

「そうしましょう」

 西門豹は、気のない風にぽつりと言った。徐粛は、安心したように下卑げびた作り笑いを浮かべる。

 ――河伯祭の後はない。

 厚い唇を真一文字に結んだ西門豹は、獲物を見定めた狩人のような目つきになり、ふっと顔を上げた。


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