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西門豹  作者: 野鶴善明
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第四章1

 山が崩れる。

 そんなとどろきだった。

 山鳴りに追われるようにして、裾をからげた張敏が執務室へ転がりこんできた。

「暴動です。暴徒が押し寄せています」

 張敏は、うわずった声を上げる。

 西門豹は、慌てずに張敏を連れて門楼へ向かった。門楼は、小さな城市の役所にしては立派すぎるほどの構えだった。弓形の隧道を穿った石造りの門の上に二層の物見櫓ものみやぐらが載っている。二階の露天回廊へ出て、胸の高さの外壁に手をついた。

 暴徒は荒れ狂った波だった。大通りまで埋め尽くし、押し合いへし合いになりながら殺到する。彼らは、徒手で門を押し開けようとしていた。

 熱泉が噴き上がるように、そこかしこから怒号が沸き上がる。最低限の生存条件さえ満たされない、行き場を失った人々のくぐもった怨念がこもっている。無実の罪で餓鬼地獄へ落とされた亡者たちの阿鼻叫喚あびきょうかんにも似ている。

 西門豹は拳を握った。

 みなぎった手の甲に青く太い静脈が浮き上がる。

 これほどまでに痛ましい叫びを聞いたことがなかった。声高に叫ぶたみをよく見てみると、暴徒というよりもむしろ、逃げ惑う難民の群れのようだった。あまりにも粗末な服装がそう思わせるのかもしれない。

「むごい」

 西門豹は激しく憎んだ。いくら憎んでも飽き足りなかった。この群れのどこかにひそんでいるはずの扇動者を。人々をここまで追いつめた犯罪者を。しかし、感情に身を任せたのではまともに戦えない。なめしがわを一揉みして、さっと気持ちを切り換えた。

「探したよ」

 李駿が背後から西門豹の肩を叩いた。急いで走ってきたようで息が乱れている。

「あいつらは鎮魂祭から流れてきたんだ。偶然通りかかってさ、彼女がどうしても見たいってせがむもんだから、冷やかし半分で見物したんだけど――」

 李駿は、鎮魂祭の模様を語った。

 儀式は、厳粛かつ円滑に進んだ。

 急ごしらえの祭壇の前で鶏や牛などの生贄をほふり、彩が祝詞のりとを上げ、巫女が唱和する。祈り声の響く中を有力者と民が替わる替わる礼拝を捧げた。

 型通りの儀式が終わり、徐粛の計らいでワンタン汁がふるまわれた。李駿も彼女と一緒に舌鼓を打った。豚骨の出汁がよくきいていて美味だった。お替りを頼もうとした時、徐粛が演説を始めた。

 初めは目立ちたがり屋の顔役がしゃしゃり出てきたといった塩梅あんばいで、とくに変わったこともなかったのだが、突然、

「我が町を破滅させる者がいる」

 と、切り出し、西門豹が河伯祭の中止を目論んでいると語った。民衆は、不安などよめきをあげた。

 稲妻よりも速く駆け抜け、すべてをなぎ倒す奔流ほんりゅう。逃げるいとまもなく、なにもかもが一瞬にして沈む城市まち。濁流に押し流される家屋の残骸。泥水を飲んでもがきおぼれる人々。音もなく静かに浮かぶ家畜の屍体。ようやく水が引いた後に姿を現す破壊しつくされた廃墟。生き残った者は誰もいない。例の俗諺を繰り返し強調しながら、徐粛は巧みに大洪水の形象を描き出し、この世の終わりの風景を人々の脳裏に刻んだ。

 悪霊に憑かれたように、群衆が不気味に揺れだした。誰もが、龍神に無礼をはたらき、決定的に怒らせてしまうことを恐れた。勢いづいた徐粛は西門豹批判を繰り広げる。煽られた民は次第に熱を帯び、西門豹のせいで破滅させられてしまうと信じこんでしまった。

「これから県庁へ押しかけて抗議する」

 徐粛の一声で群衆が沸騰した。一斉に走り出した。皆逆上していた。

「手品みたいだったよ。まるで集団催眠だ」

 李駿は、信じられない風に首を振る。

「矛盾」

 張敏は、理解できないとつぶやく。

「なにがだ」

 西門豹は訊いた。

「民は河伯祭の費用徴収で苦しんでいるのですよ。私が聞いた限りでは喜んで費用を納める者など一人もいません。口を開けば、あれさえなければ暮らしが楽になるのにとこぼします。それなのに河伯祭を続けろとはどういうことでしょうか」

「河伯祭の中止まで望んでいないのだよ。もともと龍の実在を信じていたところへ、今回はその証拠の化石まで出てきた」

 西門豹は、群衆を見渡しながら言った。逆立った濃い眉を少しばかり吊り上げ、ただ冷静に眺めている。

「あれは贋物ではありませんか」

「民は本物だと信じている。贋物であろうとなかろうと、本物と思いこめば、それが彼らにとっての真実になってしまう。この地は長年洪水に悩まされているのだ。あんなものが出てきて、皆畏おそれたと思う。もっと酷いことが起こりはしないかとね。だが、龍は洪水を起こすだけではなく、雨も降らせる。龍がいなければ雨は降らない。ひでりでは農作物は育たない。洪水を起こされる恐怖と雨をもたらしてくれる期待、この二つの相反する感情を龍に対して抱いているのだよ。いずれにせよ、龍と共に生きるしかない。だから、河伯祭は欠かせない。徐粛はそこへつけこんだのだ。本当に嫌なら、負担に耐えかねてとっくの昔に暴動が起きたはずだ」

「そうだとしても、なんで西門様が民を破滅に追いこもうとするのですか。的外れです」

 張敏は、若さに任せて愚直に憤った。

「悪い噂が飛んでいたんだろ。豹が役所の中で悪いことばかり企んでいるんだろうくらいにしか思っちゃいないさ」

 李駿が唾を吐く。

「あいつらにしてみれば、豹がどれだけ努力しているかなんて知ったことじゃない。深く知ろうともしないし、考えようともしない。本当の敵が誰かなんて、なおさら知らない。風になびく草と同じさ。春風が吹けば、春風になびき、秋風が吹けば、秋風になびく。何も考えちゃいない。その時々の風評と思いこみに振り回されるだけなんだ」

「兵を出して彼らを抑えます」

 張敏がかしずき進言する。

「だめだ。民が怪我をする。無辜むこの民は傷つけられない。彼らは暴れたくて暴れているわけではない。追いつめられてどうしようもなくなり、怒りに我を忘れているだけだ」

「なに悠長なことを言ってるんだよ」李駿が言う。

「私は民を傷つけるために、ここへきたのではない」

「殺されたらなんにもならないだろ。軍隊で蹴散らせよ。しょせん烏合の衆じゃないか。どうにでもなるさ」

「彼らを追い払ってもなんの解決にもならない。問題は裏で操っている奴らをどう始末するかだ。民を苦しめる奴らをどう処分するかだ」

「民、民って言うけど、お前は民衆を美化しすぎだよ。税をごまかすわ、兵役から逃げ出すわ、民だって結構汚いんだぜ。それにさ、普段は人任せ神頼みでなんにもしないくせに、困った時だけ一揆を起こして押しかけてくるんだ。こっちの苦労も知らないでわがままをむき出すんだよ。そういうもんだろ」

「民が聖者ではないことくらい知っている。世の中の発展のためのどうすればよいのか相談できる相手でないこともわかっている。しかしだ、私が守ってやらなければ誰が守るのだ。踏みつけられた者の気持ちを考えろ。それが県令の務めだ。民がここまで追いつめられたのは私の責任でもある」

「この城市の奴のせいじゃないか。徐粛なんて狸もいいところだぜ。格好つけてお前が責任を取ることなんてないんだよ」

「格好をつけているのではない。危険と責任を引き受けるのが県令だ。逃げてほっかむりするのなら県令など要らない。責任をよそになすりつけるのは大人のすることではない」

「西門様、鐘と太鼓を鳴らして民を黙らせます」張敏が言った。

「やってくれ」

 張敏は階段を駆け下りる。

 石の礫が飛んできた。一人が投げ出すと、群衆は我もと道端の石を投げ出す。西門豹と李駿は外壁の下に身を屈め、石を避けた。爆竹の炸裂に似た音があたり一面を覆う。跳ねた石が硝煙しょうえんのように煙る。

 ――危機ではない。待ち望んだ好機だ。

 西門豹は、してやったりと微笑んだ。決戦が始まったのだという興奮が身をつつんでもいた。素早く考えをめぐらし、作戦を組み立てた。

 暴動を指揮しているのは、言うまでもなく徐粛だ。騒乱が治まった後、民の目前で徐粛と話し合うことになるだろう。徐粛は集めた民を力のり所にして、民意を大義名分にして、河伯祭に手出しをするなと要求してくるだろう。

 ――その時、逆手を取ればいい。あれを提案すればいい。

 西門豹は固く目を閉じた。

 河伯祭の実施は地元に任せる。だが、その費用は民から徴収せず、県庁が負担する。民のために県が支出する。民の窮乏きゅうぼうを理由に、三老から費用徴収の特権を取り上げてしまうのだ。貧困にあえぐ民は喜んで受け入れるだろう。なにかの拍子に暴走しかねない群衆を前にしては、いかに徐粛といえども抵抗できるはずがない。こうすれば、誰の命を奪うこともなく目的を達せられる。理想的な無血改革だ。

 鐘と太鼓が鳴った。

 激しい響きが繰り返され、群衆はようやく静まった。石もやんだ。

 西門豹は、立ち上がって深く息を吸いこみ、

「三老殿はいないか。話し合いたい」

 と、力の限り叫んだ。すべての視線が西門豹に集まる。

 ――必ずうまくいく。後は落ち着いてやるだけだ。

 己に語りかけながら動かない群衆を見渡した。どこか晴れ晴れとした表情さえ浮かべている。

 だが次の瞬間、西門豹はあっと小さく叫び、息を呑んだ。右手がせわしなく動き、韋を揉みしごく。西門豹はくぼんだ眼窩の底の目をかげらせ、群衆の奥を凝視した。

 海が割れるように細い道が開く。ぼろをまとった泥色の群れの一点に、柔らかい午後の陽射しを浴びた白装束があざやかに浮かび上がった。白い服は門へ向かって歩む。足を進めるたび、周囲の民は次々と跪いて平伏する。まるで伝説の救世主が現れ、荒波が鎮まるかのようだった。白装束は群衆の先頭で立ち止まり、ゆっくり顔を上げた。白い顔は彩だった。潤みがちに光る大きな瞳が、じっと西門豹を見つめる。

「徐粛殿はどこだ」

 西門豹は言い知れない不吉に駆られ、じれったく何度も韋を握り直した。

「三老様はおりません。わたくしが話をいたします」

 彩は、柔らかく響かせ、

「県令様はしきたりを守っていただけるのでしょうか」

 と、澄んだ声を放つ。

 西門豹は軽いめまいを覚え、手すりに両手をついた。

 思惑が外れた。彩とは争いたくなかった。とはいえ、相手が誰であろうと説き伏せるよりほかに道はない。西門豹は、腹をくくって自説を開陳した。しかし、すぐさま、

「彩様を侮辱するのか」

「貧しいからといって我らを見下すのか」

「よそ者は帰れ」

 と、口々に野次が飛ぶ。周囲は再び騒然となった。野次はすさまじい怒号へ変わる。大風がうなるようだった。

 この状況では西門豹がなにを言っても、民は「我らの彩様」に口答えをしたとしか取らないだろう。これでは話し合いにならない。西門豹は失敗を悟った。徐粛は雲隠れして前面へ出ず、民が絶対的な信頼を寄せる彩のカリスマにすべてを託して、西門豹の口を封じてしまったのだ。

「徐粛のほうが一枚上手だったな」

 西門豹は、力なくつぶやき、

 ――彩殿を巻きこみたくないと思ってなんの働きかけもしなかったが、今にして思えば根回しが必要だった。彩殿が傍観してくれさえすれば。不覚だ。

 と、己の不明を恥じた。

 彩があたりを見渡す。それだけで群衆は静まりかえる。

「わたくしたちは河伯さまを大切に崇めてきました。それがぎょうの民の誇りです。しきたりを守っていただけるのでしょうか」

「守ろう」

 西門豹は声を絞り出した。

 人の海が揺れる。勝鬨かちどきが上がる。彩への賛辞が飛び交う。

 ふと気づくと、西門豹は千切れた韋を手にしていた。よほど強く引っ張ったのだろう。韋を睨みつけ、宙へ放り投げた。韋はすぐに速度を失い、くるくると回りながら諸手を上げて喜ぶ群衆に吸いこまれる。西門豹は、雀躍じゃくやくする民の中で独りたたずむ彩の姿を見つめた。

 ――彩殿に負けたと思えば仕方ない。

 そう考えるとさばさばした。笑いたくもなった。彩様が祈れば洪水はなくなりますよと目を輝かせたいつかの農夫を想い起こした。

 ――民の暮らしに寄り添い続けてきた彩殿と、都からきたばかりの私では、民の信頼が違う。勝負になるはずがない。当然のことだ。――苛立っている場合ではない。さて、敗戦処理に取りかかるとしよう。まずは、私が本当にこの町のしきたりを守ると皆に思いこませねばな。

「聞いて欲しい。私はこれから彩殿の村へ行き、しきたりを守ることを神々へ誓おう。よろしいだろうか」

 西門豹は叫んだ。

「いいでしょう。喜んで受け入れます」

 彩が答える。民は再び沸いた。勝利の快感に酔いしれている。

「今そちらへ行く」

 西門豹は、さっと巨躯をひるがえした。

「おい、正気かよ」

 李駿が腕を掴んで引き止める。

「あんなところへ行ったら、なにをされるかわかったもんじゃないぜ」

「大丈夫だ。彩殿は無法な真似をする人じゃない。それに今は巫女の村にいたほうがかえって安全だ。あそこは聖域だから誰も手出しできない」

 そう言ってから、西門豹は意図を説明した。今回の件で県令への信頼は失墜した。その失地を恢復するために、ここはしきたりを墨守する振りをして民の信頼を得るのだと。

「すまないが留守を頼む」

「わかった。気をつけろよ」

 いつになく李駿は真剣に西門豹を見つめ、励ますような面差しで手を握る。

「ありがとう」

 西門豹は力強く友の手を握り返し、小走りに階段を下りた。



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