表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
西門豹  作者: 野鶴善明
3/9

第三章

 夜が明けるとすぐに出仕した。

 冷たく冴えた空気の中、執務室の簡素な机に向かい、未決箱の竹簡ちくかんに目を通した。土地家屋の登記、穀物の管理、武器の購入、城壁の修理、租税の徴収、訴訟案件など多岐にわたる項目の文書が山積みになっている。これらはすべて県令の所管事項だ。地域行政の他に、司法、軍事も扱った。西門豹は黙々と判を押し、指示を記すべきものに朱筆を入れ、職員が登庁する頃にはすべて片付けた。

「おはようございます」

 青年書記官の張敏ちょうびんが現れた。

 張敏は、都から連れてきた側近の一人だった。卵のような顔に人のよさと育ちのよさがにじみ出ている。まだ経験は浅いが、几帳面な性格で仕事を丁寧にこなす点と口の堅いところを買い、目をかけていた。歳月を重ねて場数を踏めば、志を持ったよい官吏になると西門豹は見こんでいた。

「おはよう。これを頼むよ。私は出かけてくる」

 西門豹は席を立ち、決済を終えた竹簡を指した。

「あの、三老の徐粛じょしゅく様がお見えなのですが」

「ちょうど、こちらから出向こうと思っていたところだ。手間が省けたな」

 西門豹は母屋の中央の間へ入り、揖をして上品な光沢を放つ座椅子へ腰かけた。

「申し訳ありませんな。年寄りは朝が早いもので」

 徐粛はからから笑う。

 遊び上手の小粋な老人だった。三老というよりも商家の楽隠居といった風情だ。鳩尾みぞおちまで届く白いあごひげは、太書き用の筆のようにふっくらとしており、塗りこんだ椿油がつややかに光っている。おそらく、若い頃は相当な二枚目でもてたのだろう。皺だらけになった今でも、女心をくすぐりそうな、氷砂糖を思わせる甘さが目許に漂う。

「この城市にはもう慣れられましたかな」

 徐粛は丁重に言った。

「お気遣いありがとうございます。ぎょうの水にも、ずいぶんなじんできました」

「大変結構なことです」

「今日はなんのご用でしょうか」

「遠縁に当たる者の息子が都で勤めたいと言い出しましてな。読み書きができて、なかなか達筆なのですよ」

「友人が戸籍係の手が足りないと言っておりました。それでよろしければ」

「申し分ありません」

「では」

 西門豹は張敏を呼んで筆とすずりを運ばせ、その場で紹介状をしたためて手渡した。

「ほう、なかなか豪気な字ですな。字は人を表すと申しますが、全身これ胆なりという西門様のお人柄がよく出ておりますな。いや、恐れ入りました」

 徐粛は、さも感心した顔を作り、

「後で使いの者がお礼を届けに行きますので」

 と、満足そうに頭を下げる。

「これしきのこと、礼にはおよびません」

「それは困りますな」

「いえ、本当にお気になされなくて結構です」

 西門豹は強く手で制した。ちょっとした頼みごとをして不相応に高額な謝礼を弾み、自分の仲間に抱きこんでしまおうという魂胆は見えている。その手に乗るわけにはいかなかった。さっきの世辞で気をよくするほど、西門豹はやわではない。

「字も豪気だが、肚も太いですな。昨日貧しい農民に施しをしたとか。早速評判になっておりますよ」

 徐粛は、茶目っ気たっぷりに微笑む。持ち上げて気持ちよくさせようという意図は見え透けていたが、どこか憎めない愛嬌があった。生まれつき人に愛される術を身につけた人間なのだろう。加えて、徐粛は声がいい。柔らかな笛の音色のようで、聞く者を心地良くする声だった。昔話を子供に語れば、どんなむずかり屋でも、雲に抱かれたような心地になってすぐに寝入ってしまうだろう。だが、西門豹は本能的に、経験的にその声を警戒した。人をうっとりとさせて騙す詐欺師の声だと感じた。

「たいしたことではありません。彼らの暮らしぶりは実に憐れでした。胸が痛みます」

「洪水のせいです。河伯様の怒りが激しすぎましてな。なかなか鎮められません」

 徐粛は、もっともらしく頷く。西門豹は、もし龍神がいるなら真っ先にあなたを絞め殺すだろうと毒づきたくなるのをぐっとこらえ、

「効き目がないのなら、河伯祭などやらなくても同じではないでしょうか」

 と、冷たくあしらった。目には傲岸不遜ごうがんふそんともとれるさげすみの色さえ浮かべている。民の暮らしをかえりみない軽薄さを、憎まずにはいられなかった。

「とんでもない。やめればこの町はおしまいです。この土地の古くからの俗諺ぞくげんに『もし河伯様に妻をめとらせなければ、大洪水が起きてすべてが水底へ沈み、民はすべておぼれる』と言います。毎年必ず河伯祭を催して、嫁を送らなくてはなりません。まさか、西門様は反対するおつもりではないでしょうな」

「龍神を祭るのはかまなわないのです。信仰ですから」

「県令様はわかっていらっしゃる」

 徐粛は、安堵の表情を浮かべた。

「ですが、はっきり申し上げましょう。民からの費用徴収は反対です。民は疲弊ひへいしています。私はこれまでに何度も飢饉に見舞われた農村を視察したことがありますが、あれほどの荒れ果てようは初めて目にしました。洪水もさることながら、河伯祭の費用負担が重くのしかかっているからです。負担を免除して、民を休ませるべきです」

「河伯祭は金がかかるのですよ」

「ならば、儀式を簡素にして、費用を抑えればよいではありませんか」

「格式というものがございます。河伯様は神のなかの神ですぞ。そこらの貧乏神と同じにしては叱られるでしょう」

「では一度試してみようではありませんか。儀式を簡略にしてみて、もし本当にもっとひどい洪水が起きれば、以後私は喜んで三老殿の意見に従いましょう」

「大洪水が起きてからでは遅いのですよ。この地を守るためにやっていることです。皆の協力が不可欠なのです」

「民よりも龍神のほうが大切だとおっしゃるのですか。三老殿は痩せ細った民を見て、なにも思わないのですか」

「もちろん、心を痛めておるのは私とて同じことです」

 徐粛はしれっと言う。

 ――愚問だったな。

 西門豹は、心の内で舌打ちした。罪の意識がないのは、初めからわかっていた。三老は集めた費用を私することを、当然の特権としか思っていない。民の暮らしぶりは目に入らず、有力者の仲間うちでどう利益を分かち合うのか、それしか興味がないのは明らかだった。人間は欲に駆られれば、なんでもする。誰でも平気で踏みにじる。

「心を痛めているのなら、もっと広い見地に立って考えていただきたい」

「立っておりますとも。都からこられた西門様は奇異に思うかもしれません。が、我々は河伯様とともに生きております。俗諺はいわれないことではありません。古人の知恵でありましょう。河伯様を盛大に祀るのは、我らぎょうの民にしてみれば大切な常識なのです」

 徐粛は嫌な顔一つ見せず、書物の講義でもするように穏やかだった。

 ――なにが常識だ。

 西門豹は腹立たしかった。己の利益のために常識という言葉を振りかざす人間を日頃から嫌悪していた。常識と決めつけて相手の思考を奪い、理性の営みのことごとくにふたをしてしまって相手を自己の支配下に置こうとする薄汚いやり口を蛇蝎だかつのごとく嫌っていた。

 ――確かにあなたは偉大な常識人だ。自分がかわいいのも常識。うまい汁を吸いたいと願うのも常識。仲間に利益を分け与え、ちやほやされたいのも常識。人間の自然な感情に違いない。だが、あなたの常識とはなんだ。ただの己の欲ではないか。それが地位のある人間の「常識」なのか。

 そう痛罵つうばしてやりたかったが、もちろん言えない。そんなことを口走れば、相手がどんな反応を示すかは、経験を積んだ西門豹には容易に予想がついた。相手を怒らせるのが目的にしても、論法と言葉は慎重に選ばなくてはならない。直截ちょくせつにものを言いすぎて何度も左遷の憂き目に遭った西門豹は、骨身にしみてわかっていた。

「常識を守ることは大事なことでしょう。それはわかります。しかし、常識を守るやり方には二通りあります。一つは常識をなにも疑わず墨守ぼくしゅすること。それがよいものであろうと、悪いものであろうとおかまいなしにです。もう一つは、その常識が正しいものなのかを常に疑い、なんのためにその常識があるのか、その本質を考え、常識のよい部分を守ろうとすることです。どちらがよい方法なのかは、言わずもがなでしょう」

「いや、参りました。なかなか舌鋒ぜっぽう鋭いですな。歴代の県令様のなかでも、西門様の頭の回転の速さは抜群ですよ。おそらく、およぶかたはいますまい。稀有けうの人材が我が城市へこられたことを私は嬉しく存じます。いや、まったく」

「私はお世辞が聞きたくて話しているのではありません。徐粛殿、この地を治める処方箋は、はっきりしています。民の生活を少しでも落ち着かせ、しかる後に、民を大規模な治水工事に動員するのです。そうすれば、洪水も飢饉もなくなり、皆救われるでしょう」

「まあまあ、そう勝手なことを申されても困りますな」

 徐粛はあくまでもにこやかに、そしてその表情に微量の渋みをにじませながら、きかん気の小僧をなだめるように言う。

「勝手なこととは、どういうことですか」

 西門豹は気色ばんだ。獰猛な野獣の唸りに似た凄みがある。だが、徐粛は大様な態度を崩さない。

「着任早々でやる気なのはわかります。が、冷静になっていただきたい。私からも申し上げておきましょう。河伯祭は我々の祭りです。いくら県令様とはいえ、余計な口を挟まれては、地元の者は黙っていられません。治水工事はぞんぶんになされればいい。ですが、工事を請け負うのは我々ぎょうの者です。西門様が我々を理解してくださらなければ、全面的に協力できないでしょう。そこのところをお忘れなく」

「私はより多くの民が幸せになるためにはどうすればよいのか、それを考えているのです」

「きつく響いたかもしれませんが、ここでよりよくお過ごしいただくために、老婆心ながら申し上げたこと。そう喧嘩腰にならずに、まずは仲間になろうじゃありませんか。西門様はまだこの土地のことを知らないのですよ。河伯様は洪水を起こすだけではありません。恵みももたらしてくれるのです。龍がいなければ、雨は降らないのですから」

 徐粛は思わせ振りに言う。恵みの雨とは河伯祭の分配金だ。

「私の考えがわかってもらえるまで、何度でもお話するつもりです」

 西門豹は譲らなかった。並の県令ならそれで丸めこめるのかもしれないが、私は違うと言ってやりたかった。

「いいですとも。話し合うことが大切ですからな。もっとも、堅苦しくせずに、酒でも飲みながら気楽にお喋りしましょう。きっと我々のことを理解してくださると思います。お忙しいところ、長居してしまいました。ではまた」

 徐粛は、桃の花でも眺めるようになごやかな微笑みを浮かべて去った。

 隣の部屋から張敏が出てきた。緊張した面持ちをしている。

「冷やひやしました」

「聞いていたのか」西門豹は言った。

「盗み聞きをしたのではありません。お声が大きくて、部屋中に響いていましたから」

「あれくらいでひるむな。向こうは海千山千だ。こちらが挑発しても、迂闊に乗って話がこじれるような真似はしてこない。今までどんな県令がきても、そのたびに抱きこんできた自信もあるだろうしな」

 西門豹は思いを巡らすようにして腕を組み、硬く唇を結ぶ。

「わざと喧嘩をふっかけたのですか」

「そうだ。正攻法では、こちらに勝ち目はない」

「どういうことでしょう」

 張敏は眉間に浅い皺を寄せ、首を傾げた。

こんの話は知っているな」

「はい。洪水を治めたという神話ですね」

「鯀は自然の摂理に背いて河をせき止め、山を崩し、沢を埋めようとして、失敗した。つまり、力押しではだめだったということだ。鯀の後を引き継いだ禹は、天地に従い、河の勢いをたすけて、水の流れをよくしたから、治水に成功した。力ずくで困難を押さえこむのではなく、逆に相手の力をうまく使ったのだよ。洪水対策も、県を治めるのも同じことだ。相手の力が大きければ大きいほど、その逆手を取ることを考えねばならない」

「しかし、さきほどの西門様は力押しのように見えました」

「相手は、真綿でくるむようにしてこちらをとりこむつもりだ。ずるずるとやられたのでは、相手の力を利用できない。だから、怒らせて反発を引き出そうとしたのだ。圧力をかけ続ければ、必ず向こうも負けずに押し返してくる。その時が好機だ」

「そうでしたか。ですが――」

 張敏は、納得と困惑が入り混じった表情で不安そうに言葉を濁す。

「賭けなのはわかっている。だが案ずるな。成功させてみせる。弱い者いじめは許さない」

 西門豹は、世界中が束になってかかってきても決して屈しないとでも言いた気に、異相の頬に不敵な笑みを浮かべた。


 二週間経った。

 その間、地元の有力者たちの宴席に三度招かれた。

 毎回河伯祭の費用徴収をやめるべきだと自説をぶち、利権を侵害されると憤った有力者と口論になった。彼らの反論はどれも徐粛の言い分と瓜二つだったが、なかには「我々の利益をどうしてくれる」といったことをぽろりと漏らす輩がいる。そんな時、それこそ西門豹は容赦しなかった。杯を満たした酒がこぼれるのもかまわず分厚い掌でテーブルを一撃し、ぴんと立てたごつい人差し指を怒りに震わせ、「どういう意味かはっきり言っていただきたい」と凄味をきかせた低い声で詰め寄った。もちろん、彼らが本当のことなど吐くはずもない。体面が穢されたとしかめっ面をして、押し黙るのが常だった。

 有力者たちの反発に西門豹は手応えを感じた。狙い通りだ。しかし、肝心の徐粛は動ずる気配を見せない。

 酒の味も菜の味もわからなくなるほど剣呑けんのんな雰囲気が高まると、徐粛は人をそらさない愛嬌を振りまき、そつなく介入してくる。巷の食糧難もどこ吹く風と贅沢な馳走を並べた宴席には、それだけでほっとした空気が流れる。誰もが三老の調停を待ちわびていたのだ。おそらく、徐粛はそれを承知のうえで、ここぞという場面で登場して威厳を示そうと目論んでいるようだった。

「西門様は文侯の命によって赴任されたのですぞ」

 と、徐粛はわざわざ文侯の名を出して西門豹に花を持たせ、町の仲間に対しては中央政府の影をちらつかせながら軽々しく対立するなと注意を促す。そして間髪入れず、西門豹とやり合った者に向かって「あなたは我らの良識を守ろうとしてくれた。功労者ですぞ」などと持ち前の柔らかい声で世辞を言う。それだけにとどまらず、意味のなさそうな誉め言葉をよどみなく連ね、果ては「あなたのご子息は、この町で一番珠算がお上手だとか。なるほど、この父あっての息子さんですな」などと噴飯ものの追従まで並べる。

 ――この分ではそのうち、一番手鞠が上手だとか、一番はいはいがうまいなどと言い出しかねないな。

 西門豹は半ば呆れ、半ば妙に感心してしまった。

 誰でも自分の子供が誉められれば嬉しい。徐粛は単にその親ばかを利用しただけなのだが、有力者たちはだらしないほど機嫌を取り戻す。西門豹は、今更ながら人間がおべっかにどれほど弱いかを思い知らされた。どうやら徐粛は、よく言えば天性の調停者、やや侮蔑的ぶべつてきな表現をすればこの町随一の太鼓持ちだった。

 徐粛は、鶏の餌付けでもするように手際よく有力者のエゴをなでて気分よくさせてしまうと、得意の諧謔かいぎゃくで白けた座を再び盛り上げ、いとも簡単になにごともなかったかのような雰囲気を作り出してしまう。宴会の賑わいのなかで取り残された西門豹は、黙々と手酌酒を飲むよりほかになかったが、それでも落ち着いていた。暖簾のれんに腕押しのように思えても、こうして有力者を締め上げ続ければ、いつか徐粛も動かざるを得ない。そう睨んでいた。

 西門豹は、一方で県庁の改革を進めた。

 癒着と馴れ合いで運営してきた県庁には、問題点が多い。

 手始めに余剰人員を整理した。前任者は有力者の子弟や親戚の就職口を作るために、不必要な部署やポストを増設しては彼らを受け入れていた。職員が多くなれば、彼らを養うために民の税負担が増える。すべて調べ上げ、百二十一人を解雇した。

 当然、抗議が殺到した。

 今朝もその対応に追われた。

 四十代半ばの男が官職を得るために前任の県令に支払った一万銭を返せと怒鳴りこんできた。頭の真ん中がきれいに禿げ上がったぎょろ目の男で、我が強く気難しそうだった。

 前任者は就職先を用意しただけでなく、それを売りさばいていた。

 このような売官ばいかんは、県令が手っ取り早く金を得たい時の常套じょうとう手段だった。だが、県令には相当な実入りになっても、県政にとってみれば弊害ばかりが残る。官職を銭で購った者は、早く元手を回収して利益を上げようと汚職に励む。もともと俸給が目当てではなく、そのポストの職権を資本にして、金儲けを図るのが目的なのだ。つまり、権力を金に換えるのである。この現象が高じれば、職員は付け届けのある仕事しかこなそうとせず、ひどい場合には恐喝まがいの嫌がらせをしてでも賄賂を手に入れようとする。役所の機能は麻痺し、泣き寝入りするのはまっとうに生きる庶民だった。

 西門豹は、このような無道な訴えの対処法を編み出していた。

 張敏を相手のもとへ遣わし、県庁を相手取って不当解雇の訴訟を起こすよう勧める。おおかたの場合、相手は怒りで頭へ血が上った状態なので、訴えてやろうじゃないかとすぐに応じる。ぎょろ目の男も例外ではなかった。張敏が指導して、その場で訴状を書かせた。もちろん、職を買ったことも漏れなく記入させる。これが肝心な点だ。それさえきちんと書いてあれば、多少書類が整っていなくとも時を置かずに審理を開始する。

 西門豹は、狭い庭に面した縁側に小さな文机を置いて坐った。原告が姿を現し、むしろに正座する。西門豹は脇息に肘を乗せ、あごに手を当て、ときどき頷いてみせながら男の訴えを一通り聞いた。

 男が警察の武器管理の役職を買ったと証言した時、それまで一言も口を利かなかった西門豹は、

「なに」

 と、声を荒げて男の熱弁をさえぎった。

「もう一度申してみよ」

「だから、俺は一万銭をはたいて前の県令様に納めたんでさあ。有り金を全部出して、親類にも金を借りたんですぜ」

 男は悪びれもせずに大声を放つ。

「証文はないのか」

 西門豹は、内心ほくそ笑んで訊いた。ことは順調に運んでいる。

「そんなもんないけどよ、信用の問題じゃねえか」

「では、確かなのだな」

「嘘なんてついてねえよ」

「この男を捕らえよ」

 西門豹は警備員に命じ、男に縄をかけさせた。男は暴れて逃げ出そうとしたが、すぐに取り押さえられた。

「訴えにきたのは俺なんだぜ。なんてことをしやがるんだ」

「貴様は官職の売買が法に触れることを知らないのか」

 ぎょろ目の男は嘘だろとでも言いた気な顔で知らないと答え、皆やってることじゃないか、県庁に勤めるにはそれしか手立てがないじゃないかとまくし立てる。腐敗がひどく進んだ地域では往々にしてあることだった。金儲けだけが基準になり、善悪の区別がつかない輩が増える。規範を内在しない人間の悲惨な茶番だった。西門豹は、自分は一度も官職を売ったことなどない、知らなかったではすまされないとにべもなくはねつけ、

「刑はどれほどになる」

 と、傍らの張敏に尋ねた。

「はい、鞭打ち五十杖です」

 張敏も心得たもので、澄まし顔で台本通りに答える。

「賄賂もかなり取ったことだろうな。余罪も追及せねばなるまい」

「おっしゃる通りでございます」

「な、なに言いやがるんだ」

 男は、ようやくことの重大さを飲みこんだようだ。ぎょろ目をむき、慌てふためいている。解けるはずもない縄を振り解こうとする背中を、警備員がかしの棒で打ち据える。被告はどっと前のめりに倒れ、折り曲げた体をばたばたと跳ねながら、まな板の上の鯉のように口をあえがせる。調理法は決まっていた。

「どうしたものかな」

「まずは笞刑ちけいを執行し、再度取り調べるのが妥当かと存じます。買官ばいかんの罪は確定していますから」

「そうしてくれ。ところで、余罪を調べるとどうなる」

 西門豹は目の端で男をちらりと見遣り、聞こえよがしに言った。

「これまでの類似の案件を考えれば、のこぎり引きはまず免れないところでしょう」

 鋸引きは、罪人の体を首だけ出して土中に埋め、通行人に鋸で首を切らせるという残酷な刑罰だった。

「ひぃ、人殺し。助けて」

 男は、引きつった叫び声を上げた。

「罪を犯したのは貴様だ。反省せよ」

 西門豹は一喝した。みっちり取り調べたうえで正式に処分してやりたかったが、そんな余裕はない。男は、はらはら涙を流す。

「この男が訴えを取り下げれば別ですが、さっき申しました手順で執り行ないたいと存じます」

 張敏はさり気なく言う。

「取り下げる。わかった。取り下げるぜ」

 男は、裏返った声で哀訴する。禿げ上がった頭頂にも皺が寄りそうなほど必死だった。

「そうか。では、仕方ないな」

 西門豹は、さも惜しそうに吐き捨てた。警備員が男をなおらせる。

「殺されるところだったよ。まったく危ねえったらありゃしねえ」

 男は、ぎょろ目を閉じて首を振った。

 ――鞭打ち五十杖!

 そう叫びたくなるのをこらえ、西門豹は世の道を諄々《じゅんじゅん》と説いた。だが、男はりた様子も、悪いことをしたという最低限の認識さえもなかった。西門豹は、ふっと虚しさを覚えた。動物的欲望だけで生きてきた四十路半ばの男に説教したところで、心の形が変わるはずもない。思えば、この城市まちの有力者も似たり寄ったりだ。とはいえ、腐った輩だからといって相手を見放すわけにもいかない。小一時間ほど油を絞り、男を釈放した。


 午を告げる太鼓が鳴る。

 食堂へ向かう役人たちのざわめきが、開け放した戸口から入りこんでくる。

 西門豹は執務室の机に向かって書類に目を通しながら、あんころ餅へ手を伸ばした。いかめしい風貌からは想像もつかないが、西門豹は甘党だった。仕事が押し詰まると西門豹は好んで餡ころ餅を用意させた。食べると頭の血の巡りがよくなり、疲れた脳がすっきりした。小さくかじり、大きく口を動かしてよく咀嚼そしゃくする。傍目はためには、貴重な珍味を惜しみながら食べているようにも映る。幼い頃、保母の婆やが遮二無二しゃにむに食べようとする西門豹を何度も叱りつけ、正しい食べ方を繰り返ししつけたおかげでそんな癖がついた。

 昼食は餡ころ餅で手軽にすませ、夕方までに溜まった書類を片付けてしまいたかった。ここ数日、昨日のような訴訟に時間を取られ、執務が滞りがちだった。明日こそ時間を作り、巫女の村を訪れたかった。

「よう、精が出るな」

 李駿の声だった。西門豹は、ゆっくり餅を嚥下えんかして、

「知らせをくれれば迎えをやったのに」

 と、言いながら椅子を勧めた。口に物を入れたまま話してはいけないと厳しく教えられた。食べ方に関しては妙に育ちのよさがある。

「そんなのいいんだよ。えらいさっぱりしたよな。壺も掛け軸もみんなしまったのか? 竹簡ばっかりで書生の部屋みたいだな」

 机を挟んで向かいに腰かけた李駿は、飾り棚を取り払って書架を並べただけの殺風景な執務室を見渡す。

「売った」

「全部?」

「そうだ。あんなもの不要だ。前任者は贅沢品で部屋を飾るのがよほど好きだったようだが、ここは美術品の展示室ではない。それに、たぶん賄賂の品だろう。見るだけで胸くそが悪くなる」

「お前らしいや。売った金はどうしたんだよ」

「蔵に置いてある。いずれ治水事業を始めるとなれば、いくら金があっても足りないからな」

「そんなのお前が頂いとけばいいじゃないか。役得だろ。誰もとがめないぜ」

「自分がとがめる。人がなんと言うかは関係ない」

「まあいいや。損したければ、勝手に損しろよ。だけどさ、おせっかいかもしれないけど、なんか高そうなものでも置いといて、俺は県令だぜってところを見せておいたほうがいいんじゃないの。こんな貧相な部屋で仕事してたら軽く見られるぜ」

「ここでは人と会わないから体面をつくろう必要もないだろう。応接用の部屋は豪華なままにしてある。――彼女を連れてきたのか」

「それもあるけど、今回はお上のご命令できたんだ。豹の様子を見てこいとさ」

「なにがあった」

 西門豹は、くぼんだ眼窩の底の目をしかめた。

「お前が不正してるって、この町の者から密告があったんだよ。お上としては調べないわけにはいかないさ」

 李駿は、文侯から授かった印綬いんじゅを見せる。話を聞くと、根も葉もない訴えは宴席で言い合った有力商人からのもので、西門豹にやりこめられたことに対する腹いせのようだ。

「なるほどな。だが、それで駿を検察官に任命したのだから、お上は本気で調べるつもりなどない。調査したという形だけ整えて事実無根としたいのだろ」

 西門豹は愁眉しゅうびを開いた。召喚しょうかんでもされれば、都で面倒に付き合わされているうちに河伯祭を過ぎてしまうだろう。今までの努力が水泡に帰してしまう。

「そうだけどさ、お上だってわかっているけどさ、落ち着いてる場合じゃないよ。都はお前の件で大騒ぎだったんだ。豹は敵が多いからな。足を引っ張りたがっている連中は山ほどいるんだぜ。自分でもわかってるだろ。お上がかばいきれなくなったらどうする? もうちょっと敵を作らずにうまくやれよ」

「敵を作る作らないは関係ない。肝心なのは、なんのために、誰のために、なにをするかだ。それで敵ができるならしょうがない。私は信念を貫くだけだ。自分の損得勘定しかしない奴らが敵に回るならそれでいい」

 西門豹はきっぱり言い切った。理想と信念さえ見失わなければ、どこにいても、なにがあっても自分が自分であり続けられる。そう信じていた。

「やれやれ。豹はいこじすぎるよ。もうちょっと損得勘定をしたほうが身のためだぜ」

 李駿は首を振る。

「西門様、遅くなりました」

 張敏が市場から帰ってきた。市場では様々な階層の住人が話に花を咲かせ、あるいは議論を戦わせ、世論を形成する。その動向を探るように命じておいたのだった。張敏は、李駿に「お久し振りです」と挨拶をして席につく。

「どうだった」

 西門豹は訊いた。

「どの者も西門様を口汚く罵ります。極悪非道な冷血漢だとの評判が広まっていて、ひどい言われようです。ついこの前までは民をいつくしむよい県令だと持ち切りだったのですが」

「噂に振り回されるのは人間のさがだ。とくに悪い評判はすぐ信じたがる。しょうがない」

「どうも、誰かが悪い噂をき散らしている模様です」

「三老の配下だろうな」

「調べてみます。ただ、民は不満のはけ口として西門様の悪口を言っているとしか思えません。やはり、根本の原因は生活の厳しさからくる抑圧の鬱積うっせきだと思います。いくら稼いだところで河伯祭の費用としてほとんど持っていかれるわけですから、その鬱屈うっくつは相当なものです。とはいえ、三老様や地元の旦那衆を悪く言うわけにもいかず、よそ者の西門様を標的にしているのではないでしょうか」

「今は仕方ないな。うまく運べば、わかってくれるだろう」

「ばかばかしい。お前を叩いて憂さを晴らす奴らなんて、助けてやることないだろ」

 李駿が口を挟む。

「そんな言いかたはよせ。皆苦労しているんだ。彼らを救い導くのが私の仕事だ」

 西門豹は、むっとして眉間を歪めた。

「よさないよ。むかつくだろ。言っとくけど、豹がここの開墾に成功して奴らの暮らしがよくなったって、奴らは感謝しないぜ」

「どうしてだ」

「決まってるじゃないか。うまく行ったら全部自分の手柄。自分の能力が高いから成功したんだって思うもんだ。逆にうまくいかなかったらなんでも人のせい。お前の責任にされるんだよ」

「確かにそういうものかもしれない。だが、そんなことはどうだっていい。なすべきことをやるだけだ」

「わかったよ。正義の味方はお前に任せた。とにかく、俺は三日ほど滞在していろいろ調査したことにするから。――張敏、明日馬車を貸してくれないか。彼女と出かける」

「手配します。それでは」

 張敏が退出しようとすると、小間使の女がやってきて張敏に耳打ちする。

「三老様がお見えのようです。なんでも急ぎの件とか。食事時になんでしょうか」

 張敏は、腑に落ちない顔で西門豹へ告げる。

「いよいよ向こうが動き出した。お通ししろ」

 西門豹は挑むように眼を光らせ、太く張った声を響かせた。


 いつものように母屋の中央の間で会った。

 徐粛は、甥にでも接するように親し気な笑顔を浮かべる。嫌味のないその笑顔を見れば誰でも徐粛を信じるだろうと、西門豹はふと思った。

「大変なことが起きました」

「どうしました」

 西門豹は、ことを起こしたのはあなただろうと腹の中で冷ややかに思いながら、射抜くような目で老人を見据えた。

「溜池のほとりで龍の化石が見つかったのです」

「珍しいものではないでしょう。龍の骨なら煎じて飲んだことがあります。子供の頃、病気をした時に母があがなってくれました。もっとも、正真正銘の龍の骨なのかどうか、私は存じませんが」

龍骨りゅうこつ」と称する薬は、値段は張るものの比較的簡単に手に入った。市へ行けば行商人が売っている。熱病や中風などの特効薬として用いられた。

「それは龍骨のかけらですな。私も時々飲みます。見つかったのは、龍の全体がそっくりそのまま残っている化石なのですよ」

 徐粛は「本当に大きいのですよ」と両手をいっぱいに広げながら、孫を遊びに連れ出そうとする爺やのように目尻に笑い皺を作る。西門豹はどこを見るわけでもなく、黒曜石のような瞳を小刻みに動かした。徐粛がなにを企んでいるのかはわからないが、相手の手に乗ってみなければ事態は動かない。掌で太股を叩き、

「見てみましょう」

 と、言って案内を頼んだ。徐粛は、願ったりかなったりだと頷く。

 二人は、城市からさほど遠くない現場へ行った。

 なんの変哲もない、ひなびた池だった。広さは半里(約二百メートル)四方といったところだろうか。若草が静かに周囲を覆い、藤色のこまかい花が咲き乱れていた。のびやかな春風が水面にさざなみをたて、こぶ牛の水浴びする姿が遠く見える。向こうの池の縁沿いに崩れた低い土塁が続いていた。その昔、ここには小さなゆう(城壁で囲った集落や町)があり農民が住んでいたのだが、ずいぶん前に打ち捨てられ、廃墟になっていた。池はかつての邑の貯水池だった。

「あそこです」

 徐粛が指差す。

 池の一角に純白の幕が張ってある。幕は風をはらんでは鳩の胸のようにふくらみ、息を吐き出すようにそっとしぼむ。傍には角材が積み上げられ、大工がかんなをかけていた。風に煽られた削り屑が浪の花のように舞い上がる。もっこを担いだ人夫がその下を無造作にくぐり抜ける。

 二人は幕の内へ入った。

「どうです。素晴らしいではありませんか」

 徐粛は感に堪えない声を上げ、豊かなあごひげを自慢気にしごく。

 龍の形をした大きな骨格が黄土の上に横たわっている。

 西門豹はわずかに右の眉を吊り上げただけで、なにも言わない。化石の頭で立ち止まって両足を揃え、ぶんまわしのように正確な歩幅で足を進めて尻尾の先までの長さを測った。六歩(約六メートル半)あった。西門豹は振り返り、再び全体を見渡した。化石は、磨き上げた大理石のようにまぶしい光沢を放っている。長年土の中に埋まっていたものとはとても思えない。不自然にぎくしゃくと曲がった背骨は、童が描いた絵にも似てまるで玩具のようだ。

「立派なお姿でしょう。昇龍のようですな」

 徐粛は、満面に笑みを浮かべた。

「お言葉ですが、そんな風には見えません。私には空の真ん中でまごついて失速した龍のように見えます。さしずめ空を昇りきれない昇り龍、もしくは墜落中といったところでしょう。徐粛殿、どうやって埋めたのですか」

 険しいまなざしのまま西門豹は言った。徐粛は、からからと愉し気な声を上げる。冗談だと受け取ったようだ。

「そんな畏れ多いことはいたしませんよ」

「龍ではなく、ただの大蛇かもしれませんね」

「そんなことはございません。そこを見てください」

 徐粛は溌剌はつらつとした風情で小走りになり、化石の胸のあたりに近づいた。

「ほら、足があるでしょう。蛇には足がありませんよ」

 確かに、足の骨があった。太い足指が三本伸び、指先にはざっくりとした鉤爪かぎづめまでついている。

「爪まで念入りにこしえらたのですね。顔はどう見ても牛のようですが」

「龍も顔が長いから似たような形になるのでしょう」

 徐粛は、しゃあしゃあと言ってのける。

 ――証拠と証言さえ揃えられれば、龍の化石を偽造して民をたぶらかした罪で逮捕することもできるな。手荒な真似はあまり気が進まないが。

 西門豹は、化石の一点を睨みながら心の内で考えをめぐらした。最善の策は逮捕によって徐粛の権力をそぐことではなく、彼が自分に協力せざるを得ないよう仕向けることだった。

 ――だが、とりあえず張敏に命じて極秘裏に捜査させるか。逮捕に踏み切る必要が出てこないとも限らない。いずれにせよ、選択肢は多いほうがいい。

 西門豹は腹を決めた。

「まだ私が埋めたとお疑いですかな」

「ええ」

 西門豹は、張り出した頬に薄笑いを浮かべた。徐粛は、我々は同志だろとでも言いた気になれなれしく西門豹の肩を抱き、

「この池で釣りをしていた者が偶然見つけたのです。が、まったくの偶然だとも思えません。河伯様が私たちになにかを伝えたくて、このお骨をお見せになったのではないでしょうか」

 と、耳元へささやきかける。

「と言いますと」

「私は、河伯様が自分たちをもっと大事にしてくれと言っておられるような気がする。私財を投じてここに立派な祠を建て、この龍神様を祀るつもりです。ぎょうの民のためにそうするのです。故郷に貢献したいのですよ」

 徐粛は、自分の言葉に酔っていた。

 ――だいたい詐欺師はまず自分を騙して己の妄想に酔いしれるものだ。自分に嘘を信じこませれば、他人を騙しやすい。はたから見れば、嘘をついているようには見えないからな。

 西門豹は徐粛を一瞥し、

贋物にせものを祀ったところでご利益などないでしょう」

 と、素っ気なく言った。

「本物ですよ。そう決めつけずに、我々の河伯様に対する熱い想いを理解していただきたいものですな」

 徐粛の配下が彩の到来を告げた。

「西門様、彩様の意見を聞こうではありませんか。彩様が本物と言えば、納得なさるでしょう」

 徐粛は自信たっぷりだ。

「いいでしょう。彩殿の霊力の高さは私も認めます」

 西門豹は、もっともだと頷いた。

 彩が現れた。

 大きな鷺羽を一枚、髪に挿している。よく似合っていた。

 彩は、近所の人に挨拶するようにごく自然な親しみのこもった顔で微笑んだ。西門豹は照れくさくもあり、嬉しくもあった。西門豹も近所の子供の様子を聞くようにこの間の男の子の様子を尋ねた。順調に恢復かいふくして、今ではすっかり元気だと言う。龍骨の正体を調べて欲しいと頼むと彩は快諾した。

 彩は細長い棒の先を器に入れた清水にひたし、呪文を唱えながら弾くようにして棒を振る。きれいな弧を描いた水滴が化石に振りかかる。軽く目をつむった彩は頭を垂れ、じっと精神を集中させて交霊した。

 ふっくらと丸みを帯びた体の周りで、ふっと気流が揺れる。目に見えない微細な波が広がる。清楚な花の香りが西門豹の鼻をった。彩の心の香りだと感じた。

 ――どこか似ている。

 西門豹は、遠い記憶をまさぐった。そして、少年時代にあこがれた理知の世界の清明さに似通っていると思い当たった。神々を見つめる心と澄んだ論理の二つがどう結びつくのか、そこまではわからない。ただ似ていると感じた。

 十代の頃の西門豹は、理知の世界にこそ真善美がある、そう信じて万巻の書物を読み、師と問答を交わしたものだった。その時に学んだことが、血となり肉となり、心の芯になった。しかし、官吏として生きる日々は、当然のことながら青年期に形成した信念をたやすく実践できるほど容易ではない。もし今ここで彼女を抱きしめれば、現実世界にまみれるなかで失ったすべてを取り戻せるような、そんな想いにも囚われた。

 やがて、彩は大きく息をつき、

「龍神さまの姿は感じませんでした。この化石に牛と亀の霊が憑いているのはわかるのですが」

 と、汗ばんだ額を手の甲で拭った。

「なにかの間違いでしょう」

 徐粛は、とぼけた甲高い声を出す。

「いいえ、龍神さまではありません」

「彩様、どう見ても龍の形をしているではありませんか」

「それはそうですが」

 彩は杏子あんずのような目をかげらせ、困った風に首を傾げる。誰かが故意に埋めたとは、疑いもしないようだ。巫女として純粋培養された年若の彩には俗世の狡知こうちが見えないのだろう。

「彩様、民は龍神様のお骨が出てきたと言って喜んでいるのです。そのようなことをおっしゃられては皆悲しみます」

「恐れおののいている者もいるでしょうね。彩殿が違うと言うのですから、やはり贋物でしょう」

 西門豹は割って入り、冷静に諭した。

「なんですと」

 常におおらかに振舞っていた徐粛が初めていらついた顔を見せた。彩に本物でないと言われ、かなり動揺している。

「贋物の龍を祀るのはいかがなものでしょうか。徐粛殿の沽券こけんに関わると思いますが」

 西門豹はあくまでも穏やかに言ったが、徐粛は顔を真っ赤にしてなにも言わない。

「民を正しく導くのが三老殿の役目のはずです。無理が通れば道理が引っこむと申します。よく考えていただきたい。それに、彩殿が困っているではありませんか」

「彩様も彩様だ」

 徐粛は、怒ったようにつぶやく。

 ――世の中の人間は、皆自分に都合のよいことしか言わないものだと思いこんでいるのだな。猿と同じだ。なにが正しいかなどと考えようともしない。他人は自分が利用するためだけにいるとしか思っていないのだろう。

 西門豹は唇を噛み、腰に下げた韋を揉んだ。韋の表面に波紋のような皺が寄り、きゅっと軋んだ音が鳴る。

「彩殿は本当のことを言ったまでのこと。とがめるのは筋違いと言うものでしょう。彩殿は神々に仕える身ですから、嘘をつけるはずがないではありませんか。そんなことをすれば、神罰が下ります」

「口出ししないでいただきたい」

 徐粛は老人の癇癪を起こし、きっと唇を歪めて西門豹を睨み据える。

「彩殿は気兼ねして言えないから、私が代わりに申し上げたのです」

「これはぎょうのことであって、あなたには関わりのないことですぞ」

 徐粛は、西門豹に背を向け、

「彩様、明日鎮魂祭を行ないます。よろしいですか。民のために祈ってください。彩様が祝詞を上げれば、皆心安らかになるのです」

 と、拝み倒さんばかりに繰り返した。西門豹がいくら止めようとしても聞く耳を持たない。

 結局、彩は祈祷を上げることになった。皆のためと言われれば断りきれなかった。西門豹はまだ打ち合わせが残っている二人を置き、先に帰路へついた。

 彩が名付け親になった蒼風を走らせる道すがら、

 ――徐粛はやっと挑発に乗ってくれたな。本気で怒らせたから成果は十分だろう。

 と、今日のやりとりを思い返しながら総括した。しかし、ふと、彩と徐粛は今頃どんな話をしているのだろうかと考え、なんとも言えないざらつきを心に覚えた。

 ――鎮魂祭を止めらなかったのは心残りだった。彩殿は道化師もいいところだな。気の毒なことをした。

 ああして、彩は大人たちの喰い物にされてしまうのだろう。考え方や立場は違っても、神々へ捧げる彩の純粋な想いを大切に守ってあげたかった。人類の理想から程遠いこの不完全な世界にあって、それはかけがえのない想いなのだと西門豹はっていた。もちろん、そのからくりは重々承知のうえでだ。彩の純粋な想いは、いわば嘘だ。嘘と言うのがきつければ、作り話だ。彩の想いは、現実を蒸留に蒸留を重ねた後でしたたる極上の美しい作り話の滴だ。虚構の結晶だ。いくらきれいに思えても、神々や理想などはしょせん御伽噺にすぎない。だが、人は皆汚辱にまみれているからこそ、そのようなものが不可欠なのだとわかっていた。人の心の良質な部分を永遠に支えるのは、この世にはあり得ない純度一〇〇%の作り話にしかできない。それがあるからこそ、人間は人間であり続けられ、他人を幸せにすることもまた可能なのだ。このままでは、その清らかな一滴を徐粛らによって薄汚い錬金術の道具にされてしまう。

 光が目に射しこむ。はっと心を打たれたような気がして、西門豹は蒼風を停めた。

 溶鉱ようこうのように煮える落陽が黄色い大地の向こうへ落ちてゆく。

 西門豹は、喰らいつきそうなまなざしを夕陽へ投げかけた。

 ――理性を鍛えろ。焼けたはがねを鍛えるように、思考を鍛えろ。考え抜け。大切なものを守るためにどうすればよいのか、考えるのは己しかいない。立ち上がるのも己しかいない。

 心の底に得体の知れない力が湧く。それはたぎる闘志のようでもあり、破壊的な暗い衝動のようでもあった。

 明日の朝、太陽が東の地平線から生き返れば激しい戦いが始まる。そんな予感に駆られ、西門豹は巨躯を震わせて雄叫びを上げた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ