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西門豹  作者: 野鶴善明
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第二章

 慌ただしい日々を送った。

 連日、長老たちや大店の商人や工場経営者といった地元の有力者が入れ換わり立ち換わり挨拶にやってくる。西門豹は、彼らとの面会に追われた。

 志を同じくする地元の協力者が欲しかったが、おもねりびて取り入ろうとする者ばかりで、これはと思える人物には出会えない。彼らは、西門豹を都へのパイプ役として利用したいだけだった。彼らとのやりとりはどうにも退屈でひまわりの種でもかじりながら適当にあしらいたかったが、そうもいかない。訪問客が差し出す近づきの印の品をやんわり断り、退屈も仕事のうちと割り切って折り目正しい県令を演じた。

 そんなある日、気になる客が西門豹をおとなった。

 書記官が大巫女おおみこの訪問を告げた。

 巫女は、農村では知識階級であり、医師であり、神々と民衆を取り結び、民間の信仰を司るものとして農民の尊敬を集める存在だ。巫女の頭である大巫女は重要な客人だった。例の河伯祭についても、事情を聞き出さなくてはならない。

 西門豹は母屋の中央の間へ通すよう言いつけ、いつもより念入りに衣冠を整えた。

 部屋へ入ると、龍をあしらった銀細工の髪飾りをつけ、絹の白装束に身を包んだ若い娘がひれ伏していた。この白装束は一般人が葬式で身にまとう衣服であり、つまり死人=霊魂と向かい合う時に着る喪服が巫女の制服だった。

 西門豹は、前任者が遠いしょくの国からわざわざ取り寄せたという最上質の漆塗りに精巧な螺鈿らでんをちりばめた座椅子へゆったり腰かけた。巨躯きょくと独特の顔つきのために、西門豹は常に峻厳しゅんげんな印象を与えがちだが、よくよく見てみれば、しっかりと結んだ口許は人を包みこむ大海のような穏やかさを帯びている。たおやかな陽光が窓から射しこむ。その光に螺鈿がきらめく。

「ようこそ参られた」

「恐縮にございます」

 女の声は凛と澄んでいた。岩間からこんこんと湧き出す甘露かんろを想い起こさせる声だった。俗物の応接に明け暮れていた西門豹はどこか心を洗われた気持ちになり、さっぱりとした麻布で束ねた女のおろし髪を見つめた。

「面を上げられよ」

 大巫女は、うやうやしく顔を上げた。

 髪飾りの両端に吊るした翡翠ひすいがわずかに揺れている。深くしっとりとした色合いのよほどの上玉だった。それが頬にかかる丁寧に切りそろえられた漆黒の髪と、純白と形容したくなるほどのまぶしい肌とのあざやかなコントラストに涼しいアクセントを添えていた。大巫女は瞬きもせず、じっと西門豹を見つめる。

 ――神々の高級娼婦。

 西門豹の脳裏にそんな言葉がひらめいた。

 大きすぎるほどの黒目がちな瞳が、人のたどり着けない深い山奥にある沼のようで不思議な静けさをたたえている。それは、神々に仕える者だけが持つ揺るぎない確信と完璧な無垢からくるものなのかもしれない。だが、服の上からもそれとわかる豊満な肉体は、まるで秘密の花園でもぎ取った極上の白い果実のような、甘く強い色香を放っている。これ以上丸みを帯びれば崩れそうな、これ以上細くなってもなにかしら物足りないような、そんな危うい均衡きんこうを保つ腰から尻へかけての稜線りょうせんは、若葉に浮かぶ朝露の表面張力にも似たみずみずしい緊張感に溢れている。柔らかくみなぎった清楚な綾衣あやごろもの胸元に、桃色の頂上と小さな乳輪がかすかに透けていた。

 色気にあてられたのか、湿った生温かさに胸を締めつけるようだったが、

「名は?」

 と、西門豹はそんな感情の揺れをおくびにも出さず、短く尋ねた。

さいと申します」

 彩は、西門豹の目から視線をらさずに返した。

「ずいぶん若いと見受けるが」

「十九です」

 彩は、今日から大巫女を務めることになったと言う。

 先代の大巫女は、半月前に七十過ぎの老齢で他界した。大往生だった。通常なら比較的年齢の高い経験豊かな練達者が後継者になるところだが、まれにみる高い霊力を買われた彩は先代の遺志もあってとくに選ばれた。もちろん、河伯をしずめるのを期待されてのことだが、そこまで語ったところで彩はそんな自信ありませんとつぶやき、困ったように瞳を伏せた。

「正直だな」

 西門豹は淡々と言った。

「ないものをあるとは申せません」

「いいのだ。別に責めているわけではない。それで、どうするつもりだ」

「祈りよりほかにありません。わたくしのすべてをかけて祈り、河伯さまを大切にまつるのでどうか洪水を起こすのはやめていただきたいと、想いを伝えるよりほかにありません」

 彩は唇をかみしめる。ふっくらとしたあでやかな紅が押しつぶれる。

 西門豹は、意見と立場は違うものの彩のひたむきさに素直に共感した。魂の一途さを彼は好んだ。ふと、己の使命を一生懸命語る彼女を励ましたい心持ちにさえなったが、それはできない。彼には彼の使命があった。

「ところで、私は龍を見たことがないのだが、どのような姿をしているのだ? あなたの髪飾りには龍が彫ってあるが、そのような形なのかな」

「はい、さようでございます」

「どうしてわかる」

「何度も会っています。髪飾りの河伯さまは、わたくしが見た姿をもとにして作りました」

 彩の声は、あくまでも真摯しんしだった。

 予期しなかった答えに虚を衝かれた思いがして、西門豹は途惑った。書物の中で見知らぬ漢字に出くわした時のようにとっさに意味を掴めず、くぼんだ眼窩の両目をみはった。

 ――嘘をついているとも思えない。世の中には人知を超えたものがあるからな。神がかりの巫女ならあり得ることかもしれない。

 西門豹は思い直し、どんなに奇異に思えても、彼女にとっての真実を述べているものとして受けとめようと決めた。

「いつから会っているのだ」

「物心のついた頃からです。ついこの間、斎戒さいかいしていた時にもこられました」

「龍神はどんな様子だった」

「激しておられます。痛々しいほどのお怒りようです。かわいそうでなりません。わたくしは何度も河伯さまを抱きしめようとしましたが、かないませんでした」

「抱きしめる?」

「さようです。抱きしめていたわってさしあげたかったのです。苦しみをやわらげてさしあげたかったのです。悲しゅうございます。昔は河伯さまのほうからわたくしを抱きしめ、情を交わしてくださったものでした」

「情を交わすとは、まさか――」

「男女の営みのことでございます」

 彩の瞳に光がはねる。完熟した甘い桃のような頬に滴が伝う。

 西門豹は思わず犬歯をむき出し、歯噛みした。

 髪を乱した彩が滑らかな雪肌の太股を開き、ぬらぬら光る龍の長い胴を両脚ではさみこみながら、胸いっぱいの吐息をつくありさまが心をよぎる。神話の一場面でも見るような光景だった。どこにでもありそうで、どこにもないような切ない怒りが胸の底に湧く。嫉妬だと、自分で気づいた。

「わたくしは嫌われたのかもしれません。ですが、河伯さまはまだ会いにきてくださいます。それが、唯一の望みです」

 彩はのどをつまらせ、白絹より白い指で目の端を押さえる。

 西門豹は、腰に帯びたなめしがわを右手で何度もみしごいた。自分の気性の激しさを心得ていた西門豹は、心が波立った時、いつもそうして気を鎮めた。

 ――若い巫女に懸想けそうしている場合ではない。治水と開発が焦眉しょうびの急だ。

 自分にそう言い聞かせ、彩をなだめて話を続けようと試みたが、彩はただ肩を震わせるだけだった。むせび泣く仕草は、失恋を嘆く若い娘のそれだった。そんな純情可憐な姿が西門豹の胸についた火種をいじりまわす。

「申しわけありません。今日はこれにてお暇させていただきます」

 彩は舞うようにして両手を床につき、お辞儀する。

 沈んだ後姿を見送った後、西門豹は座椅子へ深く腰かけた。

「坐り心地が悪い」

 座椅子を叱りつけ、せわしなく尻を浮かしては何度も坐り直した。だが、やはり落ち着かない。韋を揉み、それでも足りずに両手を組んで指の骨を続けざまに鳴らし、たくましい体をよじって背骨を鳴らした。ちょうどよい坐りかたを見つけるまで、ずいぶん手間取った。


 三日後の朝、西門豹は県庁の門へ出た。

 馬番が葦毛あしげの馬を牽いてくる。西門豹自慢の東胡産とうこさんの馬だった。毛並みは中の上といったところだが、騎馬民族が育てた馬だけあって偉丈夫の西門豹が乗っても簡単にへこたれない丈夫さが身上だった。鍛えあげた古強者の風格がある。

 足を蹴り、宙へ舞うようにしてさっとまたがった。

 一直線に大通りが伸び、その先に城市まちの南門が見える。快晴の遠出日和だ。大きな獅子鼻ししばなの穴を広げてまぶし気に爽やかな朝の空気を吸いこみ、威勢よく手綱を一振りした。

 城市を抜け、小麦畑の中の道を飛ぶように駆けた。

 目的地は彩の住む村だった。

 額に汗がにじむ。

 胸が高鳴る。

 あの娘と言葉を交わすのだ、と思っただけで心がせいた。

 小さな原生林を抜ける。小高い丘の上に集落が見えた。遠目にも目に飛びこんでくるほどの真新しい白壁の家が、等間隔で整然と並んでいる。入口には、高い柱が二本、青空を突き刺すようにしてそびえていた。

「あれが目印だな。巫女の村か」

 巫女だけが住むという話だった。

 丘を駆け登り、柱の傍で止まった。呼びかけて案内を請おうとすると、すぐ脇のほこらの陰から色白の女が音もなく現れる。彩だった。

「お待ちしておりました」

 彩は、優雅にゆう(両手を胸の前で組んで上下させる礼)をする。西門豹は、少年の日にあったような青いときめきを覚え、

「どうしてわかった?」

 と、骨ばった顔を微笑ませながら訊いた。西門豹の目許に朴訥ぼくとつにも見える笑い皺が浮かび、二重まぶたが意外にかわいらしい曲線を描く。滅多に見せない顔だった。

「ゆうべ星を見て知りました。西門さまは、どうして今日わたくしが村にいるとわかったのですか」

「そんなことは考えもしなかった。話をしたくなったから来ただけだ」

「先日は大変ご無礼いたしました」

「気にしなくていい」

「恐れ入りますが、村の中では馬には乗れません。どうぞ降りてください」

 彩は、取り澄ました表情のまま綱を取る。西門豹は馬を降りた。彩は馬の鼻を優しくなで、なにごとかを語りかける。

「馬の心がわかるのかな」

「はい。ですが、この馬はまだ心を開いてくれません。会ったばかりだからでしょう。そのうち友達になれます」

 彩は、祠の脇のえんじゅに馬をつないだ。木陰には桶が二つあり、新しいまぐさと水が用意してある。星占いの話はどうやら本当のようだと得心とくしんがいった。

「どうぞ、こちらへ」

 彩は掌を上へ向け、村の中心を指し示す。

 村の中央は広場になっていて、奥には極彩色の模様を施した大きな社が建っていた。ぴんと張りつめた空気が漂い、肌を突き刺す。人影は見当たらないのに、誰かに見られているような厳しい視線を感じる。

 ――神々のまなざしか、もののけのまなざしか。

 西門豹は、ふとそんなことを思い、

「一年中、ずっとここにいるのか」

 と、きれいに掃き清められた広場を横切りながら訊いた。

「そうです」

「実家へは帰らないのか。父母が恋しくはないか」

「おりません。赤子の時、わたくしはさきほど馬を繋いだ槐の下に捨てられました」

「すまなかった。気を悪くしないでくれ」

「いいのです。わたくしはここで大切に育てていただきました。ここがわたくしの家です。寂しいなどと思ったことはありません」

 一番大きな家へ招かれ、軒先で足を洗ってから入った。

 部屋には香がたちこめている。すっと心が安らぐ香りだった。

 彩は敷物を勧める。西門豹は正座して、二人は向かい合った。深い森の奥にいるような、どこまでも静かな部屋だった。この部屋の雰囲気は彩の瞳に浮かぶ不思議な静けさと同じだと、西門豹はふと気づいた。彩の後ろの壁いっぱいに、緋色ひいろの地に金糸で龍を刺繍した荘厳な緞子どんすがかかっている。雄々しく体をくねらせ、空を昇る龍だった。

「この間の話の続きだが、そもそもなぜ龍神は怒っているのだろうか」

 西門豹はさっそく切り出した。龍の実在を信じたわけではない。彩がなにを考えているのか、隅から隅まで余すところなく知りたかった。

「人があるがままを壊すからです」

 ふっと彩の顔つきが変わり、真剣なまなざしで西門豹を見つめる。

「あるがままとはなんだ」

「この世のことです。河、森、山、この世のすべてのことでございます。河伯さまは、人がこの世のすべてを壊し、調和を乱すことにたいへんお怒りです。とりわけ、たくさんの木を伐って森を失くしてしまったことに」

「河の神がなぜそのようなことに怒る?」

「すべては一つに繋がっております。森が壊れれば、河も壊れます」

「たしかに、鉄を作るために木を伐りすぎてしまった。製鉄には大量の薪が必要だからな。昔は森が雨水をたくわえたものだが、今ではひとたび大雨になれば、雨水は荒地の表面を流れ、そのまま河へ注ぎこむ。一度に大量の雨水を抱えこんだ河は溢れ、洪水が起きる」

「森を壊し、森の神々をおろそかにした報いです」

「では、森を元通りにすれば、龍神の怒りもおさまるのだな」

「そうかもしれません。ですが、そもそもの問題は思い上がった人の心にあります」

「思い上がってなどいないが」

「そうでしょうか。人は森羅万象しんらばんしょうに宿る神々とともに生きています。それを忘れてはなりません。人は青人草あおひとぐさです。あるがままの土から産まれ、青々と命を繁らせ、ついには再び土へかえる草です。人もまた、あるがままの一部にすぎません。それなのに、己の欲のために森や河をほしいままにするなどもってのほかです。これを思い上がりと言わずに、なんと言えばよいのでしょうか」

 彩の瞳にかすかな怒りがたぎった。狂信者の眼のようにも、子を守る本能に駆られた母の眼のようにも見える。どちらにせよ、息を吹きかけた炭火のようで綺麗だった。

「人が欲深いというのは理解できる。だが治水に成功したよその県では、神々を祀りながら堤を築き、開墾して、民の暮らしが上向いている。今のように貧しさに追われるのではなく、暮らしが楽になっている。それはいけないことなのか」

「いけません。あるがままを壊せば、そこに宿る神々が死にます。神々を殺せば、人にも必ず跳ね返ってきます」

「どういうことだ」

「神々が死ねば、人も死にます」

「死んでなどいない。むしろ、ここよりもずっといい暮らしをして、活きいきとしている。私はこの目で見てきた。嘘ではない」

「今はいいでしょう。ですが、やがて死にます。まず、心が死にます」

 ――心が死ぬ。

 その言葉が西門豹の心のどこかを穿った。心の水面に石のつぶてを投げ入れられたようで、はっと彩を見つめた。

「なぜだ」

 西門豹は、眉間に深い亀裂を刻む。

「あるがままに棲む神々は、わたくしたちの心を見つめています。そうして、わたくしたちの心を支えています。だからこそ、人の心も生きていられるのです。その神々が死ねば、人の心は見つめられず、支えられず、死んでしまいます。心が死ねば、おのずと体も滅びましょう。人はすべて死に絶えてしまうでしょう」

「胸のすくようなことを言う」

 西門豹はからっと笑った。彩の思い切った物言いが小気味よかった。

「人が全部死んでしまえば、この世はさぞせいせいするだろうな。だが、そんなことが本当に起きるかな」

「わたくしには、はっきり見えます」

「では一つ訊くが、龍神も死ぬのか」

 西門豹は真顔に戻った。

「それは――」

 彩は顔を強張らせる。悲しみの薄い膜が彼女の頬を覆う。薄く塗ったろうのようで、触れればひび割れてはがれ落ちそうだ。

「このままではそうなるかもしれません」

「龍神が死ねば、彩殿の心も死ぬか」

 西門豹は、思わず畳みかけた。訊かずにはいられなかった。彩はひっそり目を瞬かせ、なにも言わず身じろぎもしない。思いつめた瞳が風にもてあそばれる鈴のように揺れる。西門豹は、獲物を追うような視線で緞子の龍を睨んだ。心の底に憎しみのきりが突き刺さる。犬くらいならひねり殺せそうなごつい手を握りしめた。

 ――龍神が恋敵などとは、ばかげている。

 そう思ったが、どうにも抑えられない。

「彩様」

 突然、息を切らした男の声が響いた。

「せがれがすごい熱を出して、うなされておるんです。それだけじゃなくって、火柱が見えるなんて叫んで走り回るんですよ」

「わかりました。すぐに行きましょう」

 彩は、涙まじりの声ながらも気丈きじょうに答える。大巫女としての責任感がそうさせるのだろう。西門豹は、その健気けなげさがいとおしくて、

「送っていこう」

 と、立ち上がった。

「ありがとうございます。助かります。では、わたくしは道具を取って参りますので、槐のところでお待ちください」

 彩は、硬い面差しに無理した微笑を浮かべ、奥の部屋へ消えた。

 西門豹は、男を伴って家を出た。男は、陽に焼けた肌から土の匂いを放つ丸きりの農民だった。話を聞いてみると、男の息子は九つで、八人育てた子供のうち最後に生き残った一人だと言う。他の子供は飢えと病気で死んでしまった。

「苦労したな。ところで、彩殿の医術はどうだ」

 西門豹が慰めるように肩を叩いて尋ねると、

「そりゃもうすごいですよ。せがれは、去年も彩様に助けていただいたのです」

 と、男は憂鬱だった顔をぱっと輝かせる。

「信頼しているのだな」

「もちろんですとも。彩さまが大巫女になられて、みな大喜びです。あんなに力を持ったかたは、ほかにいません。河伯さまだって、きっと鎮めてくださるでしょう。洪水はなくなりますよ」

「そうなればよいがな」

 それ以上返す言葉もなく、西門豹は思案気に腕を組んだ。

 巫術ふじゅつで水害がなくなるのなら苦労しない。しかし、たとえそれを話してみたところで、精霊信仰と言えば精霊信仰、迷信と言えば迷信の世界観の中で生きている農民に理解できるはずもない。そんな彼らをどう導くのかが難しい。

「お待たせしました」

 彩が走ってきた。男の住む村は十五里(約六キロ)離れたところだという。二人で先に行くことにした。西門豹は後ろに彩を乗せ、馬を走らせた。

 彩の腕が西門豹の腰を抱く。西門豹は背中に柔らかい果実の甘い重みを感じ、じわりと伝わるあこがれの温かみを背中で測った。

 ――とても手の届きそうにない女を乗せている。

 西門豹は、まっすぐ前を見た。見開いた目には、引き締まった凛々《りり》しさが浮かんでいる。

「この馬は、なんと呼ぶのでしょうか」

 彩が問いかける。

「名前はない。なぜ馬の名を訊く」

「乗せてもらっているのに、名前を知らないのはおかしいですわ」

「彩殿が名付け親になってくれ」

「よろしいのですか」

「もちろん。馬も喜ぶだろう」

「では、蒼い風と書いて蒼風そうふうではいかがでしょうか」

 彩の声は弾んでいた。

「よい名だ。馬にかわって礼を言う」

 蒼風は脚を速め、細く伸びる土埃の道を駆けた。


 貧しい村だった。

 どの家も土塀が崩れ、激しく痛んだ日干しレンガ造りの家屋が覗き見える。

 破れた板戸を押し、門をくぐった。

 二人が奥の部屋へ入ると、やつれた中年女が疲れ果てた風に平伏した。黒ずんだ蒲団に垢じみた男の子が臥せり、荒い息を繰り返す。外は乾いた風が吹いているのに、なぜか肌に粘つく湿った空気がよどんでいた。彩は男の子の腕を取り、脈を診た。

「どうだ、助かりそうか」西門豹は訊いた。

「脳に熱の塊がありますが、なんとかなるでしょう。すみません、今からお祓いをするので外で待ってください」

 彩は手拭いで男の子の額の汗を拭き、包みを開く。四つ目のおどろおどろしい形相をした鬼祓いの面と薬草が出てきた。西門豹は、男の子の母親と一緒に部屋を出た。

 女が西門豹にもたれかかった、かと思うと崩れ落ちる。西門豹はとっさに抱きとめた。女は気を失っている。西門豹は枕を抱いているのかと思うほど軽い体を土間に横たわらせ、表へ出て人を呼んだ。

 ぼろをまとった女子供が集まる。誰の顔も、誰の首筋も、倒れた女と同じように肌は脂気あぶらけもなくかさかさに乾き、骨と皮ばかりになっている。破れ衣はどれもだぼだぼして見えた。痩せ衰えたために服が大きくなったのだろう。

「生き地獄」

 西門豹は、目を虚ろにしてつぶやいた。そうとしか思えない。

 事態を告げると、女たちは一言も発せず無関心とも思えるほど面倒くさそうに頷き、ぞろぞろと門の内へ入った。

 彩の唱える悪霊祓いの呪文が朗々と流れる。高く低く節をつけたその声は、村人たちの弔いのようにも響いた。

「くま」

 幼い女の子がぽかんと西門豹を見上げる。小さな腹は、栄養失調のせいで風船のように丸く膨らんでいた。その子の姉だろうか、顔立ちのよく似た十二歳ほどの娘がさっと幼児を抱きかかえ、おびえた風に里道の向こうへ駆けてゆく。

「どうもご無礼をつかまつりました」

 老人が現れ、前に杖をついて深く頭を下げた。

「あなた様のような立派な体格のかたを見たことがないもので、あんなことを口走ったのでしょう。どうか子供のことですので、ご容赦ください」

 白くまばらなあごひげをたくわえた顔貌かおかたちに、西門豹はどこかきつけられた。修練しゅうれんを重ねて人間の生臭味をそぎ落としたような、山水画から抜け出してきた仙人にも似た風貌ふうぼうだった。

 西門豹は会釈して名乗った。老人は、前の村長の劉騰りゅうとうだと告げる。代々村長の家で、今は彼の息子が村長を務めていると言う。祈祷と治療の間、彼の家で待たないかという申し出を受け、西門豹は厚意に甘えることにした。

 劉騰の家もあばら屋同然だった。村長の家であれば立派な家具や調度品がなにかしらあるはずだが、それらしいものはなに一つ見当たらない。それどころか、家具らしい家具も、調度らしい調度もない。天井の隅には、大小の蜘蛛の巣が張ったままになっている。屋根が壊れ、一条の陽射しが家の中に舞う埃を照らしていた。

 劉騰は縁の欠けた茶碗に自家製の糟酒かすざけを注ぎ、西門豹に勧める。

 二人は乾杯した。酒は粗悪な雑穀から醸造したものだった。舌を刺す臭みがあり、どうにか飲めるほどの味だが、赤貧の中で精一杯もてなしてくれていることを考えると西門豹は貴い酒に思えた。作法通り一息に飲み干し、茶碗を逆さにして空けたことを証した。

 前の村長は、問わず語りにこの村の状態についてぽつりぽつり語った。昔はそれなりに豊かだったが、水害続きですっかり畑が荒れ、村人の数は三分の二に減った。しかも、盗賊団が増え、襲撃を受けることもしばしばあると言う。

「なにもない村へ押し入るのですから、賊もよっぽど困っておるのでしょう」

 劉騰は恬淡てんたんと笑う。諦めているのか、もともとあっさりした性格なのか。おそらく、その両方なのだろう。

「ところで、河伯祭に関して妙な噂を聞いたのですが、なにかご存知ないでしょうか」

 西門豹はこの老人ならと噂の内容を話し、河伯祭について調査しているところだと告げて協力を求めた。劉騰はのどにからんだ痰を苦し気に切り、なにか言いかけて口をつぐむ。

「私は良民のためにここへ赴任してきたのです。なんでもおっしゃっていただきたい」

 西門豹は膝をにじり寄せ、身を乗り出した。

「実は、毎年お役人が河伯祭の費用を徴収しにやってきます。麦ばかりではなく、豆類も、なけなしの雑穀まで持って行ってしまわれます。ただでさえ収穫が少なくて困っているというのに、これでは食べるものが残りません」

「そうでしたか。役人も強盗も似たようなものですね」

 役所の記録は調べたが、河伯祭の費用徴収についてはいっさい記載がなかった。

「まったく、なんと言えばよいのか。河伯様のお怒りが激しいということで、祭りを大がかりになさるのはよろしいのです。それで怒りがおさまって、河が元通りになれば、ここの百姓たちも安心して畑を耕せるのですから。ただいただけないのは、集めた銭の大部分を、前の県令様や長老がたや商人たちが自分たちの懐へ入れてしまうことです。数百万銭も集めて、河伯祭に使う額はわずか二三十万銭。これでは詐欺さぎではありませんか」

 劉騰は、他人事のように淡々と語る。それがかえって痛々しい。

「彩殿はそのようなことを知っているのですか」

「たぶん知らないでしょう。巫女様は、祭事さいじを執り行なって分け前をもらうだけですからな」

「では、取り仕切っているのは誰ですか」

三老さんろう様です」

 三老は長老の中でも一番地位が高く、徳のすぐれた人物とされていた。どの城市でも、三老は最高の敬意を払われる。また三老のほうでも、民の暮らしぶりにこまかく目を配り、徳行を奨励して非道が行なわれればそれを正す。いわば民衆の精神的指導者であり、さらに地元住民の意思を代表して政府へ伝えるという重要な役割を担っていた。

「呆れたものだ。率先して民から搾取さくしゅするとは。とくはとくでも、損得の得にすぐれたかたなのですね。私がやめさせます」

「頼もしいお言葉ですが、難しいでしょう。前の県令様も最初はそうおっしゃっておられました。ですが、地元の者から見れば県令様はよそ者。ぎょうの慣例を改めようとしても、地元の者は言うことなど聞きません。多勢に無勢、結局だめでした。そのうち、銭の味を覚えてご自分から率先して費用を集めるようになられましたよ。いや、これはたいへん失礼なことを申しました」

「いえ、いいのです。正直にお話していただいたおかげで、いろいろなことがわかりました。なんとか手立てを考えます」

「そろそろお祓いも終わった頃でしょう。参りませんか」

 劉騰は西門豹の意気ごみには答えず、力なく首を振る。西門豹は、諦めるよりほかに術のない劉騰の苦衷くちゅうを察し、

「わずかばかりですが、どうぞお受け取りください」

 と、布銭ふせん(農具の鋤状すきじょうの硬貨)の入った巾着きんちゃくを差し出した。

 劉騰はかっと目を見開き、怒りに唇をわななかせ、枯れた体のどこにそんな力があるのかと思うほどの力で茶碗を土間へ投げ捨てる。茶碗が割れ、乾いた音を立てる。

「私はきゅうしております。まずい糟酒をすすり、始終鼻水を垂らすみっともない老人です。が、乞食ではありません。いわれもなく恵んでいただくわけには参りません」

「そんな風に取らないでください」

 西門豹は穏やかに諭した。自尊心だけが高い官吏なら老人の非礼に怒り出しただろうが、西門豹の顔にはいたわるような微笑が浮かんでいる。西門豹は、飢饉ききんのさなかでも誇りを失わない老人に好意を抱いた。

「恵むのではありません。村の子供たちのために使っていただきたくてお預けするのです。彼らがやせ衰えているのを、見過ごすわけにはいきません。せめて、子供たちに温かい食事を与え、暖かい服を着せてやってください」

 劉騰の手を取り、力強く巾着を握らせた。風雪を刻んだ劉騰の皺にしょっぱい涙が流れる。涙の粒が西門豹の手へこぼれ落ちる。

「先ほどの無礼はお許しいただきたい。ここ数年来辛いことばかりでしたが、今日ほど嬉しい日はありません。我々に頼る人はおりません。どうか助けてください」

 劉騰は床に額をこすりつけ、鼻汁をすすり上げる。西門豹は、胸がこみ上げて目頭が熱くなった。自分を必要とする人がいる。その人たちのために正しいと信じたことを成し遂げるのだと、強く誓った。

 涙で動けなくなった劉騰を残し、病人の家へ戻った。すでに祈祷は終わり、彩は床の上に置いたすり鉢で薬草をすり潰していた。苦い匂いがぷんと鼻を衝く。

「よくなったようだな」

 西門豹は、気持ちよさそうに寝息を立てる男の子を見やった。その隣には、子供の母親が横たわっている。疲れてぐっすり寝入っているようだ。

「ええ、もう大丈夫です」

 彩は振り向き、明るい笑顔を見せる。こまかく並んだまっさらな歯がこぼれる。夏空に向かって咲くひまわりのようだ。上気して紅潮した顔に、健やかな汗がにじんでいる。その表情にも、体にも、いつも放つ色香はない。城市で見かける良家の子女といったところだろうか。あどけない十九の娘の素顔に戻っていた。

「熱も微熱になりましたから、お薬を飲んで三四日寝ていれば元に戻ります。おばさんのほうはちょっとした貧血ですから、少し休めばよくなるでしょう」

「そうか。それはよかった。部屋の空気もさらっとしたな」

 西門豹は中を見渡した。

「困らせ屋さんの霊がいていたので慰めてあげて、元居たところへ戻るよう言い聞かせました。ちゃんと言うことを聞いて出て行ってくれたから、空気もよくなったのですよ」

「ほう、調伏ちょうぶくするのではないのか」

「そんなかわいそうなことはいたしません。西門さま、元から悪い霊なんていないのですよ。寂しかったり、傷ついて自分を見失っていたりするから、悪さをするだけです。ともだちになってあげるからさみしくなんかないよと言ってあげれば、まともになります」

「なるほどな。悪い人間もそうだといいがな」

 西門豹は、三老や有力者たちの顔を思い浮かべた。

「人も同じです」

「では、悪い奴らも、彩殿にお祓いしてもらって真人間に戻してもらうか」

「いつでもお引き受けします」

「それなら、まず私を祓ってくれ」

 西門豹は、冗談とも本気ともつかない風に言う。

「いいですわ。薬を調合したらすぐに始めましょう」

 破顔した彩は大きな瞳をくるくる動かせ、陽射しを浴びた水飛沫のように光らせる。

「西門さまは、ご冗談などおっしゃらないかたなのかと思っておりました」

「本気だ」

 西門豹は、澄まし顔で逆毛の眉を片方だけ吊り上げた。彼なりの精一杯のユーモアだった。

 彩はすり鉢を脇に置き、笑いをこらえきれず身をかがめた。打ち震える背中は、春風に揺れる一面の菜の花に似ている。ふっと、西門豹の心の中に透きとおる風が吹き抜ける。胸が軽やかになる。西門豹は鷹のような鋭い眼つきをやわらげ、腹の底から野太い笑い声を放った。

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