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西門豹  作者: 野鶴善明
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第一章

 三月初めのまだ寒い時期だった。北風が強い。土手に立った西門豹せいもんひょうは、顔にかかる髪を払いのけ、手をかざした。河原にはひび割れた黄土が広がり、その先に太い泥水の帯が西から東へ緩やかに流れている。

 黄河。

 鈍く光る河は、拍子抜けするほどおとなしい。まるで、荒々しい情交の後、なにごともなかったかのように眠る女のようだ。乾期かんきの今は大河も息をひそめているが、やがてこの地にも雨期が到来して水かさが増し、ひとたび嵐の夜を迎えれば、だだっ広い河原も飲みこんで黄色い濁流がほとばしるのだろう。そうして、快楽の極みに達した女のように荒れ狂うのだろう。

「暴れ龍が棲んでいるらしいな」

 西門豹は言った。彼の顔貌がんぼうは、野人を思わせる異相いそうだった。額は力強くせり出し、濃い眉毛は逆立ち、眼窩がんかのくぼみは粘土の塑像そぞうに太いこてを力任せに押しこんだかのようだ。黒曜石のように澄んだ瞳には、狩人のような鋭い眼光をたたえている。出くわした相手がたとえ龍であったとしても恐れずに狩ってしまいそうな、そんな闘志溢れたまなざしだった。

河伯かはく(黄河の龍神)か。いるなら出してみろよ」

 傍らの李駿が吐き捨てる。李駿りしゅんは、均整の取れた優男だった。眉目秀麗びもくしゅうれい。清々しい竹のように涼しい香りを漂わせる。そのくせ、言葉に毒が多い。

「出てくるのかどうかは知らないが、いるのだろ」

 西門豹は、よくとおる低い声で言った。

 この魏国のぎょう県では、夏のたびに河が氾濫はんらんし、おびただしい数の人家と農地が水没する。民は、河に龍がみ、その荒ぶる龍が洪水を起こすと信じていた。西門豹は、この地に県令(首長)として赴任してきた。

「駿、信じれば、実在するのと同じだ。ぎょうの者は、ちょっと考えられないような盛大な河伯祭を催して、祈祷を捧げる。おまけに人身御供ひとみごくうまで差し出すのだからな」

「人身御供?」

 李駿は、怪訝そうに聞き返した。

「年頃の美しい生娘きむすめを探して、嫁として輿入こしいれさせるらしい」

「えらく文明的だね。豹、やめさせろよ」

「駿は鼻から迷信だと言って切り捨てるが、これは信仰だ。人身御供がいいとは思わないが、かといって心の拠り所を奪うわけにもいかない」

「そんなもん、どうだっていいだろ。龍を大切にしたって、褒美もでなけりゃ、出世もできないんだぜ。大事なのはお上のご意向だろ。忘れたのかよ」

「忘れてなどいない」

 西門豹は河を睨みつける。碇の先端のようにがっちり突き出たあごを心持ち上げて。

 戦国時代だった。

 諸国は外交上の駆け引きを繰り広げ、時には兵を出し、覇権を争っていた。陰謀で、戦闘で、戦禍で、人は呆気なく屍になる時代だった。

 気の抜けない生存競争を勝ち抜くためには、治水事業によって耕地面積を拡大し、農業生産力を高め、国力の増強を図ることが重要だった。とりわけ、魏は中原のほぼ中央に位置し、ちょうかんせいしんといった列強に取り囲まれている。富国強兵は喫緊きっきんの課題だ。だが、。ぎょう県は年々歳々ひどくなる洪水のせいで極度に疲弊し、糧を失った民が逃亡するのは日常の光景だった。

 魏の文侯ぶんこうは、ぎょう県の治水問題を解決するため、周囲の反対を押し切って西門豹に白羽の矢を立てた。文侯は、西門豹の並外れた胆力と鋭利な知力に期待を寄せていた。

 出発前、西門豹は何度か文侯に呼び出され、文侯が孔子こうしの高弟の子夏しかから学んだという治世の要諦ようていを伝授された。その鍵は、民を大切にして彼らの声に耳を傾けよ、というものだった。とりわけ、賢明な土地の古老と出会ったなら、辞を低くして教えを請うようにと繰り返し教えられた。西門豹は儒徒じゅとではなかったが、あらためてその言説を聞いてみると頷ける点は多かった。枝葉末節にこだわるばかりの、葬儀屋のお説教にすぎないと思いこんでいた儒教じゅきょうもなかなかよいことを説くではないか、と見直した思いもした。

 ――なるほど。

 講義を聞きながら、西門豹は自分なりに儒学じゅがくの本質を掴んだ。

 ――これは偉大な常識だ。

 日常を生きる民の常識、価値観、ごく自然に湧きあがるありきたりな感情を肯定し、彼らの良識を信じろと諭された気がした。人々を統治する以上、そうしなければ民意を得られないのは、当然すぎるほど当然のことだと納得した。無論、常識を肯定するのは、国力を高めること、民の暮らしをよくすること、この二点のためだという根幹も忘れなかった。

 西門豹は、いよいよ熱を入れて講義に耳を傾けた。西門豹の熱意を感じ取った文侯は、ますます力をこめ、よどみなく語り続ける。文侯の口振りから、期待の高さがひしひしと伝わってきた。重責を感じずにはいられなかった。

「よくわかっている。お上の期待に背かないためにどうすればいいのか。ここの民を救うためにはどうすればいいのか。ずっと考えている」

 西門豹は、険しいまなざしのまま頷いた。

 治政の哲学は固まった。だが、もちろんそれだけでことが成就するほど、現実は単純ではない。目的を達成できなければ、高邁こうまいな理念も無用の長物にすぎない。

 郡県制を敷いた魏では、中央から派遣した官僚によって各地方を統治していた。しかし、必ずしも中央の統制が行き届いていたわけではない。むしろ、地方の自治勢力が強く、中央政府の意向に反発しがちだった。中央の命令というだけで嫌うのだ。西門豹が本腰を入れて問題を解決しようとすれば、相当な抵抗に遭うのは必至だった。

「豹、気持ちはわかるけどさ、深刻になってもしょうがないよ」

「それはそうだがな」

「いい方向へ考えろよ」

 李駿は傍らの石を拾い、力一杯投げた。これが俺たちの未来だとうそぶくように、あざやかな放物線を描く。

「豹はここで大儲けできるんだぜ。お前の前任者はすげえ羽振りだ。ここでかなりの財産を蓄えたようだな。家柄だけが取り柄のぼんくらがよくやったもんだよ。今じゃ、その金を使って夜毎高官たちを集めては宴会騒ぎ、お偉いさんがたのご機嫌取りに余念がないときている。出世街道まっしぐらさ。あやかりたいね」

 李駿は、いいよなと羨望まじりの溜息をついた。

 国への上納分さえ納めれば、県令は余った税を自分の懐へ入れてもよかった。もっとも、中央政府から県令へは十分な給料が支払われず、県令はこの「役得」が主な収入だった。言い換えれば、県の運営は任せるので後は自由にせよ、ということだ。近代国家の仕組みとは異なる。もちろん、民からいくら税を徴収するかは県令の裁量範囲だった。

「くだらない」

 西門豹は、興味なさそうに李駿の言葉を打ち消した。俗っぽい下卑た話はごめんだった。目指すものがある。理想へ向かって走れるか、それしか興味がなかった。

「どこがいけないんだよ」

「金のことは言うな」

「おいおい、金持ちになれない県令なんて、ただのまぬけじゃないか」

「それなら、まぬけでいい」

「ばかにされるぜ」

「人にどう思われようと関係ない」

「大人になれよ」

「大人はもっと立派なものだ。貴様の言う大人は、ただの俗物だ。俗物は自分だけの幸せを考える。他人の幸せを考えるのが大人というものだろう」

「豹は子供の頃から変わらないよな。お前の言い方を借りれば、お前は子供の頃から大人だったわけだ。でもさ、金が入れば家族の暮らしがよくなるし、自分だってでかい顔ができるし、いいことじゃないか」

 李駿は、ほおずきのような赤い唇を尖らせる。西門豹は答える気にもなれず、肩をそびやかせただけで背後を振り返った。枯草と岩ばかりの荒地が続く。

「前任者はよほど民から搾り上げたのだな。こんな貧しいところで。――妙な噂を聞いた」

 西門豹は言った。

「どんな」

「この城市まちを取り仕切る地元の有力者たちが、河伯祭を盛大に催して龍神を鎮めさえすれば洪水は治まると言い、前任者にろくな治水工事をさせなかったそうだ」

「それで豹は河伯にこだわってたのか」

「この堤は杜撰だ。前任者は、決壊した箇所を完璧に造り直したと言っていたがな」

 西門豹は、いきり立った闘牛のように足元の土を勢いよく後ろへ跳ね上げた。着物の裾がめくれ、鍛え上げた筋肉で硬く盛り上がったふくらはぎがあらわになる。砂が飛び散り、土煙が低く舞う。西門豹は、責任感のかけらもない子供騙しの欺瞞ぎまんが腹立たしかった。

「そんなすぐばれる嘘をよくつけるもんだな。壊れてるじゃないか」

 李駿は西を指差す。ざっと見渡しただけでも、三箇所で土が崩れ始めている。詳しく点検すれば、もっと見つかるだろう。

「しっかり固めずに、ただ土を盛ってうわべだけを整えたのだろ。このぶんでは堤自体の水はけも考えていないな。暴風雨になれば、堤は雨水を含んで緩んでしまう。水を吸った綿と同じだ。そこへ激流がぶつかったら、ひとたまりもない。簡単に決潰する」

「豹の前任者は、工事なんかうっちゃって龍神の儀式にかまけてたわけか」

「なにかからくりがありそうだ。河伯祭が前任者の資金源だったのかもしれない」

 西門豹は、疑わしそうに両目を細める。そのまなざしは、密林の中で獲物の気配を嗅いだ獣のようだった。

「そうだとすると、迂闊うかつに手を出そうもんならえらい目に遭うぜ。用心しろよ」

「わかっている。だが、時間があまりない。祭りは五月五日、端午たんごの節句だ」

「後ふた月ちょっとか」

 ほっそりした女の声が、風に乗って流れてきた。李駿を呼んでいる。貴族の身なりをした若い女が、両手で裳裾もすそを吊り上げながら土手の傾斜をのぼってくる。

「父君とは、話をしたのか」

 西門豹は訊いた。李駿には親の決めた許嫁いいなずけがいるのだが、彼女にれていた。女のほうにも親の決めた婚約者がいるが、李駿を好いている。二人は、付き合い始めてもう四年になる。西門豹は前回の任地でも二人を呼び、こっそり逢引させていた。

「まだだよ。親父はえらくご機嫌斜めだ。切り出そうにも、切り出せない」

 李駿は、冴えない顔で首を振る。

 西門豹は李駿を見守り、ふっと頬を緩めた。拳骨みたいにごつごつとした剽悍ひょうかんな顔に、なんともいえない優しさが立ち現れる。それは、幾度も死線を乗り越えた戦士が見せるような、心の強さに裏打ちされた微笑みだった。

「うまくいくさ」

 西門豹は、気遣いながら李駿の肩を握った。


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