クラウディアと街へ
豪奢な装飾が突き刺さる廊下に出ると、清潔な仕事着に身を包んだ数人の侍女とすれ違った。
透明に磨かれた窓ガラスや鏡面からは、彼女達の仕事への誇りときめ細やかさが見て取れる。
気品ある侍女が務める屋敷は、ハイライン家の強大な財力と身分の高さを直接的に表している。
侍女の一人が私を認識してから、礼節の行き届いた振る舞いで頭を下げる。
私がハイライン家に仕えて間もない頃、侍女長に私に下げる頭は要らないと提言したが「ドウセット卿も立派なハイライン家のお方です」と、言葉を返されたことがあった。
彼女たちの規律正しい行いは、本来であれば高級官僚に求められるはずの、自立と自律、節制と摂生だ。
現実、それを備えた人間は極めて少ないのだが。
ハイライン家に仕える以前、私はロンドン警視庁のいち警官でしかなかった。
ただ淡々と仕事をこなす毎日に不満を感じたこともなく、それは今でも同じで、私にとって仕事とはそういうものだった。
あるとき、そんな私を引き抜いたのがエドワード・ハイライン卿だった。
彼は私を秘密警察に、さらにはハイライン家直属の諜報員として雇った。
私の生活は激変したが、それそのものに大きな落胆や高揚はなかった。
ただ、ここにいる人間は誰もがどこまでもストイックにプロ意識を持っていた。
ハイライン卿は勿論のこと、侍女、庭師、調理師もその例外ではない。
私もその道のプロとして、仕事をこなすことにやがて誇りを持っていた。
侍女にクラウディアの居場所を問うと、お嬢様は庭にと教えてくれた。
庭は腕のいい庭師に端正にされている。
刈り込まれた芝は直に座っても素晴らしく、木は人の手が加えられたなど嘘のように自然。
郊外に建つこの屋敷にロンドンの空気やテムズ川の異臭は届かない。
そんな健康な陽が、庭に佇む女性に影を落としていた。
「報告が終わりました。クラウディアお嬢様」
「ジェイ、私のことはクラウと呼んでほしいとお願いしたはずです」
クラウディア・ハイライン。
エドワード・ハイライン卿のご息女。
白を基調とした洋服の露出の少ない肌は、その服に負けず劣らずの透き通る白をしている。
色素のない髪は短く切り揃えられ、光に当たると艶やかに反射し、髪の陰から覗く赤みがかった瞳は昨夜のオートマタのように完成されていて、造形的な美しさを漂わせている。
「立場も身分も違うのですよお嬢様。表面上、貴方は贔屓にしている男性がいてはいけない」
「私の政略結婚が心配ですか。だったら貴方はお父様を過小評価しています」
「そのようなつもりは・・・大変失礼しました」
たじろぐ私にクラウディアは、微笑を携えて服を翻す。
「冗談です。ですがお詫びの気持ちがあるなら行動で示していただける紳士でないと。せめて他の人の目がないときくらいは」
「分りました。クラウディア様」
「"様"も"ディア"もいりません」
「分りました。クラウ」
「結構です」
クラウは満足したのか、優しい表情で私の手を引いた。
「ねぇ、街へ下りましょうよ、ジェイ。大英図書館へ行きたいの」
クラウもまた、自己研鑽に余念がなかった。
自分の立場をよく理解し、博識で、見識を広げ、ハイラインの人間であることに誇りを持っている。
間違いなく、ハイライン家を担う彼女も一人のプロであり、私は日々研鑽する彼女を素直に美しいと思っている。
「勿論です、クラウ。馬車を出しましょう」
私は軽装二輪馬車にクラウを乗せて、 ロンドン市内へと向かう。
街の空はグレイ。いつのまにか陽の光は雲に遮られていた。
右手に目を向けると、コルセットで腰回りを矯正している淑女が、差す必要もなさそうな空の下、日傘の影を悠々と歩いている。
左へと目を転じれば、口髭をたくわえた紳士がトレンチコートに身を包み、乗合馬車に乗ろうと背を屈めている。
その手は、首元の刺繍が施されたクラヴァットを絶えず整え直していた。
乗合馬車の手綱は四肢が錆びた簡易なオートマタが軋りをあげて引いている。
工場で襟袖を油で汚している青年は、出世を夢見て技術を磨き、ストリートチルドレンが金目のものを狙ってギラつく。
そんな犯罪の種を中央警察が目を光らせ、ガードのオートマタが付き従う。
産業革命の暗さと、疲れを知らない歯車装置が行進するボウストリートは混沌。
相変わらず空気は外にいるとは思えないくらいに不味く、テムズ川はこれ以上どう酷くなろうというのか、極めて不快な悪臭を放つ。
クラウはカーチーフで口鼻を押さえていた。
ここはロンドン。濃霧の街。
数千万にも及ぶパイプが巡る産業の迷路。歴史の岐路に立たされた、技術を生み出す蒸気こそが大変動の兆し。
数多の思想が雲のように膨らみ、光に向かう泡へとはじけ、あるものは地下鉄道のように実現する一方、叶わぬ夢がデータの塵へと消える。
発展を目指せば破壊。停滞を望めば衰退。
目を閉じると、暗黒に広がるのは革新的な蒸気。街を満たす、幾万もの論理と悪意。
熾烈な目論見の裏に疲れ、任務の果てにベッドへ身を投げると、目覚めてみれば辺りは闇で、虚空に投げ出された右腕は変化を止めないこの街のように、未だありもしない現実を掴もうとしているかのようだった。




