プロローグ
一年ぶりに帰ってきました。よろしくお願いいたします。
午後。春の柔らかい日差しが、窓から差し込んでいる。ヴァ―リアス王国第一王女であるジャスミンは、自室で日課のお茶を楽しんでいた。
肩まである、ウェーブのかかったつややかなストロベリーブロンド。サファイヤの大きな輝く瞳を、長いまつげが彩っている。輝くミルク色の肌。頬は健康そうにピンク色に染まっていた。
身に着けているのは、最近作ってもらったばかりのお気に入りのピンク色のドレスだ。胸元の大きなリボンが可愛らしい。
ごく普通の王女に見えるが、一つだけ違うところがある。彼女には日本人女性だった前世があるということだ。あれは五歳の時。高熱でうなされていたときに、ふと思い出したのだ。
あまりにも記憶がはっきりしているため、どうやらこれは本当の前世らしいと判断した。子どもながらに人には話さない方がいいだろうと思い、誰にも話さずにいたのだが、今でもそれは正解だったと思う。気が触れたと思われてあらゆる医者を呼ばれたり、苦い薬湯を飲まされたり怪しい儀式をさせられた可能性もある。
テーブルに並んでいる見た目も可愛らしいクッキーやマカロン、ケーキに、美味しい紅茶。お気に入りのカップ。今日の紅茶は、昨日特有の産地である隣国から届いたばかりのものだ。香り高いファーストフラッシュは、砂糖やミルクを入れなくても満足感がある。
「やっぱりおいしいー」
香りを楽しんでから口に含んだジャスミンは、満足げにうなづいた。
「たまにはキャロルも一緒にお茶しましょうよ。香りが高くて美味しいわよ」
傍に控えていた、メイドのキャロルを誘う。幼い頃から側仕えとして仕えてくれており、気心が知れている。年が近いので、ジャスミンにとって姉のような存在でもある。だが、
「ジャスミンさまとご一緒させていただくなんて、そんな」
と恐縮していたが、ジャスミンはさらに強引に誘った。
「いいじゃない。部屋にいるのはわたしたちふたりだけだし、たまには。急ぎの仕事もないのでしょう?」
「では少しだけ……」
ジャスミンの向かいに座ると、キャロルはティーポットからカップに紅茶を注いだ。ジャスミンと同じように、まず香りを楽しむ。
「やはり香りが違いますね」
「違うわよね。この料理長の新作のケーキも食べてみて! とてもおいしいの」
ジャスミンが勧めると、恐縮しながらもキャロルはケーキを皿にのせて一口食べる。口にした途端、キャロルは頬をほころばせた。
「スポンジがふわふわでおいしいですね! クリームの甘さと果物の甘酸っぱさの組み合わせでずっと食べられそうです」
「そうよね。やっぱり一人でお茶をするよりも、楽しいわ。毎回は無理でも、たまには一緒にお茶をしましょうよ」
ジャスミンがねだると、キャロルは苦笑しながらうなづいた。
「たまにですよ。ジャスミンさまは寛容でいらっしゃいますが、本来使用人が王族の方と同じテーブルにつくなんてありえないことですし」
「見られてとがめるような人は、ノックなしに入ってこないからいいのに。おいしいけれど、たまには抹茶と和菓子が食べたくなるわねぇ」
「まっちゃとわ、がし? ですか?」
思わずぽろっともらした言葉に、キャロルは怪訝そうな顔をする。
(しまった!)
気をつけてはいるが、キャロルの前では気が緩んでしまっているのか、たまに前世のことを口にしてしまうことがある。
「前古い文献で読んだことがある気がするの。うふふ」
笑ってごまかすと、キャロルが感心した顔でうなづく。
「そうですか。ジャスミンさまはお勉強熱心でいらっしゃいますものね」
(キャロルで助かったわ)
ジャスミンはふうっと額に浮かんだ冷や汗を、こっそりとハンカチで拭く。しっかりもののメイドではあるが、ぼんやりしたところがある。ジャスミン前世にまつわる危ういことを漏らしてしまっても、ごまかしやすいのだ。
「料理長にお教えすれば作っていただけるかもしれませんねぇ」
「そうね。また文献見つけたら頼んでみるわ」
にこっとキャロルの提案に微笑む。
(材料さえあればねー。苦い抹茶が飲みたい。あんこ……あんこが食べたい……。東方にはもしかしたら似たような文化があるかもしれないわね)
思い出したらものすごく食べたくなってきた。父である国王に頼んで調べてもらおうと考えていたその時。
「ジャスミン!」
いきなり大声とともに部屋の扉が開いた。キャロルは慌てて椅子から立ち上がって先ほどのように、居ずまいを正す。
王女であるジャスミンの部屋を、ノックもなしにいきなり開ける不届き者は、家族を除けば一人しかいない。
「はぁー。またなのね」
ジャスミンが呆れていると、部屋に入ってきたのは予想通りの人物だった。
「ジャスミン! 会いたかったぞ!」
「おはようございます。リュディアスさま。今日もお元気ですね」
あっという間にジャスミンの近くにやってきて、勢いよく抱きつかれたが、手に持っていたティーカップは幸いほとんど空だったため、こぼれることはなかった。慌ててカップをソーサーに置く。
赤銅色の肌。長身の強靭な体は、そこら辺の貴族の子息とは違う、実践で鍛えられたものだ。硬そうな黒い髪と切れ長の青い目。精悍な顔つき。
背中から伸びた大きな羽。鳥のものとは違い、黒くて太い骨格に同じく黒い皮膜がついている。
彼は希少な種族である竜。さらにいえば竜王だ。ずっと人間とはかかわりなく暮らしていたが、二年前ジャスミンと出会ったことから、ヴァ―リアス王国と取引するようになった。それからは、取引にかこつけて何かと用事を作り、毎日のようにジャスミンの前に姿を現している。
「いつものことですけれど、婚約者でもない妙齢のジャスミンさまに抱き着かれるのはお控えくださいませ」
キャロルの苦言にも、リュディアスはまったく動じていない。平然と、
「番であるジャスミンに抱き着いて何が悪い? 本来なら婚約どころか、さっさと婚姻したいところであるのに」
ジャスミンに、女性ならばすぐにくらっときそうなほど、蕩けるような笑顔を向ける。
「愛しているぞ。ジャスミン。今日も美しいな。早く一緒に暮らしたい」
今日もめまいがするような、甘いセリフだ。
リュディアスの体をぐいぐいと押しやるが、ジャスミンの力ではまったく離れる様子がない。
「番だなんて、わたしは認めていませんから!」
(しまった。いいすぎたわ)
言った本人も口に出した後反省したほどの、まったく可愛くないジャスミンの発言も、リュディアスは気にしていないようだ。
「つれないことを言うんじゃない。素直でないお前も可愛らしいがな」
「可愛くありません! リュディアスさまとわたしが番だなんて、分からないじゃないですか。別に証拠もないから、勘違いかもしれないのに」
先ほど反省したばかりなのに、また失礼なことを言ってしまう。なぜだか、リュディアスの前では普段のジャスミンであれば口にしないようなことを言ってしまうことが多い。リュディアスは気にしている様子はないが。
微笑んだままで、
「いつも言っているだろう。わたしには分かるんだ。お前はわたしの唯一無二の番だ。ずっと探していた。間違うはずがない」
「……」
まっすぐに見つめられて、ジャスミンは思わず心臓が止まりそうになる。
「はいはい、兄上。今日も執務が溜まっております。参りましょう」
いきなり現れて、べりっとリュディアスをジャスミンから引き離したのはリュディアスの弟のエリクだ。長い赤毛をポニーテールにしている。リュディアスと同じく竜族のため、背中には羽が生えている。
「今日もお邪魔をしてしまって、申し訳ございません。少し目を離したすきに。これで帰りますので」
「待てエリク! オレはまだ五分もジャスミンと話していないぞ」
バタバタと暴れる手首をしっかりとつかんではいるが、リュディアスのほうが体格はいいため、連れて行くのは困難そうだ。
「ジャスミン!」
「はぁー……。この声は……」
廊下から響く大声に、ジャスミンは顔をしかめた。先ほどと同じくノックもなしに扉が開く。
栗色の髪に、ジャスミンと同じ緑色の目。顔をのぞかせたのは、想像通り兄のウォーレスだった。
(あー。話がややこしくなるー)
こっそりジャスミンは顔をしかめた。
「もしやここに……。あ、やはりいらしていましたね。妹と面会するときは然るべき手続きをお取りください。それに婚約者でもあるまいし、年頃の娘と毎日のように面会することはお控えください!」
凛々しいまなじりを吊り上げているが、リュディアスは平然としている。見た目こそ二十五歳のウォーレスと変わらない年齢に見えるが、実際はかなりの年の差があるのだ。子供が騒いでいるようなものなのだろう。
「ほとんど私はジャスミンの婚約者ではないですか」
「私も父上も許可しておりません!」
「では、許可してくださいといつも申し上げております」
「そう簡単には参りません! ジャスミンには縁談が山ほど来ておりますし、よりよい嫁ぎ先を見つけなくては」
(仕方ない。嫌だけど猫かぶるかー。エリクさまもお兄さまも大変そうだし)
はぁー、とため息をついたジャスミンは、にこっとリュディアスに微笑んだ。軽く組んだ両手の上に、顎をのせて小首をかしげる。
「さすが竜王さまともなると、他の方にはお任せできない執務がたくさんおありで、大変ですよね。でも、お仕事されている姿素敵ですわ。頑張ってくださいませ。リュディアスさま☆」
その途端、子どものように駄々をこねていたはずのリュディアスは、でれっとだらしなく口元をゆるめると、竜王らしいきりっとした顔つきになった。
「うむ。頑張ってくる。またオレの城にも来てくれ。ではまた明日」
(明日も来るんだ……)
きびすを返して、早足でジャスミンの部屋から出て行く。
「何をもたもたしている、エリク! 戻るぞ! 仕事は山積みなんだ」
あきれ顔になったエリクは、
「お騒がせしました。失礼いたします」
とジャスミンに頭を下げると、小走りに部屋から出て行った。
「ちゃんと竜の島に戻るか見届けなくては。ではな。あとでまた来る」
慌ただしくウォーレスも出て行く。王子としての仕事も忙しいはずなのだが、なぜか暇そうだ。
「はぁー。ようやく嵐が去ったわね」
「毎日毎日愛情を示されたらジャスミンさまも、まんざらでもないのではないですか? イケメンですし、経済的にも絶対困らないですし―! 」
「他人事だと思って……」
普段は落ち着いているキャロルだが、やはり若い娘だ。色恋沙汰になると生き生きしている。
「リュディアスさまがどうとかではないのよ。わたしはだれとでも結婚する気はないの」
「ジャスミンさまは、未成年のうちからまたそんなことを言ってー。第一王女であるジャスミンさまが結婚しないなんてことはいけませんよ。まぁ国王さまもウォーレスさまも邪魔しそうですが。それにジャスミンさまのお子さまのお世話したいですし」
「結婚どころか婚約もしてないのに気が早い……。さっさと結婚して、自分の子どものお世話すればいいじゃないの」
ぶつぶつ言っているキャロルには、恐らくジャスミンの声は届いていないだろう。
「おくるみを作るなら、やはり布地はマーブル国産ですね! 刺繍に時間がかかりますし、もう制作に取り掛かったほうが……」
などと、キャロルは妄想を膨らませてしまっているので、ジャスミンはしばらくそっとしておくことにした。
「結婚、ねぇ……」
出会ってからほぼ毎日リュディアスは、ジャスミンに会いに来てはあのように「好きだ」だの「愛している」だの言いにくる。竜王という、忙しい身であるのに。
マカロンをかじりながら、ジャスミンはリュディアスとの出会いを思い出していた。