彼女と彼
放課後の芸術棟、その廊下は静かだ。
しかしどこかの扉が開けば、例えば幾重にも重なった音の波が、たいして広くない廊下を津波のように勢いよく流れていき、例えば激情をのせた誰かの人生のワンシーンが、やはりたいして広くない廊下を満たすように広がっていく。
あるいは敷かれたカーペットとローファーの靴底が擦れる微かな音や、その動作によって起こる布が擦れる僅かな音が、誰にも聞かれることなく広くない廊下に溶けていく。
放課後の芸術棟、その三階は音楽の階だ。大きな音楽室が二つ。一つは全国で優秀な成績を修めている合唱部が、もう一つはこれまた全国で優秀な成績を修めているオーケストラ部が練習に勤しんでいる。
そんな芸術棟の、三階にある、六つの小部屋は、その扉に【レッスン室】というプレートがかけられており、それぞれ室内にはグランドピアノが一台と、譜面台が四台、パイプ椅子が十脚用意してある。
それは【レッスン室F】も同じで、そのグランドピアノは淑女が小走りで駆け下りるような戦慄を奏でていた。下りきった足音は今度は滑るように音階を上っていく。その勢いはだんだん弱く切なくなっていき、大きく揺れていた淑女のシフォンスカートがゆっくりと静けさを取り戻すように、空間に溶けていった。
ワルツ第7番嬰ハ短調。フレデリック・ショパンの生前最後の出版となった曲の一つ。
そして、20年という彼女の人生の中で一度だけ出た、というより出させられたピアノの発表会で弾いた曲の一つ。
いまだに指は覚えているもので、こけることなく弾くことが出来た彼女は満足そうに、どこか張りつめていた彼女の周りの空気を解放した。
宙に浮いていた視線を窓に流せば、その枠に切り取られる景色にはオレンジ色が被さっている。
彼女は椅子から腰を上げると、閉じているピアノの天板の上に広げた私物を、目についた物から順に鞄へ放り込んでいく。
数冊のノートを入れ、それからペンケースにしているポーチを手にした時、その柄に思った。マカロンって可愛いよね、と。
色とりどりのマカロンが描かれたポーチを鞄に入れ、音楽プレーヤーにイヤホンコードを巻きつけながら、彼女の思考はマカロンに支配されていく。
まず色が可愛い。あんな淡くて優しい色が可愛くない訳がない。しかもその優しさを証明するかのような甘さ。かじればそのフレーバーはふわっと上品に広がるくせに、その甘さは主張控えめに舌を楽しませてくれる。ふわふわした微笑みを浮かべる少女のように可愛い。かじった時のほろっとした食感も可愛いし、挟まれたクリームのしっとりとした食感も可愛い。サイズも可愛い。
食べたいなぁ、マカロン。可愛いし。可愛いマカロン食べる私も可愛い……って気になれるから気分いいし。可愛いって言ってる私可愛いっていうのと一緒。真実を告げる鏡なんかより可愛いマカロンを手にした方が毎日心穏やかに過ごせる。マカロン、あんたは偉大だよ。
買って帰ろうかな。最近心が寂しいし。いや、でも、どうせならチョコレートがいい。チョコレートは脳を騙してくれるし。騙された脳によって心もハッピーになれる。チョコレート、あんたも偉大だよ。……ケーキも捨てがたい。
次々に思い浮かぶ甘い誘惑は、彼女の知らぬうちに口から零れている。耳から入ってくるそれは、彼女の意識をどんどん目の前から遠ざけていく。それでも勝手に手は動く。
お茶して帰ればいいんだな。
そんな結論にたどり着いた時にその声は聞こえた。
「俺も行く」
突然意識に入ってきたそれに、鞄のファスナーを閉じようとしていた彼女の手が止まった。勢いよく顔を向けるとそこには、いつの間に入ってきたのか、扉のすぐ横の壁に寄りかかっている細身のシルエットがあった。
黒のワイシャツに黒のスキニー。黒の髪はワックスで緩やかに遊んでいて、黒のスクエア眼鏡は顔の印象全てを霞ませる。
そんな黒尽くしの青年は、彼女にゆったりとした足取りで近づくと、黒い薄布に包まれた腕を黒い天板にのせ、彼女を覗き込むように体重をかけた。
「甘いものを欲するなんて珍しいね」
黒縁メガネの向こうにある、茶色が強めの瞳は笑っている。
彼女は眉を顰めた。
「私だって食べたくなるのよ、甘いもの」
「俺は苦いものをわざわざ食べたくならないけどね」
黒い青年はその苦みを思い出したのか、僅かに顔を顰めた。それからその苦さそのままに笑んだ。
彼はいつも甘いものを食べている。
喫茶店に入れば、彼女はコーヒーを、彼はイチゴパフェを。
ファミレスに入れば、食後に彼女はコーヒーを、彼は生クリームに包まれたケーキを。
その際、彼の飲み物はどちらもミルクティーだ。角砂糖を5つ入れた甘々の。
ダークチョコレートの存在意義が分からない、と彼から溜め息と共に告げられたのは、確か、まだ出会って間もなかった頃だ。彼女が食べていたカカオ70%のチョコレートを見て言った。
あのときの彼もこんな風に笑っていたなと、彼女は目の前の笑みにほんの少し幼かった頃の彼を見たところで不意を突かれた驚きから解放され、もう締まっている筈だったファスナーを締めた。
「君の誕生日にはせんぶり茶を……」
「要らないわよ!」
彼女は鞄を肩にかけ、彼の横を颯爽と通りドアノブを捻った。
「何を怒ってるんだ?」
「怒ってない!」
確かに彼女は甘いものより苦いものを好んでいる。が、苦ければいいってものではないのだ。せんぶり茶を美味しいとは思わない。ただの嫌がらせだ。一体何の罰ゲームだというのか。
彼女はその憤りを表すように乱暴に扉を開き、たいして広くない廊下を左へ進んだ。
そんな彼女を見届けた彼は、開かれたままの扉を見て喉の奥で笑いながら、消えた姿をなぞるように優雅に足を進めた。