砕け散れ、本物の夏
田舎にある実家の最寄駅に降り立つと、ふと懐かしい匂いに包み込まれる。
そう──たとえば本物の夏というのは、そのようなシーンから始まる。
夏というのは、たんに暑いだけではない。騒がしいだけの季節ではない。もっと、心の柔らかいところを刺激してくれるような、そのような季節だったはずだ。
にも関わらず、僕たちは未だ「本当の夏」を知らない。知らない、というと語弊があるかもしれない。僕たちの頭の中には「本物の夏」が存在している。
たとえば六畳の畳の上で寝転びながら扇風機に当たって昼寝をしてしまったりだとか。
風鈴の音色を聴きながらお爺ちゃんや友達と将棋を指したりだとか。
蝉の鳴き声が耳に入ると自然に汗が浮かんでしまったり。
はたまた空に浮かぶ入道雲を意味もなく観察したりだとか。
あるいは幼馴染の女の子に海に誘われて人気のない砂浜で甘酸っぱくて穏やかな時間を過ごしたりだとか。
もしくは夜になるとどこかで花火が上がって、お風呂上がりの女の子の浴衣姿にどきりとしてしまったりする。
ともかくそういう〈夏のヴィジョン〉が、いつも僕たちの心を乱しているのだ。
けれど、結局のところ、夏にはわれわれが渇望する青春などやってこない。
僕たちは「本物の夏」という、胸を締め付けるような、懐かしい何かを夢見ながら、けれどその一切を(または一部を)体験することなく8月31日を終え、虚無のどん底で絶望するのだ。
一年に一度だけ夏はやってくる。
僕たちが過ごす夏は色褪せていて、年を重ねるごとに色を失っていく。
僕たちはあと何回夏を過ごせるだろう?
それが多いのか少ないのかは、人によって異なる。
そして、「まだこんなにたくさん夏がある」と思うのと、「もうこれだけしか夏がない」と思うのは、また別の話だ。
今年の夏を振り返ってみる。
平成最後の夏だった。
特別な何かがあるような気がした。
まだ見ぬ何かが起きるような気がした。
運命の誰かと出会えるような気がした。
そんなものはなかった。
けれど。
もしかしたら。
ひょっとしたら。
世界のどこかには、そのような夏を経験したことのある誰かがいるのではないか?
そんな空想が僕たちの脳裏を掠めている。
「こうだったらよかったのに」
「このようなことが起きるべきだったのに」
そうしたもしもの積み重ねが、僕たち青春ゾンビの心を締め付けている。
一人で田舎の駅に降り立って、古臭いプラットホームに安堵して。壊れた自販機が何年も放置されていて、ちょっとだけ懐かしさを感じて。そうした感傷の積み重ねが、夏をより寂しくさせている。
片側一車線の寂しい道には、一時間に数回だけ車が通る。麻痺していた心が解けていく。
あるいは田んぼ沿いを女子校生が自転車で駆け抜けていく。振り返ると少しだけ甘い匂いが鼻腔をくすぐってゆく。
海岸に出て一人夕陽を眺める。そのようにして夏は終わる。
何かが起きそうで、けれど何も起きなくて。
誰かと出会えそうで、けれど誰とも出会えなくて。
太陽が水平線に沈むと、どこからか破裂音が聞こえてくる。花火大会を兼ねた夏祭りの喧騒に、次第に耐えられなくなる。
誰もいない海で、僕はぽつりと呟いた。
「砕け散れ、本物の夏」
そう──たとえばここで、いないはずの女の子がひょっこりと顔を出して、僕たちは出会うべきなのだ。